書を読む背中に、あたたかさが触れる。それが炎によるものだけではないことを、半助は鼻腔をくすぐる香で知った。振り返り囲炉裏に視線を送ると、もうもうと湯気の立つぶりのアラが今まさに鍋の中に投入されたところだった。
「今夜はずいぶんと豪勢だなあ」
 頁をひらいて床に置き、そちらに近寄って、昂奮しているとわかるきり丸の手もとを覘きこむ。きり丸は、「年に一度の贅沢っすよー」と笑いながら、刻んだ野菜類――葱、大根などをほんとうにこまかく刻んで暈を増やしたもの――を俎板から滑り落としてゆく。
 アルバイトから帰ってきた時、「すっげーいいもんもらいました!」と満面の笑みを浮かべていた理由を、半助はようやく理解した。いったいどうしたのだと問うたけれど、にやにやと笑ばかりですぐに腕まくりを始めてしまったきり丸にそれ以上言及できず、特に食事については彼に任せきりのところがあったから、放っておいたのだ。
「いつも行く魚屋さんでね、寒ブリが入ってたからそのアラをわけてもらったんす」
 骨の目立つアラが、野菜屑の浮ぶ湯に沈んでゆく。虚ろに宙を見上げていたカシラの目玉もやがて匙に沈められ、味噌が溶かし入れられる。途端にあまい味噌の香が、狭いへやじゅうに拡がった。
 きり丸の、料理をする時の手際はたいへんによく、料理だけにとどまらず洗濯、掃除といった家事全般において彼は半助が目を瞠るほどの手早さでやってのけた。教師としてあるまじき考えかもしれないけれど、勉強ができないということがさほど重要なことに思えなくなるほど、彼は生活をすることにひどく、長けていた。
 囲炉裏端に胡坐を掻き、くつくつと煮えはじめるアラ汁を丁寧にかき混ぜるきり丸の、その手もとをじっとみつめた。かさかさに乾燥したちいさな手だ。血管と骨の浮いた薄い甲。指先のあかぎれから血が滲んでんいる。休みのあいだに詰めこんだ洗濯と子守のアルバイトの名残りを、それに感じる。
「きり丸、あとはわたしが掻き混ぜているから、すこし手をやすめなさい。軟膏出してやるから、それ塗って」
 匙を変わろうと差し出した右手から逃げるように、きり丸はさっと身をひいた。「え、なんでっすか」。手とおなじくして乾いた唇から、単純な疑問文が吐き出される。
「見ていて痛々しい。血が滲んでるじゃないか」
「血ぃ? ああ、ほんとだ」
「気づいてなかったのか」半助は呆れてため息をついた。「おまえは、わたしにアルバイトの代理を頼んだり、宿題を忘れたり、授業中に寝たりするくせに、時々呆れるほどばか真面目で自分に無頓着だな」
 ばか真面目という言葉にきり丸は唇を尖らせたけれど、匙を持つ手はとめない。
「あかぎれとか、さかむけとか、そんなもん気にしてたら生活なんかできないっすよ」
「……まあ、それもそうだが」
 仮にも忍び、そしてこんな時代だ。みんな生きることに必死で、多少の不自由や苦労、痛みなどはこらえて平静を装っている。女も子どもも、大人の男と同様に泥にまみれ、疵を負いながら、それでもいちにちいちにちを食い繋ぎ積み重ねてゆく。
 誰だって、そうだ。半助もそうであり、きり丸もまた同じである。
 生活をしてゆくこと、ただ生きて、飯を食ってゆくことが、そんな単純な積み重ねは、単純であるがゆえにくるしくむつかしい。生活のために働いて、生きるきり丸はまだ十の子どもであることを、半助は時に忘れてしまう。その姿に大人の諦めと、子どもらしい無垢さの混同したものを感じとって、せつなくもなるのだった。
 アルバイト先で仕入れた知識を、夕食の時に話して聞かせる瞳はきらきらと輝いていて、けれど唐突にふっと影を落とす。その落差に半助が気づかぬわけがなく、その都度気に掛けてはみるものの、能天気な声で「だいじょぶっすよ」をくりかえすのだからやはりため息が出てしまうのだった。
 この子のためにできること、を考えて、何もできやしないことを知った時の失望を、半助は未だに憶えている。きり丸と一緒に暮らし始めて間もなくのことだ。
 初夏の連休、アルバイトに精を出すきり丸に、「すこしは仕事を控えなさい」と声を掛けた。おまえはまだ子どもで、学生なのだからという意味もこめて。
 教師として、一人の大人として、それは正論であると自負していた。けれど強くいえなかったのは、働かなければ彼は忍術学園に通うことができない、という事実があったためだ。
 半助はすべてを理解できるだけの大人であったし、きり丸もまた、半助がそういう大人であると理解できる程度には聡明だった。だから、あの時も、いつもの能天気そうな声音で、「はあい」と返事をしたのだろう。
 代わりに金を出すこともできない自分には、せめて寒くなく雨風を凌げる寝床を提供するくらいしかできることなど、ないのだ。半助はその事実を事実として飲みこんだ。咽の奥ににがい味が拡がった。そうしてその苦味は胸に、重苦しい澱のようにとどまり時折り顔を出しては半助をくるしめた。
