※高橋兄弟の幼少期の捏造があります。


 啓介は昔から、水たまりを臆することなく踏める子どもだった。むしろ好んで道路のそちこちにできた小さな湖に足を突っこんで、長靴の中まで浸水しても楽しげに笑っていた。ぴちぴち、ちゃぷちゃぷ、らんらんらん。幼稚園でおぼえた雨のうたは彼の気にいりで、雨の日はいつも歌っていた。
 小粒の雨が降る中、道路にできた水たまりに、啓介は今日もまた飛び込んでいく。長靴の底が泥水を踏みつける。ぱしゃんっ、と飛沫が跳ねて、啓介のちいさな膝小僧を汚した。あーあ。涼介は彼の少し後ろで、わずかに眉を寄せた。
「また母さんに叱られちゃうよ」
 啓介は兄をふり返って、
「へいきだもん」
 と、笑った。レイン・コートに着られている啓介はてるてる坊主のようなかっこうをして、フードのふちから滴り落ちるしずくが、丸くなめらかな頬を滑っていった。屈託のない笑顔に、涼介は困惑しながらもあたたかい気持ちをおぼえる。このちいさな弟と一緒にいると、いつも、涼介の心はやさしく凪いだ。
 飛沫を跳ね上げないよう水たまりをゆっくりと踏んで啓介の側に寄り、ポケットからハンカチを出すと膝の泥を拭ってやる。
「靴下も、濡れたんじゃないか?」
「……う、ううん。ぬれてない」
 うそだと、すぐにわかった。啓介はバツの悪そうに唇をきゅっと結んで俯いた。靴下を汚したことも、兄に嘘をついたことも、叱られると思ったのだろう。涼介はふっと笑って、傘を啓介に傾けた。
「オレは怒らないから、大丈夫だよ」
「……ほんと?」
「うん」
 帰ろう。そうして、啓介のふよふよとしてやわらかな手を取る。幼いけれど、涼介の手を握り返す力は、もうだいぶ力強かった。
 雲間から淡く光のさす、ほのあかるい帰り道でのことだ。街路に植わった紫陽花が鮮やかに咲いていた。あれから十数年の時間を経ても、その道を通るたびに涼介は子ども時代の雨の日を、ふいに思いだす。

 あの時履いていた長靴は、啓介は黄色で、涼介は白色だった。色も大きさもちがうけれど、おなじメーカーの――おそらく、母親が当時好んでいたキッズ向けアパレルの――おそろいの長靴だ。あまりにもささやかなことを、しかし今でも鮮明に憶えているのは、現在のそれぞれの愛機が当時の長靴とおなじ、黄色と白色だからだ。
 涼介は小雨のカーテン越しに、成長した弟の姿を見つめる。傍らに駐車した彼の愛車は、峠を走るうちに熱を帯びたエンジンによって、かすかな金属音を鳴らしていた。
 傘をさすことなく、啓介は煙草を咥えた。その先端がやがて、チリ、と音を立てて燃えはじめる。煙を吐き出すさまはすっかり大人のもので、雨のうたを歌っていた時分の面影は、今は見えない。
 ぴちぴち、ちゃぷちゃぷ、らんらんらん。幼い啓介の歌声はもう遠い記憶の中にあった。けれど、過去と現在は地続きだ。今の啓介はあの頃の啓介の延長線上にいる。その事実が、涼介にはなんだかおかしく思え、思わず笑ってしまった。
「……なに、笑ってんの?」
 突然口もとを綻ばせた涼介を見て、啓介はふしぎそうに首を傾げた。
 なんでもない、と首をふろうとして思い直し、涼介は一歩、啓介に近づいた。啓介の顔を覗きこむと、唇に挟まれた煙草を指でつまみあげる。啓介が「あっ」と言うより早く、涼介は奪い取った煙草を自らの唇に運んだ。
「な、なんだよぉ」
 目をまんまるにする弟の反応が可愛くて、涼介は喉を鳴らして笑いながら息を吐いた。煙が、灰色の空に昇っていく。
「おまえはガキの頃から、雨を嫌がらなかったよな」
「え? そうだっけ?」
「そうだったよ」
 煙をもうひとくち吸ってから、啓介の唇に煙草を戻してやる。啓介は兄の話す内容の意味が掴めず、怪訝そうにまばたきをした。
「今も、きらいじゃあないだろ?」
 啓介はうーんと首を捻って、「どうだろ」とつぶやいた。
「路面のコンディション悪くなるし、泥で汚れるし、べつにすきじゃねぇけど」
 でもレインバトルは熱いよなあ、と続けて、啓介はにやりと笑う。その顔はすっかり走り屋のそれだった。ふん、と涼介は笑った。
「雨を怖がらないおまえは、やっぱり強いぜ」
 昔っから、そうだったな。涼介は目をほそめて弟の顔を見た。長靴やレイン・コートを汚せば母親にきつく叱られるからと、雨の道は特に行儀よく、足もとに気をつけて歩く涼介とちがって、啓介は平気で水たまりに突っ込んでいった。泥まみれになって家に帰り、母親からお説教を食らっても雨が降ればまた意気揚々と外に飛び出していく。涼介は落ちついたいい子なのに、啓介ったら。母親のお小言と深いため息を、涼介はその後、なん度も聞くことになる。
 あの日も、家に帰ってから結局は母親にきつく叱られた。
「でも昔はさー、雨降るとオレ、たしかにテンション上がってたよなー」
 啓介は目を細めた。
「わざと水たまりを踏んで歩いて、長靴も靴下もびしょびしょにさせていたな」
「そうそう。そんでいっつも母さんに怒られた」
 懐かしいな。啓介はつぶやいて、天を見上げた。水分をたっぷりと含んだぶ厚い雲が覆う暗い空に、涼介も視線をやる。
 雨はさらさらと落ち続けている。啓介の髪や頬や耳を湿らせ、パーカーのフードもわずかに濡れはじめていた。
 この程度の雨では、涼介も傘もささなくなった。走り屋として峠で車を走らせる喜びを知り、母の小言もため息も、遥か遠くのどこかに消えた。
 大人になった今では、雨に濡れるも傘で身を守るも、自由なのだ。
「もう少し、走っていこうか」
 やむ気配の見せない霧雨の中、涼介の提案に弟は心底うれしそうに頷いた。


ワードパレットより「雨音」(水たまり/波紋/飽きもせず)
title by icca(X @torinaxx
(25.0619)