※高橋兄弟の幼少期の捏造があります。
普段あまり入ることのない和室の、押し入れの奥深くに眠っている何冊ものアルバム。それについて涼介は知らなかったわけではないけれど、思いだすこともこれまでなかった。
頼まれた母親の探しものはすぐに見つかった。くだんの押入れの片隅で埃をかぶっていた小さなブリキ製の小箱がそれで、女学生時代に友人たちと交わした手紙や葉書が入っているのだという。布巾で軽く表面の汚れを拭って母親に渡してやると、母親は心底安堵したようすで「見つかってよかったわ、たいせつなものだから」と小箱を胸に抱いた。どこに行っちゃったのかと思ってた、涼ちゃんありがとう、と、涼介を幼い頃の呼び方で呼んで、にっこり笑う。
涼介が呆れながら苦笑して、
「そんなにたいせつなものなら、もっとわかりやすい場所にしまえばいいのに」
と言うと、母親は肩を竦めた。
「そのへんに置いといて、お父さんに見られでもしたら恥ずかしいじゃない」
「オヤジに見られて困ることでも書いてあるの」
「そんなわけないでしょう」息子の言葉に、母親は憮然としたようすで言った。「お父さんと出会うずっとずっと前のものなのよ」
ともかくありがとうね。早口にそう言うと、母親はさっさと和室を出ていってしまう。
数週間ぶりにやってきた予定のない休日、朝から探しものの手伝いに駆り出された涼介は、そこでようやく解放された。母親の足音が遠のいていくのを確認して、こっそりため息をつくと、涼介はポロシャツについた埃を払い落とした。そうしてその場にしゃがみ、引っ張り出したアルバムの中から、一冊を手に取った。
母の思い出の小箱を取り出した際、天袋から一緒に下ろしたそれらには、幼いころの涼介、啓介兄弟をうつした写真がページいっぱいに敷きつめられていた。一冊ごとにきちんとナンバリングされ、撮影した年と兄弟それぞれの年齢が書かれてある。その几帳面さと筆跡で、アルバムをまとめたのは父親らしいとわかった。
今、涼介のひらいているアルバムは、涼介が小学五年生、啓介が小学三年生の頃のものだった。一ページめから順に、春、夏、秋、冬と季節が流れていく。
それぞれの季節の中で、涼介と啓介はいつも、ふたり揃ってフレームに収まっていた。涼介だけ、啓介だけ、という写真ももちろんあったが、それは入学式や卒業式といった公式な儀礼の場面くらいのもので、兄弟はほとんど毎回、ふたりで一つのように並んでいるのだった。いわゆる、ニコイチと呼ばれるかたちで。
ふ、と涼介は息を吐く。
「……なつかしいな」
浴衣を着、カメラに向かってピースサインを向ける啓介を見つけ、そのあどけない笑顔に自然と口もとが緩んでしまった。
無意識のうちに、指さきが写真の表面をなぞっていた。啓介のちいさな顔の輪郭に指を沿わせ、まるい頬を撫でる。小学三年生の啓介の頬は、見るからになめらかで、ふにふにとやわらかそうだった。
隣に立って笑顔を見せる涼介の手を、啓介は握っていた。そういえばと視線を動かしてべつの写真を見ても、啓介と涼介は手を繋ぎ合っている。夏――おそらくは、真夏――の、つよい日差しが降り注ぐ砂浜にふたりは立っていた。うすい胸板を晒した海パン姿で。並んで、手を繋いで。
そしてそれは、海の家で買ったラムネを飲む写真でも、紅葉狩りに行った山の、赤く燃える樹々の葉を背景に撮った写真でもおなじであった。
記憶を辿るまでもなく、涼介は当時の啓介の手の温度や質感を思いだすことができた。成人した今の、乾いて固い皮ふとはまるでちがう、子どもだけが持つしっとりとした、あのやわらかさを。
思えば幼い頃から、啓介は両親とよりも、涼介と手を繋ぐことを好んでいた。他人に聞かれたら「うぬぼれ」と言われてしまいそうだが、それがけっしてうぬぼれでも思い違いでもないことを、涼介は自負している。
兄の手を求めてさまよう弟の手を、涼介はいつも、しっかりと捕まえてやった。そうすると弟が安心することを知っていたから。手を伸ばせば兄は、必ずその手を掴んでくれると信じている啓介の、うれしそうにほほ笑む姿が愛おしくてならなかった。
