春を纏う
春と呼ぶにはまだ少し気が早い、けれど厳しい冬の寒さはいくぶんか和らいだ、そんな日が続いていた。今朝も部屋の戸を開け放つと、半助の体を取り巻いたのはやわらかな早春の空気だった。萌しはじめた草花の、ほんのりと甘いにおいさえ携えた風はやわらかい。空はすこやかな水色をして、昇ったばかりの太陽の光が白く輝く。
縁側に立って大きな伸びをする。寒さに強張っていた体が空気に馴染んで次第にやわらかくなってゆくのは、どんないきものでも同じらしい。野山の動物たちが、気候に誘われて動きはじめる日も近い。
「ご機嫌ですな、土井先生」
いつもの黒い忍び装束に着替えた山田伝蔵が、半助の背中に声をかけた。心なしか、彼の声も軽やかだ。半助はふり返ると、照れたようすで頭を掻いた。
「ああ、いえ。いい気候だなあと思いまして」
「最近はすっかりあたたかくなってきましたなあ」
伝蔵も半助の隣に並んで空を仰いだ。
「春の訪れがうれしいなんて、なんだか子どもみたいですね」
苦笑する半助を見て、伝蔵は目を細めた。
「誰だって、春が来たら喜ぶもんです」
「山田先生も、ですか?」
「そりゃあんた、あたりまえでしょう」
目を丸くさせる半助に、伝蔵はわざとらしい頓狂な声を上げた。
「なんですか? 私には春を喜ぶ情緒はないとでもお思いで?」
「いやいやまったく、そんなことは……!」
伝蔵の鋭い一瞥に、半助は慌てて手のひらを左右に振った。冗談だ、と伝蔵は快活に笑う。
忍者がいちいち感傷に浸ったり、気持ちを乱すものではないですよ、と。手練の先輩教師に叱られると思った。伝蔵の意外な――と、いうと失礼かもしれないが――反応に、半助を驚きと同時に喜びを感じる。
伝蔵はにわかに目を細めた。
「ま、春が来てうれしいのはそれもそうなのだが、」
途端に口調が変わる。息子に語りかける、父親のそれのようだった。
「お前さんが、季節のうつり変わりを喜べるくらいすこやかに育ってくれてうれしい、というのが、ほんとうのところかもしれんな」
半助は虚を突かれた表情で伝蔵を見つめた。
伝蔵は、半助が山田家に身を寄せていたころを知っている。聞いたことはないが、人には言いにくい過去があるらしいことも。話したくないことを無理に聞こうとは思わなかった。淡々と怪我を手当し、家に置いた。
息子同然の存在が側にいても、学園ではあくまで教師、そしてなにより忍びとして、親心を押し留めているのが常だった。しかし、こんな朝くらいは少しばかり父親の顔を出してしまっても罰は当たらないだろう。こんなに、気持ちよく晴れた春の朝くらいは。
さて、と両手を叩いて小気味よい音を鳴らす。
「参りましょう。無事に春休みを迎えるためにも、は組の授業が遅れてはなりませんからな」
「うっ、それは……そう、ですね……」
父親の顔から教師の顔への変化は一瞬だった。廊下を踏んでいく広くたくましい背中を追いながら、半助は胃がキリキリと痛むのを感じた。
・
・
春は感傷を呼び起こす季節だ。生を重ねた数と同じだけ、春を知っている。だから感傷を呼び起こされたところで、またこの季節が来たのかと思うだけだ。なのに、季節がうつろい空気がゆるみはじめると、懐かしさとせつなさで胸が満ちた。
ふとしたときに、春がまとう空気を感じてうろたえた。波のように幾度も押し寄せる気配に、怯んだ。淡い記憶は脳裡を過ぎって、滲んだと思った次の瞬間には消え去る。すべてが脆く儚かった。それもまた春の魔力だ。
思いだしてしまうのは、伝蔵と交わした会話のせいだろうと半助は思った。あんなふうに唐突に父親の顔をされてしまったら、動揺せずにはいられない。忍術学園という場所で、教師の立場にある「土井半助」の足もとがぐらりと揺れた。そして伝蔵の言葉に、その声の持つあたたかみに触れると、半助はどうしても彼を思ってしまう。
