顔を寄せた途端、啓介の体が強張った気配を感じ取り涼介は動きを止めた。
弟のこの反応はなんとなく予想していたから、驚きはしなかった。やはりな、と冷静に思う自分と、何を今さら? と意地悪く思う自分とが体のうちがわに同居している。
キスは、しようと思えばできた。路肩に停めた車の周囲は真夜中の闇に満ちていて、人通りも、車通りもすでになかった。十一月の夜はしんと深く、峠を下る道すがら落ちてきた雨は、やがて本降りとなって容赦なく車体を叩いた。
誰も見ていない、誰にも知られることはない。
してしまえば、だから確実にふたりだけの秘密にできた。あとほんの数センチ顔を近づければ触れられたはずの唇が、でも今はひどく遠くにあった。
「……アニキ、ごめん」
掠れた声で啓介がいうのに、涼介はやわらかく微笑んで首をふる。
「悪いのはオレのほうだ」
すまん、と謝ると、啓介は目を見開いて、
「そんなことねぇよっ」
首を激しく左右に振った。必死に兄を肯定しようとする弟がけなげで、涼介は「わかった、わかった」と言いながら彼の金髪を撫でてやった。
いたいけな弟の表情を、これ以上歪ませたくなかった。そんな自分を、我ながらもの分かりの良い兄だと思う。
顔を離し、体をシートに戻して、フロントガラス越しに外の世界を見た。雨粒はいっそう大きくふくらんで、絶えまなくガラスを叩きつけていた。
沈黙のさなか、ナビシートに沈み俯いた啓介からは緊張の気配を漂い、涼介の心に、後悔がじわりとしみをつくった。ジーンズに包まれた膝と、その上に行き場なく置かれた拳を睨む啓介の姿が、視界の端にちらついた。
あんまり意地悪をしてやるなよ、と、いつだったか史浩に言われた。あの時、たしか自分は「べつに意地悪はしていない」と答えたのだったか。
いつものようにRedSunsで集まり、峠を走っていた夜のことだ。涼介は啓介にあれこれと指示を出し、タイムを縮めるためのレクチャーをしていた。そっかわかった! ありがとアニキ! 従順に頷いて笑顔を見せた啓介がFDで走り去ったあと、史浩が近づいてきて言った。涼介は意地悪だよなあ、と。
「どういうことだ?」
言葉の意味を掴めずに問うと、おまえ自分で気づいてないのかとため息をつかれた。
「おまえのそういうとこに、啓介も慣れちまってるんだろうな……」
「だから、何がだ」
「涼介が啓介に厳しいのはわかるし、まあいいんだけどさ。身内だし」
「身内は関係ないんじゃないか? あいつに厳しくするのは、啓介の才能はこれからどんどん伸びると確信してるからさ」
わかってるよ、と史浩は言った。「ただ」と言葉を継ぐ。
「啓介が犬みたいにすなおだから、なんだかあいつがかわいそうに見えてくる時がある」
史浩は苦笑して、両手を腰に当てた。涼介には彼のいう意味が、やはり理解できなかった。しかし、啓介が犬みたいにすなお――という部分だけは、なんとなくわかった。
涼介に褒められると、啓介はほんとうにうれしそうに笑うのだ。求められたタイムに到達した時、「アニキ見てたかよ?!」と駆け寄ってくる啓介は、ふさふさの尻尾をブンブン振り回して、褒めてくれとねだる大型犬に等しかった。
犬の尻尾と耳を生やした啓介を想像して、思わず口もとがゆるんでしまう。
啓介の才能を伸ばしたい。涼介につねに強くあるのはその想いで、ゆえに指導も厳しくなる。けれど厳しい指導に応えようと努める啓介の姿勢が、いっそう涼介の厳しさを加速させるのだった。そして、涼介に褒められたい、認められたいと願う啓介は、兄を満足させることにより自分をもまた満たすのだ。
この関係性にも、啓介にたいする自分の言動にも、何ら疑問を抱いてこなかった。
「あんまり意地悪をしてやるなよ」
「べつに、しているつもりはないが……」
涼介はFDが残していったタイヤの跡とその先にある闇を眺めて、一人思案した。
今、あの夜のことを思いだして涼介は、自身の心の奥深い場所に潜む「意地悪な自分」を、はっきりと認識した。
弟を傷つけたり、かなしませたりしたくないと強く思う。そのいっぽうで、自分の言葉、一挙手一投足に反応し、驚き、笑う啓介を、さまざまな表情をする啓介を、もっとたくさん見ていたいと思っているのもまた事実だった。