「……ようし、いいかな」
 煮こぼれる寸前のところでアラ汁を火から下ろし、雑穀だらけの雑炊――二日前からの残りだ――を自在鉤に吊るした。縁の欠けた椀に汁をそそぎ、間髪入れずに半助に手渡した。
「はい、もったいないから熱いうちに!」
 濁った汁の中で、ぶりの逞しい骨が泳いでいる。身はほとんど削げ落とされ、廃棄される一歩手前の状態であることは明白だった。けれど一口啜って、半助は「美味いっ」と声を上げた。
「うん、美味いよきり丸。ぶりから出汁がよく出ている」
 吝なきり丸は味噌も普段から少量しか使わないけれど、それを補って余りあるほどぶりからも野菜からも出汁が出ていた。きり丸は得意げに笑うと、「あったりまえでしょー、俺が作ったンすから!」と匙で雑炊を底から掬った。
 雑炊は水気が多く、ぬめりも出てきていたけれど、ふたりはしばらくもくもくとあたたかい飯を頬張った。湯気でへやが満ちてゆく。
「あぁあ、ほんとに美味い。久しぶりに魚を食べたなあ……」
「先生、でもきょうは特別っすからね。普段はめったにないですからねこんなの」
 太い背骨をしゃぶりながら、きり丸は釘を刺す調子で言う。わかっているよ、と頷いたけれど、半助は、ほんとうはアラだけではなく、身の付いたぶりを食べさせてやりたいのだと心中でため息をつく。半助も元来貧乏性で、金に苦労をして生きてきたから、質素な食事を特別苦に思うことはない。けれど目の前にいる、育ち盛りの少年の胃袋を満たしてやりたい、何も気にせず腹いっぱい美味しいものを食わせてやりたい。そう思うのは大人の過剰な自意識であるとわかっていつつも、乾いて血が滲んだ手をみつめ、考えてしまう。
「きり丸は、板前の修行でもしたらいいんじゃないか?」こまかすぎて箸で摘めない大根を、汁ごとくちに含んで半助は笑った。「それでそのうち、自分の店でも出してさ」
「えー、厭っすよそんなの。おれは」
「やっぱり忍びのほうがいいのか?」
 うーん、と低く呻ってすこしばかり考えるような素振りをみせる。
 板前の修業などとうぜん冗談であったけれど、このまま自分で学費を稼ぎながら忍術の勉強をし忍びになる未来と、どこかに棲みこみで修行をしにゆき、小料理屋などの自分の店を持つ未来。将来の可能性が彼にはまだあることを今さらながら思い知る。わざわざ危険な忍者の仕事に就かずとも、今から苦労をして小銭を稼がなくとも、むしろ後者のほうが彼にとって幸せなのではないかとさえ、考えたのだった。
「……先生、おれって忍びに向いてない?」
「いや、そんなことはない。というか、そういうつもりで言ったわけじゃないよわたしは」
 慌てて言うと、きり丸は「わかってますよー」と八重歯をみせた。
「先生がそんなこという人じゃないってくらい、おれにだって」
 でもねぇ、と、言葉をつづける。
「おれってご覧のとおりドケチだし、商売は、まあむかしっからやってきてるから馴れてるし、そういうのも、おれにはいいのかなって思わなくもないんすけど。でもね、おれ、先生のため以外には美味しく飯つくろうとは思わないんすよねぇ」
 半助の箸を持つ手がにわかにとまる。思わずきり丸の顔をみつめるけれど、彼は一心に汁を啜るばかりで、自分の発言についてまるで頓着していない様子だった。
「……そうなのか?」
 ぽつり、と言葉をこぼせば、きり丸は、「そりゃそうっすよ」と無垢に笑う。
「おれを家に置いてくれて、こんだけお世話ンなって。おれ、何かお礼したくてもこのくらいしかできないっすもん」
 損得勘定にこだわるきり丸らしい言葉だ。思わずくちの端が持ち上がった。
「そうかぁ」
 と、半助は言った。
「そうっすよ」
 と、きり丸は言った。
 ずずっと音を立てて汁を飲み干す。椀の底に溜まった野菜屑も箸の先で掻き集め、きれいに食べつくす。からだの奥がほかほかとあたたまっているのを感じる。気がつけば額には薄っすらと汗をかいていた。
「ああ、美味かった。ごちそうさま」
「はい。お粗末さまでした」
「きり丸はもっと食べなさい。あすの朝飯はわたしは要らないから」
 どうせあすの朝早くには家を出て、学園に向かわなければならない。けれどきり丸は歯を剥いて、「何いってんすかだめっすよもったいない!」と叫んだ。
「残りはちゃんとふたりの朝ごはんにすんですから!」
 そうしてまだ湯気の立つ鍋に蓋をして、彼は自分と半助の茶碗をまとめて立ち上がった。軽やかな足取りで土間に向かう背中を眺め、半助は誰にも気づかれぬよう、息を殺して笑った。



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