半助の記憶に現れる彼は、その時々によりとても幼かったり、背丈が少し伸びていたり、大人の顔になっていたりしたのだが、そのどの彼も半助に向かってこう笑いかけた。「おにいちゃん」と。
ずい分と、なつかしい呼び方をしてくれたものだと思う。あれは昨年の秋のことだ。彼の唇がひさしぶりにそのかたちを描いたのを見て、心の深いところで沈んでいた記憶が細やかなあぶくを吐いた。「おにいちゃん」と、彼が――利吉が、半助をそう呼んだから。
あのとき、聡明な利吉の頭には様々な悪い予感と「最悪の結末」を迎える筋書きが用意されていたにちがいなかった。ドクタケ忍者隊の軍師・天鬼から忍術学園の教師・土井半助に戻ってようやく、半助は利吉を「利吉」と認識した。失っていた記憶が一瞬にして甦った。彼の口走った呼び方が、心の底から懐かしかった。この子は私の弟で、私はこの子の兄だ。血の繋がりはなくとも、ほんものの兄弟のように寄り添って、山田家で過ごした日々がある。
教師になるまでの道のりのあいだ、半助が道を踏み外さぬよう、自分の望む場所へいつか辿り着けるよう、彼らは道標みたいに立っていてくれた。そうした事実は半助を心強くさせ、今日までを生き延びさせた。
――彼に、また会えたらいい。
思いは、まるで流れ星のように強い光を伴って半助の頭を掠めた。思いつきなんかよりもっと具体的で、かたちのしっかりした願いだった。黒板にチョークを走らせていた手が止まってしまう。指のひらについた白い粉がぱらぱらとこぼれて、忍び装束を汚した。
「先生? どうかされましたかー?」
背中にかかった一年は組の生徒たちの声に慌ててふり返り、「すまない、なんでもないよ」と笑いかける。そして、チョークを再び黒板に押しつけた。教師なのに、今は授業中なのに、集中しないとだめじゃないか。子どもらを叱るのとおなじ熱量で、自らを叱責する。春の気配に浮かれてしまっているのだろうか。だとしたらなおさら、教師も忍者も失格ではないか。無意識のうち、眉間に皺が寄った。
「先生、なんだか怖い顔してるね」
「おなか空いてるのかなあ?」
「そんな、しんべヱじゃないんだから」
乱太郎としんべヱのひそひそ声が聞こえた。こらそこ、おしゃべりしない。半助は教師の顔と声をこしらえて注意する。自分のことを棚に上げて。
「はあい」
ふたりのすなおな返事に、胸がぎゅっと締めつけられた。
窓からさしこむ茜が部屋を満たしていた。夕がたの空気は朝よりもさらにまろやかで、文机に向かって年度末の試験問題をつくっていた半助は手を休めると、夕日の色に染まった部屋をぐるりと見まわした。
滞りなく一日が終わり、日の暮れかかるころになってようやく半助はひと息つける。業務は常に溜まっているからなにもせずのんびり……というわけにはいかないのだが、日中の緊張をわずかにでもゆるめられる時間があるのは、ありがたいものだった。
忍術の授業につきものの怪我や、毒草や毒虫に当てられた体調不良。そういった事態が起こらなかっただけで、安心して夜を迎えられる。
同室の先輩教師は今日は宿直の当番で、すでに宿直室へ移っていた。もちろん、夜間の見廻りのあいまに年度末試験の問題作りができるよう、藁半紙を山と携えて。
視線を逸らした途端、集中力が、ふつ、と切れた。半助は長いため息をついて親指の先で額を掻いた。
一人でいると、どうしても昼の出来事を反芻して一人反省会をしがちだった。授業中、子どもらが解けなかった問題について、教え方や伝え方をどう変えるか。何度教えても覚えられない生徒への対応は? 授業中の私語にたいする注意を――そこまで考えて、私語を慎まなければならないのは私もおなじだ、と肩を落とす。くちに出したわけではないが、心の中ではっきりと明瞭な声になってしまっていた。「会いたい」と。彼に、また会いたい。
誰かを恋しいと思ってしまうのも、春の魔力のせいか。――否、誰か、じゃない、彼だ。彼じゃなきゃだめなんだ。利吉くん、と唇を動かす。それだけで、体の芯にほのあたたかな火が灯る。
