疲労が、肩まわりや背中に広がっているのを感じた。乾いた地面に雨が染みこんでいくような、じわりじわりと蝕まれていく感覚。涼介はため息を吐き出して、椅子の背もたれに体重を預けた。パソコンのモニターを埋め尽くした文字を左上から右下へとなぞり、結びの文言に誤りがないことを確認すると上書き保存をする。
 そこでようやく、頑なだった体にわずかな緩みが生まれた。
 デスクの上には、今回のレポートを仕上げるために集めた医学書や学術書、大学図書館でコピーしてきた論文の紙の束が無造作に積まれ、それぞれがデスクライトの白い光に濡れていた。
 壁掛け時計は午前四時十五分をさし示していた。デスク横にかかった遮光カーテンを捲ると、いつのまにか、空は白みはじめていた。
 結局、今夜も徹夜になってしまったな。涼介は首を左右に捻って伸ばしながら、心中でぼやいた。
 この春に始動したプロジェクトDの指揮を執りながら、これまで通り大学生活を滞りなく送るためには、涼介には圧倒的に時間が足りなかった。
 削れるのは睡眠時間くらいで、しかしそれも体力や体調に影響が出ない程度の塩梅をキープしなければならない。プロジェクト・リーダーである自分が体調を崩すなどけっしてあってはならないし、そう思えば思うほど、涼介のまとう空気は緊張をはらんでいった。
 ――少し、突っ走りすぎているかもしれないな。
 目頭を押さえて、自制の言葉を頭の中で唱える。次第に膨れてゆく疲労がブレーキになってくれているあいだは、まだ大丈夫だ。正常な判断ができている証拠だし、今後も続くバトルの日々を乗り越えるだけの気力と体力は充分に残っている。……そうでなければ、困ってしまう。オレも、仲間たちも。
 涼介はデスク脇に置いていたマグカップを手に取り、中身がからなことに気づいた。熱くて苦いコーヒーが飲みたかった。徹夜明けで霞みがかった頭をいちど、クリアな状態に持っていきたい。それから可能な限り混々と眠るのだ。夜は今週末に控えている遠征の計画立てをしなければ――。
 ぐるぐると目まぐるしく思考する脳を宥めながら、椅子から立ち上がる。その時、耳慣れたエンジン音が聞こえて動きを止めた。重たいロータリーエンジンの音は、涼介の愛機FCのそれによく似ていて、その実、まるで別物だった。車はドライバーの性格を如実に表現する。弟のFDは、彼の性格そのもののようにパワフルで、実直で、情熱的で、そして無邪気だった。
 啓介本人に言ったことはないが、自室でレポートや課題に取り組んでいる明けがたにFDの走行音が聞こえてくると、パソコンのキーボードを叩く指を止めてそれに耳を傾けるのが涼介の習いだった。夜明けの時間に帰ってくる弟の気配を感じる時、不思議と、心が凪いだ。知らずしらずのうちにささくれてゆきそうになる気持ちを、てのひらにそうっと撫でられるようだった。
 啓介の存在に、自分は幼いころから救われてきた。ずっと。そのことに彼は、気がついているだろうか?
 軽くなったマグカップを持って、涼介は部屋を出た。


