薄氷を踏む

 路傍に咲き乱れていた彼岸花は、季節のうつろいとともに散った。つめたい風が野原に群れる枯れ芒を揺らして、ついでのように、笠の下にある利吉の頬を撫でる。冴えざえとした空気が、冬が深まりつつあることを利吉に教えていた。
 今年の秋はあまりにもあっというまで、時間とはなんと残酷でやさしいのだろう、と、ふいに思う。利吉はてのひらで頬をさすった。くびすじを辿って、鎖骨をなぞる。そうして、体のどこにも痛みや傷がないことをたしかめる。
 ひと月ほど前にタソガレドキ忍者隊の組頭との戦いで負った傷は、今ではすっかり癒えていた。傷はどれも浅く、ずいぶんと手加減されたものだとわかった。そうでなければ自分はあの時、命を落としていたかもしれない。
 あの時、と利吉は記憶を辿った。あの時、自分は必死だった。圧倒的な力の差を感じてはいたが、命を賭してでも食い止めると心に誓っていた。自分など、だからいっそう死んでもよかったのだ。彼を守れるのならば。
 死んでもいい、という考えは忍者にとって褒められた考え方ではない。しかし、差し違える可能性を視野に入れないわけにはいかなかった。
 天鬼と名乗るドクタケ忍者隊の軍師の正体が土井半助だと知らされた瞬間、利吉の脳裏にはじつに様々な悪い予感が過ぎっていった。それらはどれも、「彼を失う」という結果に至るもので、今思いだしても、背筋につめたいものが這い上がってくる。
 雑渡と一戦を交えているあいだ、利吉の頭には目の前の敵を通して土井半助の姿を見つめていた。半助を失うかもしれない恐怖が全身を覆ういっぽうで、彼の笑顔がまなうらにちらついて離れなかった。どうしてももう一度、あの笑顔を見たいと思った。眉尻を下げて、少し困ったように笑う、彼のやわらかな微笑みがすきだった。たまらなく、恋うていた。
 戦いの末、我にかえった半助は「天鬼」の名と姿を捨て、「土井半助」に戻った。それから、ひと月と少し。忍術学園は冬休みに入り、半助はきり丸とともに自宅である町長屋へと帰った。日常が戻ってきたことを、先だって忍術学園の山田伝蔵――実父のもとを訪ねた際に、利吉も知った。
 請け負っていた仕事がすべて片づいた、ひさしぶりの休日であった。年末年始の帰省の件で伝蔵に話があった利吉は、すでに学園のどこにも半助の気配がないことに気がついた。そして伝蔵もまた、そんな息子の落ちつかないようすをいち早く察した。
「半助なら、もう家に帰ったぞ」
 うすい茶を啜りながら、伝蔵は利吉に告げた。え? と、利吉は目をまるくさせる。
「半助に会いにきたのだろう?」
「いえ、私は、」
 我が父ながら、感情のかすかな揺らぎに気づく鋭さはさすがであった。
 あんな事件があったというのに、利吉は半助と差し向かってゆっくり話すこともかなわず、己の仕事に戻らざるを得なかった。生徒たちと一緒に学園に帰る半助の姿を見送ったのが、彼と顔を合わせた最後だ。
 本音をもらせば、会いたい、と。そう強く思っていた。
「私は母上からのお叱りの言葉を、父上にお伝えするために伺っただけです」
 息子のわかりやすい強がりに、伝蔵はふふ、と笑った。利吉が半助を慕い、会いたがっていることは誰よりも伝蔵が知っていた。会いたいという気持ちをきつく押し殺していることをも。
 そうして利吉の帰りしな、彼に向かって「会いに行ってやんなさいな」と声をかけたのだ。それはそれはやさしい声で。父の言葉は、利吉の背をとん、と押した。
 
 弟が兄を恋い慕う、あまったるい感情があふれるのを抑えきれず、利吉は今、彼の住まう町長屋へと続く一本道を歩いている。そんな自分を、つくづく未熟者だと思う。半助に知られたらまた子ども扱いをされるにちがいない。しかし、それならそれでよいとさえ思った。
 ザァッとひときわ強い風が吹き、原っぱの芒を薙ぎ倒した。笠のふちを指で押さえ、利吉は残り数里の道をまっすぐに歩いていった。

 
 
