「アニキ」
湿った声で呼ばれ、胸の奥がくすぐられる。ローテーブルに置かれた、元はアルコールの入っていた空き缶がぜんぶで何本あるのかなんてもうわからないけれど、二人だけでずいぶん飲んだ、ということだけは察することができる。ベッドの足もとに座る涼介と啓介の距離は、肩が触れあうほどに近い。着ているパーカー越しにも啓介の体温がいつもより高いことがわかる。
小動物の類が甘えるときそうするように、肩に頭を押しつけてくる啓介は完全に酔っているようだった。撫でて。無言の請いに従って涼介はその頭をぽん、ぽん、と撫でてやる。うれしそうに頬をゆるめて、啓介は「ありがと」と言った。甘い、とても甘い声で。
涼介を見上げる目の表面はしっとりと潤んでいて、今にもしずくが溢れそうだった。ふやけた目もとに、うす紅色に染まった両頬。とろとろだな、と涼介は思った。酔った啓介はかわいい。こちらがどうにかなってしまいそうなほどに。そんな兄の気も知らずに甘えてくる啓介の頭を、涼介はまた無言で撫でた。そうでもしないと、「兄」「弟」という関係を忘れてしまいそうだから。ことばは発さずに、ただ酔ってしまった弟を甘やかす兄のていで、涼介は啓介に接する。
べつにもう、壊してしまっても良いのだけれど。
ふと頭を過ったひとりよがりの考えは、やがて聞こえてきた寝息に消されてしまう。夜に溶けていきそうな寝息を聞きながら、涼介は缶の底に残った最後の一滴を飲み干した。
(25.0918)
細やかなうぶ毛の覆う表面に犬歯が食いこんで、途端にあふれ出した果汁が唇をてらてらと濡らした。色のない果汁は顎先まで滴り落ち、啓介はそれを拭うこともなく果肉にかぶりついている。シンクの側に立っているのは、果汁が床やテーブルに落ちて汚してしまわないための、啓介なりの配慮なのだろう。実に弟らしい雑な考え方に、思わず口の端がゆるんでしまう。
しずかに持ち上がった視線がオレを射抜いたので首を傾けてみせると、啓介は口もとを手の甲で横柄に拭いながら「アニキも食う?」と問うた。彼が右手に持っている水蜜桃はいかにもよく熟れており、うまそうだった。オレはうん、と頷いてダイニング・チェアから立ち上がる。
啓介の側に寄ると、すでにそこには桃の甘い香が漂っていた。疚しい思いはなかったはず――なのに不覚にも胸の奥が疼いて、ほとんど無意識に、オレは啓介の手首を掴んでいた。そうして、歯形のついた食べかけの桃に唇を寄せる。あ、と啓介が短く声を上げた。オレは構わず桃に歯を立てた。うぶ毛が舌の上をくすぐって、やわらかな果肉は奥歯ですり潰すまでもなく溶けて、喉の奥に落ちてゆく。
果肉を飲みこみ、口を離す際に啓介の指にそっとキスをした。
「甘いな」
上目で啓介を見る。逃れるように視線をさ迷わせて、啓介の頬は桃とおなじ色に染まっていた。
(25.0821)
顔を近づけても、啓介が逃げなくなったのはなん度めのキスからだったか。数えることを忘れるくらいくちづけてきた今となっては、ただ啓介の唇が持つあたたかさを享受するだけでよかった。自分のそれとはすこしだけちがう、ぽってりとした唇はかさついていて、でも充分にやわらかい。ふれると、まるでそれが合図のように、うすく開いて浅く息がこぼれる。その瞬間が涼介はすきで、なん度味わってもたまらない気持ちになるのだった。胸の奥がぎゅうっと締めつけられて、どうしようもないせつなさに心を預け、このかわいい弟を力いっぱい抱きしめたくなる。
背中に回しかけた腕がいつも、寸でのところで止まるのは、理性とやらがわずかにでも残っているからなのか、それとも単に自分が臆病なだけだからか。両方、かな。細く目をあけて涼介は思う。皮ふを触れ合わせているゼロ距離では焦点が定まらず、それでも啓介のきれいに生え揃った短いまつげがかすかに震え、目尻にうす桃色が差しているのを見つけ、涼介はうっそりと喜ぶ。
啓介が兄になにを期待して、なにを求めているのか、涼介は知っていた。それをすぐに差し出すことのできないもどかしさに胸は痛むけれど、差し出さない限り弟は、ずっと自分を求め続けてくれる。そう思うと、このまま、このあいまいな関係のまま、留まっているのも良いのかもしれなかった。
――ずるい、
うっすらとひらいた弟の目と、目があう。視線が一瞬だけ交わって、啓介の目はまたすぐに閉じられたけれど、その瞳の表面が濡れて光ったことに涼介は気づいていた。「ずるいよ」と、まなざしだけで涼介に甘えたことにも。
アニキは身勝手で、ずるいよ。
啓介が訴える、声にはしないその言葉を、唇越しに涼介は読み取る。すまない、わかっている。涼介もまた声にはせず、啓介に伝えた。
