※いつか、きちんと小説のかたちにしたいと思っている未完成SSです。
※年齢操作、過去捏造しております。(涼介高校生、啓介中学生くらい)
目の前に広げられた手を、啓介は掴めなかった。自分にはその手に縋る資格などないと思ったから。いちど俯いて、ふたたび目を上げて、睨むように兄を見る。夕日を浴びて、兄は茜色に染まっていた。
構ってほしいとすなおに言葉にできたころが、自分にもかつてあったはず、なのに今は引き結んだ唇を、どうしてもほどくことができない。不貞腐れた顔で、唇を尖らせて、差し出された手の横を通り過ぎる。夕がたの光が背中にあたたかだった。ズボンのポケットに両手を突っ込む。もうオレに構ってくれるな、触れてくれるな。そんな拒絶を示したつもりだった。聡い兄はすぐに意味に気づいて、弟の後ろを数歩離れた距離を保って歩き始める。
殴られた頬がひりついて痛かった。舌打ちが洩れる。
――どっかに行っちまいてぇや。
うす紫色に染まりはじめた空を見上げて、でも、どこに? と、啓介は自問する。どこか、どこか。ここじゃない遠くのどこか。アニキからも離れた、ずっとずうっと遠い場所。
いつのまにか茶飯事になっていた弟の喧嘩を、でも兄の涼介は咎めることなく、ボロボロになった啓介に「帰ろう」と促す。いやだ帰らない。そのたびにいくら駄々を捏ねても、兄のまなざしに射られると啓介は、おとなしく従うことしかできなかった。
兄は優秀で立派な人だった。だからオレはこんなにも苦しいのだと、ほんとうは泣いて訴えたかった。アニキがいるならオレなんかいらねぇじゃんか。オレがここにいる意味って、なに?
「泣いてるのか? 啓介」
「……泣いてねー」
短く鼻を啜る。顔を背けたはしから、涙の粒がぽろぽろと頬をつたった。細かく震える肩に、兄はとうに気づいていた。
「泣いてるじゃないか」
「泣いてねーって!」
背中について歩く兄がくつくつと喉を鳴らして笑うので、悔しさで顔が熱くなった。そして憎まれ口がついて出る。
「きらいだ、アニキなんて」
吐き捨てて、すぐに後悔が胸に広がった。涼介は、でもなんでもないふうに「そうか」と言った。その態度に啓介はますます苛立った。
「大きらいだ」
嗚咽のあいまに洩れる声はみっともなく掠れて、濡れていた。涼介の冷静さを前に、泣いていないと抗う気持ちはすぐに萎えて、決壊したようにあふれる涙を啓介は乱暴に拭う。
「オレは啓介を好きだけどな」
えっ、と、思わず足が止まりそうになった。狭くなった歩幅分、兄との距離が縮まる。ふり返りたい衝動を抑えて、啓介は慌てて大股で歩き出す。
「うそだ」
そんなわけない。こんなデキの悪い弟、みんないらないに決まってる。みんな――父さんも母さんも、アニキも。
「ほんとうだよ」
「うそつき」
ほんとうだ、と、涼介は静かにくり返す。目のふちが熱かった。喧嘩に負けた情けない弟の背中を見ながら、兄がどんな顔をしているのか、気になった。でも、ふり返るのは怖かった。傷だらけになった拳を握って、啓介は唇を噛みしめる。
「啓介」
ふと手首にあたたかさが触れた。見ると、涼介の手が啓介の手首をやさしく掴んでいた。足を止めて、涼介の顔を上目で見つめた。啓介よりほんの少しだけ高い位置から向けられる視線はやわらかい。夕日の茜が、涼介の頬に斜めにさして輪郭を曖昧にさせた。
ふたたびあふれてきた涙が、目の前にあるすべてをぼやけさせた。啓介、と涼介の唇が動く。まだ幼さを、わずかにだが残している目もとがゆるんだ。空いている手が啓介の頭を抱き寄せる。
「オレはおまえが、好きだよ」
ほんとうに、大好きだよ。
頬を涼介の鎖骨に押し当てて、啓介はその声を、ことばを聞いた。目のふちに引っかかっていた涙がこぼれ落ちて、涼介のTシャツの襟を濡らす。下唇を噛み、啓介は嗚咽を堪えた。頭を抱くてのひらが、自分のそれよりずっと大きくて、頼もしく、大人のものに感じられた。
「信じてくれなくてもいいけれど」
ふふ、と、涼介は小さく笑う。その体にしがみついて、啓介は声を殺して泣いた。
(25.0519)