「土井先生っ」
 町長屋の井戸端で見慣れた背中を見つけた時、利吉は思いがけない声量で彼を呼んでいた。半助がふり返るのと、駆け寄った利吉が彼の背後に立つのとは、ほとんど同時だった。半助は「やあ、利吉くん」と言いながら立ち上がり、ついで呆れたように笑った。手にはきつく水を絞った筒袖が握られていた。洗濯の最中だったらしい。
「ひさしぶりだね」半助は微笑んだ。「しかしそんな大きな声出して、きみらしくもないな」
 利吉は「あっ」と赤面した。
「申し訳ありません。あなたの背中が見えたのがうれしくて、つい」
「私の背中?」
 半助は自身の後ろを見やって、「べつになにも背負ってないけどなあ」とおどけてみせた。
 ――ああ、戻ってこられた。
 胸の奥で、安堵が広がった。
 この人はもう、天鬼などではない。「土井半助」だ。土井先生、だ。
 半助は欠けばかりが目立つ木桶に筒袖を入れると、首にかけていた手拭いで濡れた手を拭き、あらためて利吉に向き直る。
「ひと月ぶり……かな。来てくれてうれしいよ」
「報せもなく、ご迷惑ではなかったですか」
 いやいや、と首を振る。
「あの件以来、なかなかいとまが取れず申し訳なかったね。きみとも色々、ゆっくり話をしたいと思っていたのだが……」
 ドクタケ忍者隊と忍術学園の戦いののち、不在の空白を埋めるかのように半助は一年は組の生徒たちと過ごす時間を優先させた。授業の遅れを取り戻すため――というのも理由の一つだったが、なによりも、子どもたちに怖い思いをさせてしまったというすまなさが彼をそう行動させた。
 情緒も体も未熟な忍たまとはいえ忍びの端くれである子どもたちを、しかしいつまでも甘やかしているわけにもいかなかった。厳しさとやさしさとを使い分けながらの、冬休みまでの日々だった。
 利吉が半助を「教師」だと思うのは、こういうところだ。彼はプロの忍者であり、同時に優秀な教育者でもある。
「土井先生は、やはりどうしたって先生なのですね」
「山田先生――お父上には常々、甘いですよと言われてしまうのだけどね」
 半助は両手を腰に当て、作業で疲れた体をぐい、と伸ばした。長く息を吐き出して、眩しげに目をほそめる。視線の先には、うす水色の空に淡い雲がぽつぽつと浮かんでいた。
「うちに寄っていくだろう? 洗濯が終わるまで、少しだけ待っていてもらうことになるけれど」
 半助の言葉に、利吉は「ありがとうございます」と頭を下げた。
 
 