身動ぎをすると、成人男性ふたり分の体重にベッドのスプリングが軋む。清潔な白いシーツが波打って、まるで海のようだった。
この海に、一緒に沈んでしまおうか? ――心の中で静かに問いかけて、涼介はゆっくりと、弟から体を離した。
(25.0818)
なにかが頬を滑った、と思った次の瞬間に目はさめていて、薄くまぶたを開けてみる。視界に入った天井は見慣れたもので、それで、啓介はここが兄の部屋であることに気がつく。そして、今自分が横になっているベッドが、兄のものだということにも。
「起きたか」
耳たぶをくすぐる声に視線を動かせば、思いがけず近くに兄の――涼介の顔があって、驚く。「アニキ」。たしかめるように呼ぶと、兄は腰を屈め、啓介にいっそう顔を寄せた。まっすぐに見つめ、そうして指さきで啓介の頬を撫でる。あ、と、啓介はそこで悟る。さきほど頬を撫でた感触は、兄の指だ。
まどろみの浅瀬に立つ啓介につめたい指は心地よく、その温度をもっと味わっていたくて、思わずまた目をとじてしまう。ねこや犬を甘やかすのに似た優しさで、指が啓介の頬を幾度か往復する。くすぐったくて、甘くて、幸福だった。
「……溶けちまいそう」
唇からこぼれたことばは無意識のものだった。しかしそれは心からの本音だったため、啓介は恥じらいを捨て、低く掠れた声ですなおに発した。普段ならばまたちがったかもしれないが、今は眠りからさめた直後で、ほとんど無防備な状態だった。なにを衒うこともせず、かっこうをつけず、ありのままの自分を涼介に晒している。
人さし指が頬、鼻の頭、額へと順に滑り、やがて前髪の生え際を撫でてそっと離れたとき、啓介は思わず「あ」と声をもらしてしまう。途端に消えてしまった涼介の体温を惜しむように、視線が指を追いかけた。
「なんだ?」
涼介はどこか楽しげに口もとを緩めて、啓介を見た。兄に気づかれている――そのことに、啓介も気づいている。そうして少しだけ、恥ずかしくなる。
「アニキ、わかってやってるだろ」
「さあ。どうかな」
涼しい顔で微笑む涼介に、啓介は観念して手を伸ばした。あかりの下で、影が手のかたちにすんなりと長く伸びる。
「……いじわるだ」
「おまえがかわいいから、つい、な」
兄のことばに、頬に熱が集まってくる。伸ばした手を涼介が掴み、柔らかな力で握った。涼介の手はやはりひんやりとつめたく、乾いていた。
「そんなにもの欲しそうな顔をするな」
なにもかもを見透かされていることがほんの少し悔しかったけれど、求めれば応じてくれる兄を、心からすきだと啓介は思う。
落ちてきた唇を受けとめる。うすい唇は、他のどの部位よりもずっと熱っぽいものだった。
(25.0721)
ぎゅっ、と。音が聞こえそうなほどきつくきつく結ばれた唇が、酸素を求めて薄くひらかれるのを見た。同時に、目のふちからこぼれ落ちた大粒の涙が、夕日を照り返した一瞬のきらめきも。夕日の茜色が頬にななめに差していた。
啓介の泣き顔を見るのはずい分ひさしぶりな気がして、涼介はかけるべき言葉を見失う。いつのまにか聳えていた高い壁は、啓介の姿を容赦なく覆い、十代のこころでは処理しきれないあらゆる感情をかれに抱えこませた。その腕を掴むことはできたはず、だのに、かれの頑なさが兄を全力で拒んだから、涼介も一定の距離を保つことを選んだ。それが結果、正しい判断であったのかはわからないけれど、今、泣く弟を前にして立ち竦むしかできないじぶんには、おそらくなにを施しても無駄だった――そんな徒労感を涼介に味わせた。
胸が締めつけられて、ひどく、とてもひどく、痛んだ。かすかに眉を顰めると、啓介はますますつらそうな表情になって、
「ごめん」
喉の奥から声を振り絞った。鼻を啜って、手の甲で横柄に目もとを拭う。くそっ、くそっ、と悪態をつきながら、あふれて止まらない涙をどうにか体内に押し留めようとしているようすが、涼介にはかわいそうに見えた。
腕を伸ばして、じぶんよりわずかに薄い肩に触れてみる。啓介の体がにわかに強張って、しかし、抵抗はなかった。涼介の力に身を任せるようにして、腕の中に体を沈めてゆく。泣いたせいで上がった体温を感じて、それは子どもの頃の啓介の甘い体温を思い出させた。
ごめん、と、啓介は涼介の肩に顔を押しつけて、言った。――アニキを傷つけた。ごめん。弟の、金色に染まった髪の毛に手を入れる。傷んだ髪を指のひらで撫で、大丈夫、と涼介は言った。
「オレはおまえの味方だから」
(弟は兄を傷つけて、兄もまた弟を傷つけていた日々のこと)
(25.0626)