「あ、アニキ。おはよ」
 冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのペットボトルを取り出した啓介が、こちらを見て微笑んだ。くしゃりとゆるんだ顔に、強張っていた涼介の表情も自然とほどける。「おはよう」と返してキッチンに入り、食器棚からコップを手に取る。
 隣に立った啓介がボトルをゆらゆらと揺らして、訊ねた。
「アニキも飲む? 水」
「……ああ、もらおうかな」
 涼やかな音を立てて、コップに水が満ちてゆく。注がれた水は透きとおっていて、指のひらに伝うつめたさが気持ちよかった。
「かんぱーい」
「乾杯」
 コップとボトルを軽く触れ合わせた啓介に、涼介はふふ、と笑った。啓介は飲み口を口に当てると、勢いよくボトルを傾けた。
 そうとう喉が渇いていたのか、一リットルの水はすぐに半分以下に減ってしまった。
「ずいぶん飲みっぷりがいいな」
 目の前で上下するのどぼとけを見、涼介もまたコップに口をつけた。ぷはぁっと息継ぎをしてボトルから口を離し、「帰り、飲みもん買い忘れた」と啓介は少し恥ずかしそうに言った。
 キッチンから見渡せるリビングは、まだカーテンが閉まっているせいでうす暗く、しかし庭の樹々に集まってきた鳥たちの囀りが途切れずに聞こえてくる。鳥の鳴き声を聞きながら、カウンターキッチンの蛍光灯の下でしばらくのあいだ、二人で黙って水を飲んだ。ゆっくりと水を喉に滑らせて、涼介が一杯の水を飲み終えるとほとんど同時に、啓介はボトルをからにしてしまった。ボトルの腹を凹ませて、深く息を吐き出す。涼介が横目で観察すると、額にうっすらと汗をかいていた。汗が滲んだかたちのよい額に、手を伸ばした。それはほとんど無意識の行動だった。
 指さきで触れても、啓介は避けたり、逃げたりしない。しっとりと湿った肌に指が吸いつく。わずかに顔を近づけると、もう成人しているはずだのに、彼はまだどこか、ひどく幼い顔をしているように見えた。それは兄が弟に向ける、勝手な希望だと、そう涼介は理解していた。しかしそれでも、心の奥底に住まう幼い時分の彼に、今を生きている啓介を重ねてしまうのだった。
「汗、かいてるな」
 くすりと笑うと、啓介は唇を尖らせた。
「暑ぃんだもん」
 カレンダーは五月を示しているが、暦の上では立夏を過ぎた。気がつけば季節はうつろい、初夏に入ろうとしている。
「アニキ、また寝てねぇの?」
 啓介の眉が不安げに動き、目もとにかすかな影がさす。涼介は手を離して「まあな」と頷いた。コップをシンクに置く。
「またかよ。寝なよ」
「コーヒー飲んだら寝るよ」
「そんなもん飲んだら余計眠れなくなるだろー」
 多少のカフェインを摂ったほうがすっきりと起きられる体質なのだが、涼介はそれ以上言及せず、棚のからコーヒー豆の入ったキャニスターを取り出した。
「じゃあ、オレもまだここにいていい?」
 うかがうように涼介の顔を見つめ、啓介は訊ねた。べつに、オレの許可なんていらないだろうに。涼介はおかしく思いながら、「好きにしたらいい」と答えてやった。
「コーヒー、おまえも飲むか?」
「のむー」
 啓介はうれしそうに頷いて、小さく鼻歌をうたいながらキッチンからリビングのソファへと移動した。
 手動のミルで豆を挽き、ハンドドリップする時間が涼介は好きだった。豆が砕ける音がてのひらに伝わるのは楽しいし、粉状になったコーヒーが湯を受けて膨らんだり、ふつふつと音を鳴らすのも目や耳に心地好い。
 涼介がコーヒーを淹れているあいだ、啓介はテレビをぼうっと眺めていた。しばらくいくつかのチャンネルをザッピングしていたが、こんな時間ではニュースくらいしかやっていない。ふぁああー、と大きなあくびをこぼしながら番組を無難な天気予報に定めて、リモコンをテーブルに置いた。
 啓介もひと息ついたら寝るのだろう。授業のない週末は決まって昼過ぎまで眠る弟の健全さを、涼介は微笑ましく思った。
 体もたましいも、啓介はとても健全だ。昔っから、そうだった。では自分はそうじゃないのかという疑問が立ち現れるのだが、涼介はいつもそれに答えられない。――でも、少なくともオレは、啓介ほど澄んじゃいない。ちょうどさっきのミネラルウォーターみたいに、啓介は透きとおっていて、オレはもっと、ブレンドコーヒーのように雑味があって黒々と濁っている。
 サーバーに満ちた淹れたてのコーヒーを、白磁のマグカップにたっぷりと注ぐ。両手に持ってソファに近づき、一つを啓介に手渡すと涼介は彼の隣に腰をおろした。
「サンキュ」
「熱いからな」
「知ってる」
 アニキのコーヒーは地獄みたいに熱い、と啓介は言う。それはあながち冗談でもないようで、今回もカップに口をつけてすぐ、「熱っ」と短く叫んだ。舌さきを出して、
「なんでいつもこんなに熱いんだ……」
 と、顔を顰める。
「オレにはちょうどいいんだがな」
 ふぅふぅ、と息を吹きかけながら慎重にコーヒーを啜る啓介を、涼介は目を細めて見やった。
 夜はすっかりと明け、カーテンの隙間からやわらかな朝日がこぼれていた。帯状になった光はリビングを渡り、二人の座るソファをさらさらと撫でる。テレビは無音の天気予報を流し――関東地方は来週にかけて、気持ちのよい快晴が続くらしい――、限りなく静かな朝だった。
 いつもは走り込みの最中の発見を事細かく報告する啓介も、今朝は口数が少なかった。オレに気を遣ってくれているのか。それほど疲れた顔をしているのだろうか。
 片手で顔を擦るようにして覆い、数回まばたきをする。
 時間をかけてコーヒーを飲んでいると、少しずつ、頭の芯が重たくなってくるのを感じた。まばたきの一回一回が遅くなって、やがて静かにまぶたが落ち、暗闇が広がる。もういちど目を開けたいのに、まぶたは、もう重力に抗えない。
 やがて完全に意識が離れて、涼介は暗い眠りの海へと落ちていった。