 囲炉裏を挟んで、利吉と半助は向かい合って座った。小ぢんまりとした部屋は掃除がよく行き届いていた。半助が不在のあいだも、長屋に戻った際にきり丸が窓を押し上げて換気をし、埃を払い、床を磨いていたのだという。
 それを知った半助は、冬休みに入ってすぐ嵐のごとき勢いでアルバイトに出かけたきり丸を見送ると、掃除に精を出した。いつもなら小言の一つや二つや三つ、投げかけていたところなのだが。
「せめてもの罪滅ぼしだよ」
 半助は言い、白湯の入った椀を利吉の膝の前に置いた。
「すまない、お茶を切らしていた」
「構いません。いただきます」
 うすい、粗末なうつわを両手で包み持つ。てのひらからあたたかさが伝った。白湯は渇いた喉を心地好く滑り落ち、潤した。
「……きり丸は、安心したでしょうね」
「そうだといいのだけどね。ほんとうに、あいつには心配をかけてしまった」
 今回の件で、半助の身をとりわけ案じていたのはきり丸だった。偶然とはいえ六年生の話を聞いたことで、不安の種をひとりきりで抱えることにもなってしまった。
 もしかしたら、もう会えないかもしれない。そんな不安を、幼い心に植えつけてしまった罪は重たい。自責の念が蔦のように胸に絡みつくのを、半助は、しかし自らふりほどこうとはしなかった。抗わずすべてを受け容れようと思ったのだ。
 日常が戻った途端、まるで何事もなかったかのようにアルバイトを再開したきり丸のしたたかさには呆れたものの、安心もしていた。キャンセルした分を取り戻さなくちゃあ! と意気込んで、今朝も早くから新聞配達に出かけていった彼を、この冬休みのあいだだけいつもよりほんの少し、あまやかしてやろうと思っていた。ほんとうに、ほんの少し、のつもりだが。
「さて、ではあらためて、だ」
 と、半助はにわかに姿勢を正した。唐突に張り詰めた空気を感じ、利吉もピッと背筋を伸ばす。まっすぐにこちらを見つめる半助の目を、見つめかえす。やがて、半助は頭を下げた。
「あの時はきみにも大変迷惑をかけた。ほんとうにすまなかった」
 利吉は両手を振って、「やめてください」と声を上げた。
「顔をお上げください、先生。私はなにも――」
 なにも、できなかったから――そう続けようとした利吉の声に、半助の声が被さった。
「助けてくれたじゃないか」
「え?」
「私が我に返った時、雑渡殿は毒入りの手裏剣を投げようとしていたのだろう? きみが止めてくれたおかげで、私は救われたんだよ」
 利吉は、ふるふると首を左右に振った。喉の奥から絞りだした声は、弱々しく掠れていた。
「……ほんとうは、もっと手前で奴を止めるべきでした」
 自分の力足らずを、あれからずっと不甲斐なく思っていた。たいせつな人を、守りたかった。危険な目に遭わせたくなかった。それが利吉の、行動の原動力だった。
 俯いて床の木目を睨む利吉に、半助は微笑んだ。
「……結果がどうであれ、利吉くんはきっとそうやって、自分を責めると思っていたよ」
 困ったようなその笑顔に、胸にあたたかくてせつないなにかが広がり、あふれた。その不思議な感情はつぎつぎと湧き出でて、とても抑えられそうになかった。そう感じた時にはすでに、涙がひとすじ頬を伝っていた。
 驚いててのひらで顔を覆ったが、涙は、ぽろぽろとあふれて止まらなかった。
「利吉くん」
「先生がご無事で、ほんとうによかった……っ」
 涙と一緒になって言葉が転がり落ちる。嗚咽の合間にも、せんせい、せんせい、と、声は勝手にもれてしまう。
 いい年をして、自分はなにをしているのか。利吉は心のうちで自嘲した。彼に会いたいという気持ちに突き動かされて、ここまでやってきた。冷静に向き合い、語らうつもりでいた。しかしいざ対面してみれば子どものように泣きだして、彼を困らせてしまっている。
「すみません……っ」
 袴の上に涙が落ちて、大きな染みができた。横柄に目もとを拭ったその時、左肩になにかが触れた。大きなてのひらは利吉の肩を撫でさすり、やさしく引き寄せた。体が、半助の固い胸に沈んでゆく。あたたかな体だった。外はあんなにも寒く、つめたいというのに。
 半助は利吉の肩を抱き、
「きみにも、怖い思いをさせてしまったね」
 幼い忍たまたちに語るような口調で、そう言った。鼻を啜り「私は、子どもじゃあないです」と訴えてみるが、彼の腕の中で小さくなっているこの状態では、まるで説得力がなかった。
「先生にもしものことがあったらと思うと、居ても立ってもいられなかったです」
 うん、と半助が頷くのを上目で見やり、利吉は掠れ声で続けた。
「私は、あなたを失えない」
 手が、半助の着物の袖口を掴んでいた。動きは遠慮がちだったが、その手は、もう離しはしない、という強さをはらんでいた。
「これまで、プロの忍者としてそれなりの経験を重ねてきたつもりです。怖い思いだって、当然、たくさん――」
 息を継ぐ。でも、と、利吉は言った。
「でも、今回がいちばん怖かった。あなたをなくすかもしれないことが、ほんとうに、怖かった」
 忍者としてあるまじき言葉を吐いていると、利吉はもちろん、半助にもわかっていた。それでも利吉には言葉を選ぶ余裕がなかった。今は、今だけは、忍者ではなくひとりの人間でありたかった。
 ただの人間として、ただの人間である半助の存在を尊び、抱きしめていたかったのだ。
「あなたを守りたかった。たとえあの時、雑渡と差し違えてでも」
「利吉くん」
 頭の上から、やわらかな声がふってくる。諭すような、嗜めるような声色だった。利吉は半助の目を見た。
「私も、きみを失えないのだということを忘れないでくれ」
 涙で霞む視界に、困ったような笑みを浮かべた半助がいた。眉尻を下げた柔い微笑み。利吉が見たいと願った、笑顔だった。
「ことの発端である私が言えたことじゃないんだが」
 と、半助は苦笑する。
「……きみが無事でよかった」
 ぶわり、と大粒の涙が目のふちに浮かんだ。それは押し留める間もなくこぼれ落ち、半助の着物を濡らした。