前回会ったのは、年の暮れだった。それからふた月ほどの月日が流れた。過ぎた分だけ、彼について考える時間が増えていた。暮れに家を訪れ、子どものようにぽろぽろと涙を流した彼のことを思った。
仕事が忙しいのだろう。怪我をしてはいないだろうか。優秀な彼はヘマなどしないだろうけれど、やはり少し、心配だった。
「私は、あなたを失えない」
利吉の発した言葉がときおり、半助の耳を掠めた。忘れられるはずがないのだ。そんなふうに思い、伝えてくれたことがうれしかったから。私のために泣いてくれた。すなおな気持ちを見せてくれた。あの、矜持の塊みたいに強く頑固な彼が。
いつのまにか、空気は藍と紫を混ぜたような複雑な色に染まり、半助の手もとに濃い影が落ちていた。気分を変えたい。外の空気を吸いたいと思った。山向こうに日が沈んでいくようすを眺めよう。半助が立ち上がったそのとき、戸外から声がかかった。控えめに絞られた音量で、しかしはっきり「土井先生」と聞こえた。半助は驚いて戸を開けた。縁側を隔てた庭に、私服姿の利吉が立っていた。すまなそうな表情で、半助を見つめている。利吉くん。半助の口が、反射的に動いた。
「突然申し訳ありません。日暮どきだというのに」
利吉は姿勢良く立つと、頭を下げた。目を瞬かせている半助に苦笑を向ける。
「父上に用があり伺ったのです。今夜は宿直とのことで、別室に通して頂きました」
ああ――、と半助は合点する。
「春休みの帰省の話かな?」
廊下に出て、半助はようやく柔いほほ笑みを浮かべた。利吉は「はい」と頷いた。
「年末年始は結局、帰られませんでしたから。この春は私も帰省するので、なんとしてでも一緒に帰って頂くよう、約束を取りつけました」
「はは、さすが、強いなあ、利吉くんは」
「丸っと一年家に立ち寄らない父というのは、息子としてもいかがなものかと思いますので」
「帰省がかなったら、母上も安心されるだろうね」
利吉の話に耳を傾けながら、そうか、と半助は思った。春休みは、帰省の時期でもあるのか。自分だって、春休みはきり丸を連れて町長屋に帰るつもりでいた。
休暇に入るときはいつもそうしていたはずなのに、利吉の言葉ではじめてそれを知ったような気分になり、おかしかった。
「ほんとうは、父上との話し合いが決着したらすぐお暇するつもりだったのですが……、」
利吉はまっすぐに半助を見つめて、言った。
「どうしても、あなたにお会いしたくて」
お忙しいところを、申し訳ありません。ふたたび頭を下げる利吉は、去年の暮れ、半助の腕の中で泣いた彼と同一と思えないほど大人びて見えた。しかし声にはしっとりとしたやわらかさと甘さが含まれている。わざとなのか無意識なのか、半助には判断しかねた。
うす闇の中に見える、ほんのりと朱に染まった頬の輪郭はまだ緩やかな曲線を描いていて、利吉が自分より年下の男であることを半助に教えた。
「ありがとう」
半助は庭に下りると、利吉に正面から向き合って笑いかける。
「じつは、私も利吉くんとおなじことを考えていたよ」
「え?」
利吉の目が、きょとんと丸くなった。
「暮れに会って以来ずっと、きみの身を案じていた。怪我をしていないかとか、万一病に臥せっていたら、とか……」
「そんなご心配は、」
「無用だってわかっていたよ。もちろんね」
利吉が続けようとした言葉を、半助は引き取る。
「きみのことだから、きっと無事でいるだろう。でも、きみが私を心配してくれたように、私もきみを心配したって構わないだろう?」
語り口はあくまで教師然として、言い諭すようなやさしさを滲ませている。利吉は半助の瞳を茫然と見つめたまま、遠慮がちに頷く。そして、手で口もとを覆うと、顔を俯けた。
「……すみません」