 エンジン音と、バケットシート越しに全身に伝う振動。それだけで自分が、何の車に乗っているのかわかる。目を開けなくても、直感できる。啓介のFDだ。運転のレクチャーのために、FDのナビシートにはなん度も乗ったが、なん度乗っても、隣でステアリングを握る啓介の横顔がまぶしく見えて、驚く。
 まっすぐに前を見つめるまなざしが、横顔の輪郭が、のどぼとけの鋭角が、まだ小さな弟だったころの啓介から切り離されず、今もここにい続けるから。

 大きくなった、と思う。それでもまだ、オレの隣にいてくれるんだな、と。

 これが夢であることはわかっていた。しかしこの夢を、いっそう永久に見ていられたらと涼介は願った。ずっとオレの隣で、側で、笑っていてほしい。啓介。名前を呼んだ時、泡が弾けるようにして音もなく夢は消えた。

 あたたかさと重みを感じて目を開ける。金と焦茶の混ざった髪の毛が視界に入り、ついですぐ、啓介のあどけない寝顔が見えた。
 涼介の鎖骨に頬を寄せ、頭をすっかり傾けて啓介は眠っていた。その唇はうすく開いていて、今にもよだれを垂らしそうだった。
 涼介の肩には夏掛けのうすい毛布が掛けられて、あたたかさの正体が啓介の体温だけじゃないことに気がつく。普段啓介の使っているものだ。眠ってしまった涼介のために、啓介が自室から持ってきたのだろう。
 ほとんど上半身の全体を涼介に預けて眠る啓介のまぶたは、ぴったりと閉じられていて、開く気配はなかった。
 涼介は静かに腕を動かしてブランケットを肩から剥がすと、啓介の体に掛けた。そして自身もまたそれに包まれるように、隅の一方を肩に被せた。
 二人分の体温をはらんだ毛布は、もう少し時間が経って気温が上がれば、きっと暑くて疎ましいものになるだろう。でも、今はまだ心地好いあたたかさを感じられている。
 涼介は啓介の顔を見、その額に軽く唇を押しつけた。もう汗はひいて、乾いた肌の感触があった。芳しい匂いがした。健康で、健全で、誰よりもたいせつで愛おしい弟の匂いだ。
「……ありがとうな、啓介」
 耳もとに囁いても、啓介は起きるようすを見せなかった。それに安心したような、少し不満なような、複雑な気持ちで涼介はもう一度目を閉じる。啓介の頭に自身の頭を凭せ掛ける。重なった肌どうしは、ひどく、泣きたいほどにあたたかかった。


(25.0519)