 「おにいちゃん」と彼を呼んだ、あの時。あれからずっと利吉は、あたたかくてせつないこの感情の留め方がわからず難儀していた。
 胸をいっぱいに満たす感情は、利吉を胎児の気持ちにさせてくれた。もちろん、胎児だったころの記憶などないから想像でしかないのだが、感情がひたひたと寄せてくる時はなぜかいつも羊水に守られている己の姿を、利吉はまなうらに描いたのだった。
 おにいちゃん、と、最後に彼をそう呼んだのはいつだったか――記憶に手を伸ばしてみると、彼と共に過ごしていたころの日々が自然と思いかえされた。当時、彼の頭は自分の頭の一つと半分ほど高い場所にあって、しゃべる時は必死に首を持ち上げて目を合わせていた。
「そういえば、ずいぶんとなつかしい呼び方をしてくれていたね」
 半身を抱かれた状態で指摘され、頬がぼっと赤くなる。涙をいくすじも流し、半助にしがみついているさまはまるで幼いころの姿そのものだ。恥ずかしさが今になって襲ってくるが、半助の力は思いの外強く、体を離すことができない。
「あの、先生。もう大丈夫です」
 肩や背中に感じる半助の体温から、利吉は身動ぎをして離れようとした。が、半助の腕はがっちりと利吉の体を押さえつけている。
「まだ泣いているじゃないか」
 目のふちに溜まった涙を、半助の指が拭う。節張った固い手だが、指の動きは繊細だった。
「……先生は私の、兄、ですから」
 俯いて発せられた利吉の言葉に、半助は目を細めた。
 利吉の胸にさざなみが立ち、ゆるやな速度で押し寄せてくる。体に帯びるあたたかさは、この感情のせいだ、と、ようやく気がつく。
 先生、と利吉は半助を見上げた。
「あなたを、お慕いしております」
 ほんとうは、きちんと居住まいを正してこうべを垂れたいところだった。半助の力強い腕が、それをゆるさなかった。しかし、気持ちを告げる瞬間は今しかないと思った。
 半助の腕に抱かれたまま、目を瞑った。胸の深い場所ではこまやかな波が絶え間なく立ち上がり、ひたひたと寄せては翻った。幾度も幾度もくり返される波の動きを、利吉は目を閉じたまま、見つめていた。
 締めつけるような甘い痛みとせつなさが、代わりばんこにやってきた。この感情に、名前をつけることはできなかった。どんな名をつけても、相応しくない気がした。
 おにいちゃん、と、声には出さず唇を動かしてみる。頬を半助の胸板に預けて、心音の滑らかさを聞いた。また、涙が滲みそうになった。彼が生きて、ここにいてくれることが、うれしかった。
「ありがとう」
 半助の穏やかな声が耳にこそばゆい。ありがとう、なんて、こちらのせりふだと利吉は思った。思ったが、なにも言わなかった。代わりのように半助の背中に手を伸ばし、とん、とん、と軽く叩いた。幼いころ、眠りにつく時には決まって彼がそうしてくれた。安心して深く眠れるまじないだと、半助はそう言っていた。
「ああ、なつかしいな」
 半助は笑った。
「おまじないかい?」
 はい、と利吉は言った。
「もう、悪い夢を見なくていいように」
「ふふ、そうだね。――ありがとう」
 半助の着物の袖口を、ふたたびぎゅ、と握りしめる。日が傾き始めているのを、細くひらいた窓からさしこむあかね色が告げていた。もうすぐ、きり丸もアルバイトから帰ってくるだろう。早くこの状態を解いて、長屋から立ち去らなければならない。それなのに、離れがたかった。半助の体温をこんなに近く、長い時間感じるのは子どもの時以来で、惜しかった。力強く、あたたかくてやさしいこの腕が、心底恋しかった。
「先生」
 羊水をたゆたう胎児の心地で、利吉はつぶやいた。言葉は、果たして音にはならなかった。半助が不思議そうな顔をして耳を寄せたが、利吉は「なんでもないです」と微笑んだ。
「……そろそろ、お暇します」
 てのひらで胸を控えめに押しやると、半助は存外すなおに腕の力をゆるめた。ふたりとも、物分かりのよい大人になったものだった。
 体温が離れていくと同時に、ひんやりとした空気が肌を刺した。
「また、いつでもおいで」
 そう言って、半助は利吉の頭に手を置いた。彼の前では今、自分は子どもなのだ。そう思うと照れくささで顔が熱くなる。しかし同時に、心の底からうれしいと感じる自分もいるのだった。
「また、会いに伺います」
 半助は頷いて、手を離した。この瞬間からはもう、利吉は子どもではなく一端の大人だった。離れたくないと駄々を捏ねることもない、安易に涙を流したりもしない。不自由で、窮屈で、息苦しい。しかしだからこそ、この人と同じ目線の関係でいられる。
 部屋の隅に置いていた笠を取り上げて、利吉は浅く息を吐く。涙の跡は、もう消えていた。

(25.0120)