夢の余韻が、目を覚ましてからもずっと続いていた。かなしい夢だった。とても。そしてそれは幾度となくくりかえし見た夢でもあった。きり丸は、だからもう慣れっこで、ああまたか、またこの手合いかと夢の中で冷静に思った。
真っ赤な炎が村を焼き尽くすのは一瞬の出来事だった。きり丸は燃え盛る火がすべてを崩し、破壊してゆくのを幼い瞳でじっと見ていた。なにもできない、無力さを感じた。ひとりだけ生き残ってしまったというかなしみと罪悪が胸にべったりと張りついて、いつまでも褪せてくれなかった。けれど、こんな時代だ。似た境遇の子どもなんていくらでもいた。餓えたり、雨風に晒されたり、寒い思いをしたり、悪い大人に捕まったりも珍しいことでない。死なないだけマシと思った。だから耐えた。生き延びてやると強く思った。ほとんど意地のように。どんなことをしてでも生きて、生きて、生きて――。
あの時の夢を見て目を覚ますたび、寝床に横たわる自分の体をしみじみ不思議に思った。うすい掻巻布団が寒さから身を守ってくれている。呉座を通してひんやりとした床板のつめたさを感じる。
ぺらぺらの手拭いにのせた頭を、ことん、と右に傾ける。視線の先には見慣れた横顔があった。くしゃくしゃの、癖のある髪の毛は手入れがなされていない。閉じられたまぶたは、けれどきり丸が声をかければすぐに開けてくれると知っていた。
暗がりの中でもその人の存在はたしかで、顔や体の輪郭を想像の中で辿るのだってたやすかった。それほど親しみを感じられる大人とは、親を失ってはじめて出会った。
せんせい、と唇を動かす。起こすつもりはなかった。それなのに、隣で眠っていた大人はそろりと目を開ける。きり丸のほうに顔を向けて、「どうした」と、問う。少しばかり掠れた、しかし穏やかな声だった。
「新聞配達に出るには、さすがに早いんじゃないか?」
体を横向きにして、ちいさなあくびをこぼす。闇の深さが、夜明けにはいくらか遠い時刻であることを教えている。
きり丸は出かかった言葉を「ん」と飲みこんだ。どうして、起きちゃうの。気づかないままでいてくれたらよかったのに。どうして、おれのほしいものがわかっちゃうの。さみしい、怖い、っていくら言ったって、どうにもなんないのに。
「……こっちに来るか」
大人は片腕を上げて布団を軽くめくり、きり丸が収まる程度の小さな空間をつくった。問いかけてくれるのがうれしかった。きり丸の意思を無視して腕を引っ張らず、こちらで選択させてくれる大人のやさしさと配慮が、ありがたかった。
「うん」
きり丸は控えめに頷いた。そうして、大人がこしらえてくれた空間に身を沈める。体温が移った布団の中はあたたかかった。膝を抱えて丸くなった。大人との距離はないに等しかったが、触れあっているのは体温だけで、皮ふを侵すことはなかった。
触れてもよかったし、触れられてもべつによかった。視線をわずかに持ち上げて目を合わせる。夜の重たい闇の中で、大人の瞳が不安げに揺れていた。
「なんで、先生がそんな顔するんすか」
おかしくて、つい、生意気な言い方をしてしまう。そんな不安そうな、心配そうな、泣きそうな顔、あなたがすることないじゃない。
「不安にもなるさ」
大人は固い床に頭を預けて、ひとりごとみたいにつぶやいた。
「私は大人で、お前はまだ子どもなのだから」
きり丸は聡い。大人も不安なのだ。そんなことはとっくにわかっていた。大人がこれまでしてきたひどいことを、自分もまたこの子どもにしてしまわないかと。意図せず、子どものたいせつなものを奪いやしないかと。でもそんなこと、あなたはけっしてしないじゃないか。
「あんまり心配しすぎると、ほんとのほんとに、胃に穴が空いちゃいますよ?」
ばか、と大人は呆れたように言った。
「お前たちがしっかり勉強して、一人前になってくれるのがいちばんの薬だよ」
眠りなさい、朝起きられなくても知らんぞ、と続ける。親のようにも、教師のようにも聞こえる口調で。はあい。きり丸はすなおに返事をし、まぶたを下ろした。
まなうらで、赤い炎が動物の尾のようにちろちろと揺れた。――いつまで、あの夢を見続けるだろう。いつまでも、見続けるんだろうか? おれが大人になっても? 父や母、親戚たち、一緒に野を駆け回って遊んだ近所の子ら、井戸端会議をするおばちゃんたちの笑い声。顔馴染みばかりだった、小さな村だったから。木苺がたくさん生っていた茂み、いつか見つけた樹の洞は深くて大きくて、大人には絶対秘密の場所だった。子どもだけのたからものは、みんなそこに隠したっけ。
忘れられないものが、今でもずっと息づいている。その限りきっと、何度も夢を見るのだと思う。
うす目を開けて、斜め上にある大人の顔を見つめた。目は閉じられていたが、きり丸の視線には気づいているはずの大人は、規則正しい呼吸をくり返す。額、鼻筋、頬、唇、顎。どの部分もいつのまにか見慣れたものになって、きり丸に安心感を与える。
「先生。あのね」
夢を話をしようか、と思った。怖かった、さみしかった、と言ってみようか。
「うん」
大人は低い声で返事をした。あまりに静かな声だった。
「……あったかいっす」
逡巡ののち、きり丸は布団を顎に引き上げた。ほんのりと汗のにおいがした。
「そうだな」
「おやすみなさい」
おやすみ。返ってきた大人の声を聞いてふたたび目を閉じる。すると途端に眠けが全身を覆った。やわらかな眠りの波が足もとを浚う。波が引くのに連れられてゆく砂つぶが足の裏をくすぐって、こそばゆかった。
寝入る直前にきり丸が見たのは、そんな穏やかな海辺の景だ。細やかに立つ波に光が弾けていた。まぶしい。見たこともない、行ったこともない、とてもうつくしい場所。
波と眠気は交互に、等しい間隔で打ち寄せ、きり丸は沖に向かうように眠りへと入っていった。波間に沈み、浮かび上がり、また沈む。心地好くて、やさしくて、懐かしくて、すこしせつなかった。
「お前は、どこにいてもいい。いたいところにいて、行きたいところに行けばいい。けれどもしお前が、ほんの少しでもここをわが家と思ってくれているのなら、いつでも帰っておいで」
大人の声が聞こえた気がした。夢かもしれなかった。目を開けて「今、なんか言いました?」と訊ねたかったが、落ちてくるまぶたの重みに耐えられそうになかった。今のは夢? でも、ありがとう。夢でもうれしい。おれ、先生の側にいていいんだ。ここにいたいって思ったら、そうしていいんだ。
波は行ったり来たりしてきり丸の体を撫で、揺らした。弱い力だったが、抵抗しようとは思わなかった。きり丸はやがて完全に意識を手放し、眠りに身を委ねた。
(25.0124)