新緑のあいまから、抜けるように深く青い空が見えた。ふうわりと天に上がったボールを捕まえようと腕を伸ばして、軽いトスで返す。ボールを追いかけるたびに、よく磨かれた硝子のような青空が目にしみた。
 空はいつでも広くて、高くて、自由で、そして青くそこにあった。俺はこの空の青を見たくて、ボールを追いかけているのかもしれない。影山はときどき、そんなことを思う。
 ボールを買い与えられたばかりの幼いころ。近所の公園ではじめてボールを天に打ち上げた時の快感を忘れられない。一人きりだったけれど、空にのぼってゆくボールの軌跡がとてもうつくしくて、さみしさなど微塵も感じなかった。
 記憶はまなうらに焼きついて、今年で十六歳になる現在まで褪せることなくあり続けた。
 葉ばかりになった桜の樹がぐるりを囲む広場は、遊具に乏しく、野球も禁止なので子どもたちからの人気は集まらなかったけれど、そのためつねに空いていてバレーの練習をするのには都合がよかった。
「あっ、悪ぃっ! 手ぇ滑った!」
 数メートル離れた場所にいる日向が、甲高い声を上げた。悲鳴にさえ聞こえるそれが影山の耳に届くのと時を同じくして、こちらに届けられるはずのボールがあらぬ方向へと飛んでいった。と言っても、少しばかり軌道が逸れたていどなので、かんたんにレシーブできるのだけれど。
「おおお! すげっ」
 まだしろうと同然の日向からもらうボールなんて、影山はいくらでも打ち返せる。次へ、次へと、繋ぐことができる。
「ヘタクソ!」
 それでもしっかり悪態をついてしまうのは、もう、影山の習い性であった。
「しっかりこっち返せボゲ!」
「やってるよーっ!」
 影山からいくら暴言を投げつけられても、日向はけっしてめげなかった。だからこそ影山もムキになって、日向の技術のなさを誹ることになるのだった。
 ボールに触ってきた時間がちがうから、経験値だって当然、ちがう。二人のあいだの体格差だって大きい。お前みたいにはできない。おれはお前じゃないから。影山を見つめる日向の目は、いつも嘘がなかった。
 でも、おれはおれのやり方で戦える。まっすぐにこちらを見て、だから大丈夫なのだと彼は言う。そのひたむきなまなざしにいすくめられて、影山は不覚にも怯んでしまうことがあった。こいつは、俺にないものを持ってる。そう認めざるを得ない瞬間が、たしかにあるのだ。
 ふりかえったところに誰もいない怖さを、影山は知っている。繋いでいたはずの糸がブツンと切れて、ボールがコートの床に落ちる音の無力さも聞いた。そしてその糸を引きちぎってしまったのは、他でもない自分であると気づいたときの失望も覚えた。
「影山ぁ」
 影山から返ったボールをてのひらで受けて、日向は言った。ボールが高く、高く上がる。ゆるやかなカーブを描きながら、こちらに返ってくる。ボールの軌道は一本の強固な糸となって、繋がる。
「なんだよ」
 ふたたび、軽いトス。空に上がったボールの行方を追って、軌跡の先にいる日向を見ると、彼は白い歯を見せて笑っていた。
「バレー、楽しいな!」
 日向の腕が空に向かって伸び、ゆび先がボールを弾いた。げっ、と声が聞こえた。ボールは影山の頭上を通り越して、青空に線を引くように彼方へと飛んだ。
「……こンの、ヘタクソ」
 影山は舌打ちをした。実際は、怒りはさほど湧かなかったのだけれど。
 バレーが楽しい。日向と影山に共通しているところといえば、ただそのひとつだけ、だった。
 バレーが楽しくて楽しくて仕方がなかった。ずっとやっていたい。誰よりも長くコートに立って、ボールを繋いでいたい。ほんとうに、ただそれだけだった。その気持ちが重なっていなかったら、ふたりが出会い、同じ場所にいることもなかった。
 交わらなかったかもしれない糸が交わって、今、ふたりはここにいる。