彼に抱くやわらかくあたたかい感情は、成長した今でも変わらずに存在している。
「アニキ? なにしてんの?」
ふいに声がかかって、涼介はふり返った。寝癖のついた髪の毛を横柄に掻き上げながら、啓介がふしぎそうな顔をして敷居の外に立っている。聞き慣れた弟の声はほんの少し掠れていて、昨夜の彼の帰りが遅かった理由を涼介に伝えていた。
「おはよう、啓介」
涼介の挨拶に、あくびまじりに「おはよ」と返す。眠たげに、目を擦って。
「なにそれ、アルバム?」
部屋に入ってきた啓介は、涼介がこたえるより早く手もとを覗きこんで、目を見ひらいた。「げ」と奇妙な声が洩れる。
「うわこれ、いつンだよー。オレ、ぜんぜんガキじゃん」
涼介は隣にしゃがんだ弟の顔を見やり、意地悪げな笑みを浮かべた。
「そりゃあ今よりはガキだよ。小学生の頃らしいから」
啓介の横顔――そしてその輪郭――は、写真が残した当時の彼のそれとまるで変わっていなかった。
おなじ人間が年月を重ねただけなのだから当然だが、子ども時代の面影が今もきちんと残っていることに、奇妙さと愛おしさとを同時に感じる。
涼介の持つアルバムを見ながら、へーとかほーとか感嘆の声をもらす啓介は、照れを見せつつもどこか楽しげだった。それで、涼介も気をよくしてつぎつぎとページを捲っていった。
「うわこれ、なつかしっ! ハロウィンじゃん!」
啓介が一枚の写真を指さして笑う。
「憶えてるのか?」
「憶えてる、憶えてる。ガチめの仮装だったから、緒美がマジで怖がって泣いたよなあ」
地域の子ども会が主催した、ハロウィン行事に参加した時のものだった。涼介はミイラ、啓介は狼男に扮した恰好をして家の近所を練り歩き、「トリック・オア・トリート!」と言っておとなたちにお菓子をねだった。
そうだったよな、と涼介は思い返して笑う。啓介の狼男は単純な着ぐるみだったが、壁に映った影はいかにもモンスター然としていた。いつもとちがう自分の姿に満足して、調子に乗った啓介が緒美の背後に近づいて大声(鳴き声)を上げたら、その声と影とにびっくりして、緒美は大泣きしたのだった(ちなみに緒美の恰好は魔法少女で、彼女もまたそれをとても気に入っていた)。
「そんで母さんにめちゃくちゃ怒られたんだった」
「あれはおまえが悪いよ」
涼介が笑っていうと、「アニキも憶えてんだ?」と啓介は目をまるくさせた。「憶えてるさ」涼介は頷いた。おまえと過ごした時間は、どれもちゃんとおぼえている、と。その言葉に、まるくなった目がゆっくりと弧を描き、静かに細められた。
兄の答えに啓介は満足げにほほ笑んで、もういちど、おおきなあくびをする。眠ぃ。唇のすきまから、声がこぼれる。
「昨夜は遅かったな」
涼介は額に落ちた前髪を払ってやりながら、言った。ゼミの飲み会のため、昨夜の啓介の帰宅が午前二時を過ぎていたことを涼介は知っていた。峠を走る時は朝まで、がいつものことだから、午前二時なんて遅い帰宅とはとても言えない時間である。しかし、飲み会となるとイレギュラーな事態だった。それに啓介は普段、そういった集まりには参加しないタイプだった。特別話が合うわけでもないゼミ生と飲んだって楽しくない、というのが主な理由で、さらに、「アルコールを摂取してしまうと車に乗れない」が付け足される。けれど昨夜は、ゼミで教鞭を執っている教授の慰労会という態だったらしく、仲間に頼まれて渋々顔を出したのらしい。
あぐらをかいている啓介を見やると、そのまぶたは重たげで、いかにも寝足りないようすだった。すでに昼前になっていたが、全身に回ったアルコールも、きっとまだ抜け切っていないのだろう。
頬杖をついて弟の横顔を眺めていると、視線に気づいた啓介は「んん?」と首を傾けた。その仕草が可愛らしくて、涼介は思わず、くすくすと笑ってしまう。まるで子どもみたいだ、と思う。酒も煙草も嗜む立派な男に成長したというのに、オレからすればこいつはいつまでも子どもで、可愛い可愛い弟なんだ。
「啓介」
「ん?」
