※高校生設定(涼介高三、啓介高一)、啓介が少しぐれていたころを妄想・捏造しております。
細かな雨粒が教室の窓を叩いた、と思ったらあっというまに本降りとなった。
昇降口に降りるまでのあいだ、すれ違った生徒たちが揃って「最悪」とくちにするのを、啓介はうんざりした気持ちで聞いた。そして、最悪、と。啓介もまたこころの中で呟いた。天気予報なんていちいち確認していなかったけれど、今朝の時点ではきれいに晴れていた。なのに雨。よりによってやっと授業から解放された放課後に。最悪。昇降口を出ると雨脚は強まっていた。灰色の厚い雲に覆われた空はたっぷりと水分を含んでいて、湿度百%の空気が肌にまとわりついて気持ちが悪かった。傘はない。置き傘なんてものも当然、していない。しゃあない、濡れて帰るか。雨で色の変わった地面に足を踏み出した時、頭の上にかげが降りてきて啓介は顔を上げた。
「濡れるぞ」
視線の先には兄の涼介がいた。無表情だったけれど、そのまなざしはつめの甘い弟を憐れむような、とてもおだやかな色を湛えており、まるで凪いだ湖の水面のようだった。
「べつにいい」
啓介はくちびるを尖らせて、言った。濡れて帰る、と。
「入っていけばいいだろう」
「いいよ」
「なんで」
「恥ずいし」
「恥ずかしいこと、ないだろ」
涼介は啓介の手首を取って引っ張ると、階段をゆっくりと降りた。兄にたいして、本気の抵抗は啓介にはできなかった。それで、小さな折り畳み傘にふたり並んで入り、帰路を歩きはじめる。しかし傘は、成長期真っ最中にある男子二人を庇えるほど立派なものではなく、雨から守られるのは頭だけだった。
涼介の、白いワイシャツに包まれた肩がしっとりと濡れていくのを見て、啓介は思わず、「肩、濡れてる」と指摘した。涼介は横目で自身の肩を、そして啓介の目を、順番に見た。
「おまえも濡れてる」
ふ、と息をもらして、兄は笑った。
「傘さしてる意味、ねぇじゃん」
「そうかな。髪は濡れてないだろう」
制服は干せば乾くし、と続ける涼介に、啓介はくつくつと喉を鳴らした。
「髪もすぐに乾くぜ」
「まあ、そうだな」
「アニキのこれ、置き傘?」
「いや、オレは置き傘はしない。盗まれたりしても困るからな」
「今日の天気予報、雨だったの?」
「朝のニュースくらい、確認するもんだぜ」
毎日規則正しい時間に起きる涼介とちがって、啓介の起床時間はまちまちだった。今朝は――このところほとんど毎朝、だが――家を出る時間の数分前に起きて、サボることも頭を過ぎったけれど、母親に促されてしぶしぶ登校した。
雨粒は途切れることなく傘を叩き、雨音に耳を傾けながら啓介は、隣を歩く兄の顔を上目で見やった。啓介を守るように傘を傾けているせいで、涼介の黒髪はしっとりと濡れて額に張りついていた。髪の先から垂れたしずくが頬を伝う。水も滴るイイオトコ。啓介はこころの中でぼやく。学校じゅうの女子、学年を問わずそのほとんどが涼介に憧れている。そんな学園ラブコメ漫画みたいなことがほんとうに、あるんだ。啓介は現実味のない事実を噛みしめて、そっと嘆息した。でも、男のオレから見ても、アニキはかっこいいもんな。昔っから、そうだったよな。かっこよくて頭がよくて、オレみたいなデキの悪い弟、放っといてくれればなんの迷惑もかからずに済むのに、放っておいてくれないこころやさしいひと。
「……ありがと」
少しのためらいののち、啓介はようやくそれだけを言った。視線が動き、涼介と目が合う。涼介は口の端をわずかに持ち上げて見せ、それがあまりに不敵なほほ笑みだったので、啓介は頬を赤らめて俯いた。言うんじゃなかった、と後悔した。でももう遅い。
「すなおなほうが似合うぞ、おまえには」
うるせー、と吐き捨てた声は、そばを走っていった車のタイヤの音がかき消して、涼介には届かずに散った。
ワードパレットより「ただし雨が上がるまで」(折り畳み傘/少し小さい/目を合わせ)
title by icca(X @torinaxx )
(25.0618)