この恋が叶わないとわかっていても、私はあなたを見つめていると思う。
深い新緑の色と、葉のすきまを縫って落ちるひかりが眩しくて目に沁みた。ここはいつもひかりに満ちている。湖面がひかりを跳ねかえす。樹々の枝が揺れるたび、こもれびがきらきらと散らばる。それを受けとめているあなたの頬は白く、その肌にまたひかりが反射して眩い。目をほそめて、でも私はあなたから目を離せないでいる。
「どうしたの」
湖の際に立ったあなたがこちらを見て首をわずかに傾けた。私はかぶりを振って、「ひかりが」と言った。
「眩しくて」
ほんとうは、「キミが」と言いかけたことに、一瞬の後に気がつく。気がついたけれど言い直さなかったのは、私の胸に、恥じらいというものがおそらくあったから――かもしれなかった。そんなものはとうにどこかに置き忘れてきたと思っていた。でもこの人といると、私はあられもなくただの人間にされてしまって、それを心の底から、憎らしい、と思う。彼はいつでも私を一人の人間としてあつかう、まるであたりまえのこととして。憎くて、苦しい。
なのに同時に、たとえようもなくあたたかいものが胸にあふれて、私は混乱する。とても、困る。
湖面にこまやかな波が立った。水を含んでぬかるんだ土を踏み、彼は革靴が濡れてしまうのをおそれていないようだった。
「靴が汚れちゃう」
だから、こっちに来て、と、私は手招きをする。彼はすなおに頷いて、波打ち際から身を引いた。こういうすなおさを確認するたび、年下の彼にまだ少年のあどけなさが残っていることに、少しだけ驚く。
涼介くんは背が高いので、側に立つと自然、彼の影が私を覆ってしまう。わずかに視界が暗くなると、私は、けれど安堵をおぼえた。彼に、守られていたいのかもしれない。そんな浅ましい考えが頭を過ぎり、そのたび、私は居た堪れなさに逃げ出したくなる。
涼介くんからはいつも、初夏に咲く花のような、すんとすずやかな匂いがして、私はその香りをとても愛していた。どこの香水? とたずねても、なにもつけていない、という。医者は香水をつけないほうがいいでしょう? と。
キミはまだ医者じゃないじゃないと私はわらった。そうだね、でも、いずれは医者になるから。彼のことばは真っすぐに私を射った。他意はない、ただの事実を言っているだけだとわかっていたけれど、やはり、痛みを感じた。
こんなにも近いのに、彼は、あまりにも遠い場所にいる。
輪郭を、香りを、体温を、すぐ側に感じるたび、涼介くんはどんどんと遠ざかっていく。
滲み出たさみしさを誤魔化したくて、口角を軽く持ち上げて涼介くんを見上げる。手を重ねたり、髪にさわったり、できたらよかった。でもしなかった。涼介くんも私を見つめて、にっこりと微笑んで、それだけ。やわらかく優しい笑みだった。
手を繋がずに、私たちは並んで歩いた。湖の周りを、時間を気にせずのんびりと歩くのが、私たちのデートのお決まりのパターンだった。時代おくれともいえる清らかな関係にもどかしさを感じることもあるけれど、涼介くんの思慮深い目を見ていると、これ以上なにも望めなくなる。
「ねえ」
ハンドバッグを後ろ手に持って、私は言った。ひとりごとみたいに。なあに、と、涼介くんが私の声をきちんと拾ってくれる。
「私たち、来年も再来年もそのつぎも、こうしていられると思う?」
「もちろん」
涼介くんはわらって言った。
「少なくとも、オレはそうであればいいと思うよ」
「そう」
「香織さんはちがうの?」
横目でうかがうと、涼介くんの目は不安げに揺れていた。かわいそうなことを言っていることはわかっていた。傷ついた動物の瞳をして、涼介くんは私を見つめかえす。
私は首を傾けて、
「さあ。どう思う?」
と、小さくわらった。
「でた、禅問答」
「いいから、答えてよ」
涼介くんは親指をくちびるに当てて、いつもの思案顔をつくった。
沈黙を、葉ずれの音が埋めていく。ひかりに満ちたこの場所を、これから先の何年も、ずっとふたりで歩きたい。私の答えも当然、決まっていた。でも、うそになるとわかっていたから、破綻する約束だから、口にはできなかった。
「私は怖がりなのよ」
涼介くんの返答を待たずに、私はことばを返した。
「怖がり? 香織さんが?」
「意外かしら」
涼介くんはちょっとだけ黙って、やがて神妙な顔で頷いた。
「怖いものなんてないように思っていたから」
「怖いもの、あるわ。たくさん」
「たとえば?」
「そうね、――」
ひときわ強い風が吹いて、私は立ち止まり、慌てて帽子を手で押さえた。巻きついたレースのリボンがはためく。咄嗟に涼介くんが体を寄せて、風除けになってくれた。風に乗って、初夏に咲く花の匂いがした。
「ありがとう」
ねえ、と涼介くんは私より頭一つ以上高い場所から、静かに問うた。
「香織さんを怖がらせるものって、なに?」
「……たとえば、」
私は目を伏せた。
「そら豆かな。子どもの頃、皮を剥いたらね、中からでっかい芋虫が出てきたの。それからすっかりだめになっちゃって」
「うそでしょう」
「ほんとうよ」
涼介くんは納得のいっていない表情をこしらえて、でもそれ以上の追求はしなかった。香織さんがそういうのなら、と思い至ったのだろう。
うそを誤魔化すためのうそを、また一つ、私は吐いた。
そら豆が怖いのはほんとうではあったけれど、私が伝えるべきはもちろん、そんなことではなかった。
私がほんとうに恐れているものは、遠からず訪れる終焉の鐘の音だ。
私は指さきを、涼介くんの指に絡めた。ほんの少し湿った、あたたかな皮ふの温度を感じて、泣きたくなる。
――キミが終わらせてくれたらいいのにね
たとえ懇願したところで、彼はけっしてそれをしないとわかっていた。顔を俯けて、ミュールを履いた足もとに視線を落とす。光沢をまとった紅いペディキュアが、場違いにあかるかった。
「帰ろうか」
涼介くんの手を握り、そっと促した。日はまだ高かったけれど、今夜はディナーの約束があった。父親と、父親の会社の偉いさん方との。私はきれいに着飾って、お雛様みたいな澄まし顔で椅子に座るのだ。
「帰ろう」
手を引っ張る私に、涼介くんは物言いたげな顔をしていた。私がなにか、彼を困らせるお願いをするのを、待っているようだった。彼はなにも知らない。なにも知らなくてよかった。そうであるから私も、無邪気な少女っぽく彼を愛することができた。
香織さん、と涼介くんが口をひらく。先に立って歩く私は、立ち止まらずに「うん」と返事をする。斜め後ろから、彼の声が風に乗って聞こえる。
「あなたを愛しています」
知ってるわ、と私は心の中でこたえた。私も、キミをとても愛している、と。
首を傾けてふり返った。涼介くんは逆光の中に立っていた。輪郭がひかりに溶けて眩しい。私は目をほそめると、うすく微笑んだ。
この恋は叶わない。けれどあなたをつよく愛していたことを、ずっとおぼえている。
「もう、帰ろうね」
子どもを諭すような声音で、私はいう。繋いだ手をそっとほどけば、五月の風がてのひらを滑り抜けていった。
初夏の空気はしっとりと湿って、咲いたばかりの清潔な花の匂いを、私に届けてくれた。