みるみる赤くなっていく顔を必死に隠そうとするが、半助の目にはもう、赤面しうろたえる利吉の姿が焼きつけられてしまった。耳まで赤く染めた利吉は観念したようにため息をついて、
「ご心配をおかけしてしまうのは不本意ですが、その……、うれしい、と思ってしまいました」
「ふふ」
半助は利吉の頭に手のひらを乗せ、ぽん、ぽん、と軽く叩いた。つむじのあたりをくるくると撫でる。こんな子ども扱いをしたら怒るかもしれない。うっすらと覚悟したが、利吉は抵抗せず、されるがままだった。
「うれしいと思ってくれて、私もうれしいよ」
視線を足もとに落とした利吉の頭は、ちょうど半助の目の高さにあった。大きくなったなあ、と思う。胸あたりまでしか背丈のなかった彼が記憶の底から立ち現れ、目の前の男に重なる。
半助はあらためて利吉の顔をまじまじと眺めた。頬の輪郭や目のかたち、鼻梁などは幼い時分の面影を残していた。父親の伝蔵から譲り受けた部分も、観察すればすぐにわかった。
幼いころの要素をわずかに残しながら、しかし彼はもう、すっかり大人の姿をしていた。すらりとした体に似合う大人の顔を、彼はいつのまに自分のものにしていたのだろう。あんなに近い場所で、それなりの時間を共に過ごしていたのに、今になってその成長に気づき驚く。
そっと、手を離す。利吉は窺うように半助の顔を見た。半助は相好を崩した。
「大人に、なったんだねぇ」
空気はまた色を変えていた。体が紺青色に紛れ、溶けてしまいそうだった。感慨深く言葉を発した半助が離した手を、利吉は握りしめる。彼の手の熱さに驚いたが、ふり解こうとは思わなかった。なんとなく、そんな気はしていたのだ。触れたり、触れられたりのできる関係を、彼が望んでいることを半助は知っていた。そうして己を「ずるい大人」だと自嘲する。年若い利吉の思慕が恋情に変わり、その恋情が熾火のように赤く熱を持ち始めたのに気づいたのはいつのころだったか。よくないことだ、とすぐに思った。利吉はもう子どもではない。子どもではないからこそ、自分に懸想をしてはいけない、と。
「土井先生」
利吉のまなざしがあまりに切実だったから、余計に胸が締めつけられた。なにも言わないでほしかった。半助の願いは届かず、利吉は屈託なく続けた。
「私は、あなたを恋ういています」
人に恋われる喜びは、もちろんあった。恋というかたちで差し出される愛情とは無縁の人生を歩んできたから、利吉の気持ちはすなおにうれしく思った。戸惑いながらも利吉から目を逸らせない。それなのに、握られた手をどうしても握りかえせなかった。握りかえしたならこの子は、きっと喜んでくれる。けれど、それで良いのか? 良いわけがない。自問自答が渦を巻いて、思考の糸が絡まりあう。
「……ありがとうね」
力無く笑いかけ、なんとか、それだけを告げた。途端に利吉の顔から血の気が引いた。その瞬間を、半助ははっきりと見た。胸がちくんと痛んだ。
「すみません、急に……。変なことを言ってしまいました」
手を離し、抑えた声で利吉は言う。自由になった手を持て余しながら、彼の熱が逃げていくのを惜しいと思った。そんな自分の身勝手さに、ほとほと呆れた。
「変なことなんかじゃないよ」
持ち上がった瞳に、弱々しい光が宿る。
「利吉くんの気持ちがとてもうれしかった」
でも、と半助は続けた。
「でも、私などを恋うのは、やめたほうがいい」
「……なぜです?」
利吉の声は固く緊張していた。半助は細く息を吐いた。諭すのに適切なやさしい嘘を探すより早く、唇から本音がこぼれ落ちる。
「きみには、幸せになってほしいから」
この言葉が、利吉をきっと傷つけるだろうことはわかっていた。でも、正直に伝えた。伝えなければならない。私はきみよりも大人だから。
「きみの幸せを願えば願うほど、きみの人生に私は不必要な存在に思えるんだ。どんな相談にだって乗るよ。いろんな話をしたい。でも、きみの恋の相手にはなれそうもない」
先生、と開きかけた利吉の口を、声で留める。
