秋名でも赤城でもない、地元から遠く離れた土地の峠を走るときはいつも、不安と高揚が混ざりあった不思議な心地を拓海は抱く。実力だけがものを言う世界は、強ければ勝ち弱ければ負ける、とてもシンプルなルールで成り立っていた。平凡な高校生だった拓海がこの世界に飛びこんでまだいくらも経っていない。体のうちがわで心臓が激しく震えると、だから時折、ひどくおそろしくなる。たぶんこれはプロジェクトに参加して県外遠征をしなければ一生気づくことのできなかったものだ。こんなにも気が昂って、走ることが楽しくてしかたない。もっと、もっと速く走りたい。誰よりも速く走って、誰よりも早く頂点に辿り着きたい。生来の負けん気がプロジェクトDに参加したことによりいっそう強くなっていた――それは主催者の高橋涼介には、想定内のことだったのだけれど。
ステアリングを握る手が知らないうちに汗ばんでいた。先を走る、見慣れた黄色のFDが茂みの葉を騒がせながら急なコーナーを曲がる。拓海はそれに続く。
特段、むつかしいコースではなかった。エンジンとタイヤを慣らすには適当な距離と勾配、緩やかなコーナー。真夜中の峠道に拓海のハチロクと啓介のFDのエンジン音が響き渡る。車体に走る振動がシートを通してダイレクトに伝わってくると、拓海の心の中をほの暗く染めていた不安感が、高揚の色に塗り潰されていく。
気持ちいい。拓海は息を吐き出す。脳の真ん中のあたりが、じいん、と痺れてくるのを感じる。
峠の頂上にある駐車場はぽっかりとひらけた場所を開放しただけの、うらさびしい雰囲気に包まれていた。FDがエンジンを切るのと同時に、拓海もキーを捻った。二組のヘッドライトが消えると、光源は街灯の白々としたあかり一つだけになった。車から降りて、拓海は周囲を見渡す。
「なんだかさびしい場所ですね、ここ」
FDのそばに立って、啓介は得意げに笑った。
「邪魔な車がいねぇから、思いっきり走れていいだろ」
遠征先で、軽く走りたいと希望した拓海にこの場所を案内したのは啓介だった。地元のチームも相手にしないようなライトなコースだけれど、余計な車が通らない分、気負わずに走るにはうってつけの場所だった。
啓介はジーンズの尻ポケットから煙草を取り出した。一本咥えて、火をつける。深く吸って、煙を吐き出す。一連の動作は体に染みつき馴染んだもので、そのしなやかな手の動きを拓海は見つめた。
チリ、と紙の先端が燃える音がして、啓介の口もとがほのかな橙色に染まる。唇のすきまからこぼれた煙が、空に昇っていった。このきつい匂いも、いつのまにか嗅ぎ慣れてしまっていた。
煙草を見ると、拓海はいつも、父親のことを思いだした。父親の文太はヘビースモーカーで、拓海が物心ついたときにはすでに彼と煙草はワンセットとして認識されていた。まだ幼い拓海の前でも平気で煙草を吹かして、咥え煙草で豆腐の仕込みをする姿は拓海の記憶に鮮明に残っている。
成長して知識がついて、煙草は体に悪いとわかるようになった。けれど拓海が父に苦言を呈することは、とうとうなかった。なにを言ったとして、聞く耳を持つ親父ではないと知っていたからでもあった。なにより、文太と煙草は切り離せなくて、煙草を吸わない親父は自分の知っている親父じゃないみたいで、怖かったのだ。その感覚は十九になった今でも拓海の中にあり続ける。
こういうところが、ガキ、なのだろうか。親離れができていない証拠なのか。
俺はまだまだ変化を恐れている。変わっていくことはなにも、おかしなことではないはずなのに。
「なぁに見てんだよ」
啓介の視線がこちらを向いて、拓海のそれと交わった。彼も高揚しているのか、目もとがかすかに赤らんで見えた。いえ、と拓海はかぶりを振って、
「おいしそうに吸うな、って、思って……」
口の中で言葉を転がすように、歯切れ悪く言う。啓介は「ふん」と鼻を鳴らした。
「走ったあとの煙草は最高にうまいよ」