 地面を蹴って、影山はボールを追った。腕を伸ばす。考えるより先に体が動く。手が、空を掴む。空の青にゆび先からてのひらにかけて染まる。一瞬。すべては瞬きにも満たないごくわずかな時間。ゆびがボールに触れる。捻じ曲がった姿勢のまま、トスを上げた。――とべ、と思った。行け、とべ、日向。
 ――やべっ、
 クイックをようやくふんわりと理解したばかりの日向には厳しいコースに、ボールは飛んだ。ああ無理だ、落ちる。影山が諦めた、そのときだった。
「ぃよっしゃああ来たああッ!」
「はぁ?!」
 日向の大声が聞こえたのと、影山の足元にボールが叩きつけられたのとは、ほとんど同時だった。土を舞い上げてボールは地面を跳ね返り、てん、てん、と影山の背後に転がっていった。
 少しの時間を、静寂が包んだ。影山の前髪に風が絡んで通り過ぎてゆく。勢いよくふり返ると、日向が右手をこちらに向かって大きく振っていた。まるで幼い子どものような笑顔を携えて。
「っしゃあああ決まったーっ!」
「決まった、じゃねーよ!」
 影山は怒鳴った。
「なに勝手にスパイク打ってんだボゲ日向ァ!」
「べっ、べつにスパイクすんなってルールねーだろー!」
 無理な体勢で打ち返したボールは、日向からだいぶ離れた場所へと向かったはずだった。日向には到底、打ち返せないだろう場所。ボールはまた、力なく地面に落ちるだろうと。視線を投げたとき、けれどそこに日向は“居た”。
 なんで、と影山は思った。お前、なんでそこに“居る”?
「……なんで、そこにいるんだよ」
 すなおな疑問を口にすれば、えぇ? と日向は首を傾けた。そして影山のきげんを伺うように、遠慮がちに口をひらいた。
「えーと、……お前がおれにボール上げてくれたから?」
「は、……」
「お前が、おれに、そこにいてほしいって思ったから? んん? なんかちがう?」
 まるでわかりきったことじゃないかと、答え合わせを求めるように日向は言って、影山は言葉を見失ってしまった。のどの奥で声がもつれた。こんなふうに、言葉をうしなう瞬間を日向に与えられることが、稀に訪れる。かげりのないまなざしがすべてを見抜くようで、言葉は、口にするまえにほろほろと崩れてしまう。
 日向の頭の上にいくつものはてなマークが浮かんでいるのを影山は見た。それで、問答がばからしくなってしまう。
「えっ、う、あれ、ちげーの? そうゆうんじゃなくて? 影山クン? だいじょぶデスカ?」
 唇を尖らせて押し黙った影山の顔の前で、日向は焦ったようすで両腕をバタバタと動かす。スパイクを打ったばかりのてのひらは赤く腫れていた。どんだけの力で打ちやがったんだ、このボゲは。
 もういい、と影山はため息をついた。
「いいから、続きやんぞ」
「は?」
 きょとんと目をまるくした日向に背を向けて、影山は転がっていったボールを拾い上げた。手の中に、ボールの重みと、かすかな熱が伝わる。日向のスパイクを受けた衝撃が、まだ残っているようだった。
 顔を上げる。空は変わらずにそこにあった。風の手が樹々の肌を撫で、かさかさと乾いた音を鳴らす。風は髪の毛を揺らして頬を滑った。ふり返ったときに誰もいない怖さを知っていた。でも、と影山はボールを胸に抱く。いまは視線の先に、たしかに、居る。
 いてほしいところに、あいつが、ちゃんと、いてくれる。
「よっしゃどんどん来ーい!」
 風を正面から受けて、日向は両手を大きく振っている。おれがここにいる。ここにいるから、お前は絶対にだいじょうぶだと胸を張る。
 ドへたくそがなにを言ってんだと影山は深く息を吸った。ボールが手から離れる。空に、伸びてゆく。視界が青で満たされる。青。空の青。きらきらとまぶしい、ずっと見ていたいと願った景色に、また何度でも出会う。
 てのひらに熱が集まった。ボールが飛ぶ。糸は、また繋がっていく。



「きらきら」
hinata to kageyama
written by ori. / lily
24,0605