「私などに構っていないで、いつかすてきな女性と恋をして、家庭を持って、そして家族のために仕事に励んでほしい。……それは私も、きみを心から好いているからだよ」
「なぜそんなことを言うのですか」
利吉の声は明らかな怒りを孕んでいた。
「そんな、かなしいこと――」
「ほんとうのことだよ」
きつく引き結ばれた利吉の唇が、するりと解ける。
「それならいっそう、私のことを嫌ってくださればいいのに」
子どもじみた言い方が珍しく、微笑ましいと思ってしまう。つい苦笑を浮かべてしまうと、利吉は「しまった」という顔をした。怒りと勢いでつい、駄々っ子のようなことを口走ってしまった。
そうだねぇ、と半助は言った。
「そうできればよかったのかなあ」
半助が心底おかしそうにころころと笑うので、利吉は頬に熱を保ちながら、「あんまり茶化さないでください」と項垂れるしかなかった。
「きみを嫌うことなんてできるはずないだろう?」
「でも、」
でも、でも。それ以上に言葉が続かず、利吉は唇を噛んだ。普段ならばこんなふうに、取り乱したりはしないはずだった。今、利吉は動揺し、困惑しているのだと半助は悟る。いつ何時も冷静で淡々と仕事をこなす賢い子なのに、こんなに必死になっている。
目の前の男がかわいそうで、可愛くて、とても、とても愛おしかった。
「きみのことが好きだよ」
嫌いになってあげられなくて、ごめんね。
半助のやわらかい声に、利吉は悔しそうに顔を歪めた。
「……なのに、だから一緒になれないなんて、そんなばかな話がありますか」
「あるんだよな、これが」
「わからない」
「じゃあ、やっぱりきみはまだ子どもなのかもしれないね」
「子どもではないですっ」
また、手を握られた。さっきよりも強く、きつい握り方だった。行動は強気なのに、そのくせ利吉の瞳は怯えるように揺れていた。熱い、熱い手だった。
「あなたが好きで、恋しくて、――いっそう自分のものにしてしまいたくて堪らない」
握られた手を引っ張られる。利吉の額に、指先が触れた。
「私ではだめですか」
上目で見つめられ、心臓が、ざわりと音を立てた。だめじゃないよ、と言いたかった。ちっとも、だめなんかじゃない。きみがいい。でも、きみを好きだという気持ちがある限り、一緒にはいられない。その意味を、利吉はきちんと理解している。理解できないふりをしているだけで。まだまだ、子どもっぽいところがあるんだな。利吉のことはなんでも知っていると思っていたけれど、思い上がりも甚だしかったようだ。
天を仰いだ。深い紺青色をした空に月の姿はなかった。今日は新月だ。闇と夜の色に紛れて、ふたりの姿はどの方位からも見えていないはずだ。半助は俯いて声を殺している利吉の、かたちのよい額に視線を落とす。大人になった、と思う。でも、――否、だからこそ、か――彼の未熟で子どもっぽい部分を、もっと知りたいという欲求が同時に湧く。なんて身勝手でわがままな大人の、醜い欲求だろう。
「先生」
細い声が聞こえた。半助は首を傾げた。垂れた前髪のかげに隠れて、利吉の表情は窺えなかった。
「先生はさっき、私の幸せを願ってくださいましたね」
うん、と頷いた半助の目を、利吉のまなざしが射抜いた。先ほど見せていた弱い光を、変わらずそこに湛えている。
「私の幸せは、先生がいてはじめて成立します。私の人生にあなたが不必要だなんて、とんでもない。勝手なことばかり言わないでください」
言い方を変えますね、と、利吉は口の端を持ち上げた。
「あなたをください。私の幸せのために」
まっすぐに半助の目を見つめる。
「それは、どういう意味かな」
「そのままの意味です。私の幸せを願ってくださるのなら、私にはあなたが必要ですので」
沈黙が落ちた。ぬるい風が、樹の枝をざわざわと揺らした。細い裸の枝どうしが擦れる音は、控えめなのに、やけに耳を打った。
