実の兄に恋をする。それはいばらの道を歩くようなものらしいけれど、そんな倫理観なるものをオレはハナから持ち合わせていなかった。ガキのころから慕い、ずっと恋い焦がれてきた人だから、なにもかもすべてが今さらなのだ。そんな関係おかしいとか、オレらには無関係の他人にさんざん言われて、でも、なぜおかしいのかさっぱりわからない。オレはアニキのことが好きで、大好きで、愛していて。ほんとうにただそれだけ。でも愛してるだなんて言葉、アニキ以外の人間に言うことはない。アニキより好きになる人には、オレのこれからの人生にぜったい現れないはずだから。
なんて。
「そんなこと言って、もし現れたらどうするんだ?」
回転椅子をくるりと回して、アニキはいたずらっぽい笑みを、ベッドの縁に座っているオレに投げかけた。試すような言い方にオレは少しムッとする。
「だからさー、そんなヤツ現れねぇの」
「質問の答えになっていないぞ」
「そもそもだよ。そもそもそんなことは起こらないんだって」
なんの根拠もないじゃないか、などと、冷静で頭のいいアニキには言われそうだった。だから、声を遮るように強気の反論をした。アニキはいつも正しい。アニキの言うことはほんとうになる。峠でバトルする時にはなによりも頼もしいアニキの正しさが、でも今のオレには疎ましかった。
アニキへの気持ちを否定されるくらいなら、正しさなんていらない。
幸いにもアニキはうっそりとほほ笑んだだけで、それ以上は口を開かなかった。再び椅子を回転させて、デスクに向き直る。パソコンに視線が戻り、部屋にキィボードを叩く音が響きはじめる。
アニキの大きな背中を見つめる。すっと伸びた背筋、後頭部のきれいな輪郭を目でなぞる。柔く細い髪の毛が、デスクライトを受けてきらきらとひかった。
アニキのことが、好きだな、と思った。オレは、とても、好きだな。
あらためて強く、そう思った。
なあアニキは、オレのこと、好き? 喉もとまで出かかった言葉を、寸でのところで唾液とともに飲みこむ。訊ねたとしてアニキがなんと答えるか、最初から知っていた。アニキはちゃんと、「好きだよ」と言ってくれる。やさしい人だから、オレをけっして傷つけまいとしてくれるから。
アニキはオレなんかよりずっと頭がいいから、兄弟で恋やら愛やら、そんなのおかしいってわかっていて、理屈じゃなく感覚――もしくは、常識?――で知っていて、だのにオレがあんまり必死だから話を合わせてくれて――だからオレは、ほんとうはこれ以上を求めてはいけなかった。そのはずなのに、欲しくて欲しくてたまらない気持ちがずっと、胸を巣食っている。太陽の日を受けて植物の葉っぱがふちから焼けてゆくように、少しずつ少しずつ蝕まれていく。さびしくてかなしくて虚しくて、苦しい。
「アニキ」
オレは無言の背中につぶやいた。もう一度こっちを向いて、オレを見てほしかったけれど、アニキは「ん」と喉を鳴らしただけでパソコンから目を離さない。
「ほんとだから」
なにが、とは言わない。言わなくともわかっていると思うから。アニキはキィボードを叩く手を止めず、「ああ」と言った。知っている、と。
背後にある窓をふり返った。夜はとっぷりと更けて、とても濃い色をして目の前に広がっていた。空には月も星も見えない。窓硝子の表面が結露で白く濁る。四月の頭は、まだ肌寒さを残している。オレはアニキの体温を思いだす。触れたり抱きしめたりした時に伝わってくるアニキの体のあたたかさを思う。それを、今また感じたいと願った。
願った、だけだった。
「……オレ、ぼちぼち寝るわ」
ベッドから立ち上がり、大きく伸びをするとあくびが出た。アニキがこちらに視線を寄越す。
「アニキはまだそれやんの」
それ、とオレは顎でパソコンをしめす。なんのことやらさっぱりな数字と記号が羅列されている画面は、少しもおもしろいとは思えなかった。(でもアニキにとっては非常におもしろく興味深いものなのだ。)
「ああ。まだデータをまとめきれてないからな」
「そっか」
頼むから少しは寝てくれよ。余計なお世話だとわかっていても、平気で二徹三徹するアニキの体を、つい心配してしまう。きっと今の作業が終わったら大学のレポートの続きに着手するにちがいない。オレのいうことを、アニキはちっとも聞かないんだ。
「啓介」
ドアノブに手をかけたオレに、アニキが声をかけた。ふり返る。アニキの視線に視線が絡む。アニキはうすく笑って、
「おやすみ」
ちいさな声で、言った。ガキを諭すような穏やかでやさしい声だった。どこか甘ったるくも聞こえるその声に、耳たぶがあたたかくなった。
「……うん。おやすみ」
オレは返事をして、部屋を出た。ドアを閉める音がひんやりとつめたい廊下に響いて、オレの耳の奥でぐるぐると渦を巻いた。
オレたちの関係が決定的に変わる時が、いつか来るのだろうか。それはいったいいつなんだろう。オレはそれを望んでいるけれど、アニキはどうなんだろう。アニキのほんとうの気持ちを知りたかった。今はただ見つめるしかできない大きな背中を抱きしめて、愛してるとすなおに伝えたかった。それだけでいいから、したかった。
好きだよ、愛してるよ。いつかそれを、オレに言わせて。
(25.0406)