返答も待たず、啓介の右手首を掴む。指を素早く動かして握りこみ、手と手を絡ませた。啓介の目が驚きでふたたびまるくなった。
「どしたの、アニキ」
「いや、……」
啓介の手は寝起きのそれらしく、ほんのりとあたたかかった。もう子どもの体温とは到底呼べないものの、そのあたたかさは幼い時分の啓介を思いださせた。
「なんだよ、一人でニヤニヤして」
啓介は照れくさそうにほほ笑みながら、でも繋がった手をほどこうとはしない。どころか、涼介の手を軽い力で握りかえし、
「アニキとこうすんの、なんかなつかしいな」
と、言った。「ガキの頃よくこうやって、アニキと手ぇ繋いでた」と。涼介は浅く息を吐いて、
「おまえ、外に出る時はいつもオレと手を繋ぎたがったな」
ほら、写真でもいつも手を繋いでるだろう? そう続けると、啓介は唇を尖らせた。
「……だってそれは、かーさんが繋げって言うからだろ。迷子になるからって」
「母さんが言わなくなっても、繋ぎたがってたぞ?」
そうだ、年齢を重ねて、小学校の高学年になっても、啓介は涼介の手を求めていた。
兄の追求に、啓介は赤くなった顔をふいと背けた。照れた時の彼の癖だ。涼介はからかいたくなる気持ちを抑えられず、
「よっぽどオレのことが好きだったんだな」
と、続けた。鷹揚な態度で、笑いながら。
そうであればいい、と思っていた。幼い頃から、弟がいちばんに欲するものが自分であることを、涼介は心から願っていた。
「そうだよ」
啓介は上目で涼介を見、甘ったるい声で言った。
「ふぅん。そうか」
弟の答えに涼介はほほ笑んで、人さし指で手の甲をなぞる。啓介の手の、関節をかたちづくる骨と骨との繋ぎめ、その輪郭を、ゆっくりと丁寧に、確かめるように。
「今は?」
「今も、もちろん」
重ねて問うと、啓介はすぐに答えた。涼介は目を細めた。
「じゃあ、もう離してやれないな」
かつて、啓介の手が自身の手を拒んだ時。その時に胸の奥に走った鋭い痛みのことを、涼介はよく憶えている。
求めてほしいという涼介の願いを、連れ戻そうとする手もろとも啓介は拒絶した。彼の目はかなしみの色に濡れていて、未だにせつなさで胸が締めつけられる。あまり思いだしたくはない思い出だった。
彼はもう、目の前にいるというのに。
ちゃんとここに、隣にいるのに。
いつかまたこの手をすり抜けて、こいつは、一人っきりでどこかに行ってしまうのではないか。そう思うと、ひたすらに怖かった。
啓介の目を見つめながら、繋いだ手に力をこめた。とうに大人のそれになった啓介の手はじゅうぶん大きくて、涼介の助けがなくても一人で立てるし、なんでもできるはずだ。それでも、いつまでもこの手を離したくないと思ってしまう。
「……離したくないな、もう」
つぶやいて、啓介の肩に額を押し当てると、筋肉のついたぶあつい肩が涼介の重みを受けとめた。かすかな呼吸の音が、鼓膜に届いた。
うん、と、喉の奥を鳴らして啓介はこたえた。
「離さないでいてくれよ、アニキ」
目を上げて、視線を絡める。まなじりを薄っすらともも色に染めて、啓介はくすぐったそうな笑みを浮かべていた。
涼介はくつくつと笑いながら啓介の鎖骨に顔を沈め、そうだな、とつぶやいた。
「目を離したらすぐ、どこかに行っちまうからな、おまえは」
たとえ迷子になっても、道を間違えても、いつでもオレがその手を掴んでおまえを連れ戻してやる。
「ん。ありがと」
だからまだもう少しだけ、側にいてほしい。そう続けたくなったせりふを飲みこんで、涼介は啓介の肩に頭を凭せ掛けた。すべては自分のわがままだとわかっていたから、口にはできなかった。
きっともう自分の役目は終わった。それでも、愛する者が望むのなら、オレはいつでもこの手を差し出す。
アルバムを閉じて、涼介は弟の匂いを思いきり吸いこんだ。かすかなアルコールの匂いと、煙草の匂い。そして啓介そのものの匂いが心地好く、涼介はそっと目を閉じた。
「永すぎた日向で」
yuko ando / nagasugita hinata de.
25.0831