この子にはとてもかなわない。半助は眉を下げた。
是か否、どちらかの返事をするまで離さないつもりなのか、利吉は手を握ったままこちらを見つめ続ける。半助は息を吐いて微笑んだ。
「しかたのない子だ」
そうして少しだけ身を屈めると、利吉の額に唇を落とした。利吉の体が強張るのを感じたので、すぐに顔を離す。熟れすぎた柿の実のように赤い顔をして、彼はぱちりぱちりと目を瞬かせる。
「え、あ、」
掠れて、かたちにならない声をもらす利吉の頭を撫で、握られた手を両手に包みこむ。そっと、握りかえす。
月がなくてよかった、と半助は思った。きっと今の自分も、利吉に負けず劣らず赤い顔をしている。こんな姿を誰にも見られたくない。
「きみといたら、私は幸せになってしまうよ」
そうしたら、私はどうしたらいいだろう。半助の問いかけに利吉は沈黙した。そして、半助の手の甲をやさしくさすった。
「だめなんですか。幸せになったら」
「さあ、どうだろう? 考えたこともなかったから」
まさかこんなことになるなんて、ねぇ。声が、思いがけずさみしげに響いて半助は驚く。
きっと、ずっと一人で生きていくことになると思っていた。人に好かれることも、人を恋うこともなく。
利吉の恋慕に気づきながら、それに答えることはできない、答得られる資格もないはずだった。利吉の人生に関わるつもりはなかったのに、あのよく晴れたきれいな日に偶然出会ってしまった。運命が、大きく変わってしまった。
利吉の肩に額を預けた。利吉は半助の重みを受けとめて、じっと立っていた。やがて、ぽつりとつぶやいた。
「大人というのは、どうしてなかなか、厄介なものですね」
半助が意味を図りかねていると、利吉は赤らんだ目の端を下げて、
「好き、と思うだけでは一緒にいられない。好きだからこそ、一緒にいられない。――誰だって、あたりまえに幸せになるべきなのに、それを望むことすらご自身がゆるさない」
なんだ、と半助は笑う。
「やっぱり、わかっているんじゃないか」
「言ったでしょう? 私も、もう子どもではないんです」
利吉もまた闇の中でくすくすと笑った。
「好きだから一緒にいる。子どものころは、それだけが理由でよかったのに」
「大人になるということは、どんどん厄介になっていくってことだよ」
利吉は納得のいかない顔をしていたが、しばらくして息をもらした。そしてここを訪れてはじめて、半助から視線を逸らした。半助も肩に押しつけていた額を離し、彼に倣う。
空は幕を下ろしたように黒く、暗く、ちいさな星がいくつかまたたいていた。やわらかだった空気も夜の深まりとともにひんやりと冴えていった。
「……春になったら一度、私も帰っていいだろうか」
どこに、とは、わざわざ口にしなくとも通じている。
かつて自分を置いてくれた「家」は、いつでも半助の帰りを待ってくれている。わかっていたことだったが、まだ、信じてよいものか疑問で、不安だった。もし、勝手な勘違いだったら? しかし利吉はあっさりと「あたりまえでしょう」と言った。ほとんど叱るような口調で。
「あそこは、あなたの帰る場所なのですから」
冬のあいだは固い雪に鎖される氷ノ山にも、春はきちんとやってくる。誰と約束しているわけでもないのに、毎年律儀に。
「一緒に帰りましょう。母上も喜びます」
利吉の体温が、半助の何もかもをあたためていった。手も、体も、心も、満たされていく。その心地よさは胸の奥に湧く罪悪感を甘く麻痺させた。
なにが正解なのかわからなかった。大人なのに、教師なのに、わからないことがある。それは、しかしちっとも不愉快ではなかった。いつまでも答えの見つからない問題だって、世の中にはあるのだろう。自分がやっとそれにぶつかっただけだ。
今はまだ雪に埋もれてしまっている幸せのかたちだけれど、やがて春は来るから。
いつか雪溶けを迎えるまで、この手をずっと離さずにいよう。
(25.0130)