そうしてもうひと口、深く煙を吸いこんで、細く長く吐き出す。濁った煙が立ち昇るさまを見て、拓海は、ほぁー、と感嘆のため息をこぼした。
「なんかの、機械のポンプみたい」
「変な表現すんなよ」
くすくすと笑う拓海に、啓介は唇を曲げてみせた。
五月の心地好い夜風が通り過ぎて、啓介の髪の毛を揺らした。白熱灯の下、金色の髪がきらきらと輝いてとてもうつくしかった。
「啓介さん」
拓海は啓介に近づくと、窺うように上目で彼を見た。
「俺にもくれませんか。一本」
煙草を吸いたいと思ったことなんか、これまでいちどもなかった。父親がつねにまとっている煙草の煙を、匂いを、むしろ疎ましく思っていたくらいだ。でも、夜の闇の中でちらちらと瞬く火が、まなうらに残っていつまでも消えてくれなかった。それはまるで蛍のような、ささやかで繊細なひかりだったから。
きれいだと、一瞬だけたしかに思ったのだ。
拓海の言葉に、啓介はきょとんと目を丸くさせた。そして言う。
「だーめだよ、未成年だろ」
予想はしていたけれど、いざはっきり言われてしまうとムッとする。
「啓介さんて、意外と真面目ですよね」
「うるせ。お前こそ、意外と不良だよな」
「べつに不良じゃないっすよ」
拓海は唇を尖らせた。
「俺はただ、憧れてるだけです」
一見こどもっぽく見える啓介も、煙草を吸えるくらいにはおとななのだ。それなのに自分はまだ、煙草の味さえ知らないこどもで、それがひどく、ひどく歯痒かった。
高校時代に抱いたおとなへの憧憬は、啓介や涼介のそばにいることでより強く激しくなっていった。早くおとなになりたい。彼らに近づきたくてたまらなかった。ふたりに近づけば近づくほど、自分の世界が広がっていくのを、知ってしまったから。
啓介は強いひかりを湛える拓海の目を見つめた。フィルター直前まで灰に変わった煙草を足もとに落として、靴のソールで踏み消す。
「憧れんのは勝手だけど、酒と煙草はハタチになってから、だからな」
「……わかってますよ、そんなの」
「藤原にワルいこと教えて、アニキに怒られんのは俺なんだ」
啓介は苦笑いを浮かべる。整った顔がくしゃりと崩れて、拓海は、あ、と目を見張った。
あ、なんかこの人、かわいい。
啓介が表情豊かなことは知っていたけれど、それをかわいいと思ったのははじめてだった。ふいに湧いたくすぐったい感情に驚いて、思わず目を逸らしてしまう。汚れたスニーカーのつま先が小石を踏んで、ジャリ、と乾いた音が響いた。
「っていうか、ワルいことなんですか? たばこって」
「あー?」と、啓介は吸い殻を携帯灰皿に押しこみながら間延びした声を出した。
「未成年はダメだろ。少なくとも俺はそう言われたぜ」
「啓介さんっていくつから吸ってんですか?」
「……どーでもいいだろ、そんなん」
ってかさっきから質問ばっかしすぎ、お前。呆れたようにため息をついて、啓介は右手を顔の前で振った。この話を続けるつもりはないらしかった。
てっきりドヤ顔でカミングアウトされると思っていたから、拓海は拍子抜けした。街灯が、啓介の朱色に染まった頬を濡らした。……照れてる?
「かわいい、」
心の中に留めようとした声が、口をついて出た。啓介は眉間に皺を寄せて、こちらを睨んだ。聞こえてしまったかと慌てたけれど、啓介は無言で、二本めの煙草を取り出した。
「焦んなよ、藤原」
煙草を咥えて、啓介は言った。
「どうせいつかは、イヤでもおとなになっちまうんだからよ」
煙を吐き出し、啓介は目を細めて拓海を見た。おとなじみたせりふを、まだほんのすこしだけこどもの部分を残した啓介が言うのが、なんだかおかしかった。
「……啓介さんも涼介さんも、ふたりともおとなで、恰好いいです」
「知ってら、ンなこと」
啓介は鼻で笑った。うすい唇から煙が吐き出されて、幕を下ろされたように彼の顔が隠れた。煙の向こう側で啓介がどんな表情をしていたか、拓海には見えなかった。
(25.0320)