アニキ、と、か細い声が耳たぶを滑って、涼介は視線を啓介に向けた。闇に慣れた目に、弟の姿はよく見えた。耳のふちから目じりにかけてが、ほの赤く熱に染まっているところまで。
かすかに潤んだ目がこちらを見つめ、何かを訴えようとして唇は動くのに、果たして声が出てこない。
「どうした?」
涼介は首を傾けて、先を促す。そうして、オレのこういうところを史浩は言っていたのだな、とようやく自覚した。
弟が何を言いたいのか、その答えなんてとっくにわかっているのに、知らないふりをしてようすを窺う。これは、まあ、意地悪なんだろうな、と思う。でもそれは、啓介の反応がかわいそうで、そしてひどくかわいいからだ。啓介のかわいい部分を、貪欲なオレはたくさん見たいし知りたいし欲しいと思っている。
意地悪をするのにだって、理由はあるのだ。
「アニキは、キスしてーの? オレと……」
「ああ。そりゃあもう」
ようよう言葉を発した啓介に、涼介は満足げに頷いた。兄の返答に啓介は息を飲み、ゆっくりと吐きだす。そうして続ける。
「……オレも、キスしたい」
でもさ、と啓介は言う。
「オレたち、兄弟だし。兄弟でそういうことしたいって、なんか、ヘンじゃねぇ?」
啓介の話す内容は涼介にとって、他愛のないことに思えた。オレたちは血の繋がった兄弟で、それは覆しようのない事実で、とはいえ、だから何だというのだろうか?
「何もヘンじゃないさ。オレはおまえが好きで、おまえもオレが好きで、それだって事実だろう?」
「そ、そりゃあそうだけどさ……」
「でも、おまえが怖がっているうちは何もしないよ。オレはおまえを傷つけたくない」
啓介は唇を引き結んで、再び視線を膝に落とした。思い立ったら吉日とばかりにすぐ行動し、迷いや躊躇いとは縁遠く生きてきた弟が、自分のために言葉を探している。かわいそうに、と思うと同時に、かわいいやつだな、もっと困らせてやりたいという気持ちが泉のように湧いてくる。
きっとオレが優しい言葉をかければかけるほど、啓介は迷い、躊躇い、困ったように眉を寄せる。そう思うと涼介は、なるほどこれが意地悪というものなのかと、己の性質をはじめて思い知るのだった。
「オレは」
雨音のすきまを縫って、啓介の小さな声が聞こえた。うん、と涼介は耳を傾ける。
「オレは、アニキになら何されてもいいよ」
涼介は目を眇めた。その答えは想定していなかったから、少しばかり虚をつかれた。「そうなのか」とつぶやくと、啓介は大きく頷いた。
「傷ついたりなんかしねぇから、キスしたいし、してほしい」
啓介はやにわに身を乗り出して、涼介の膝にてのひらを置いた。スラックス越しに彼のぬるい体温と重みを感じた。
上目で見つめられて、涼介はしばらく、その真っすぐな視線を愚直に受けとめることしかできなかった。
きれいに生え揃った短いまつ毛が、かすかに震えていた。彼の言っていることは本心だとわかる。そしてその本心を引き出したのは、涼介だ。
「啓介」
涼介は弟の頭を撫で、額に軽くくちづけた。一瞬だけ唇に感じたはぬくもりは、あっというまに溶けていった。顔を離すと啓介は頬から耳までをまっ赤に染めて、目を見開いていた。涼介はつい吹き出してしまった。そして、啓介の耳を指でなぞりながら、
「キスは、もう少ししてからだな」
と、言った。
「えぇっ?! この状況で?!」
「そんなにまっ赤になられたんじゃ、あんまりオレが悪者みたいだ」
「えー、なんだよ、それぇ……」
啓介はシートに背中を預けて、深々と息を吐きながら天を仰いだ。そうして、
「アニキってさぁ、イジワルだって言われるだろ?」
横目でじっとりと睨まれる。涼介は目を細めた。
「ああ、言われる」
「やっぱり」
啓介はぼやいて、そっぽを向いた。窓ガラスに額を押しつけ不貞腐れる弟は、やはりかわいいものだった。
――おまえには特に、意地悪したくなるんだよ。
そう言おうとしたけれど、呆れられそうだからやめておいた。
いつしか、雨脚はさらに強まっており、濡れそぼった道路は街灯のあかりと溶けあってゆらゆらと揺らめいていた。
もう朝までここにいてもいいな、と涼介は思った。啓介もきっとおなじことを考えている。自惚れからではなく、幼い頃から一緒にいる兄弟ゆえに、彼の思考を察することができた。
そう、幸か不幸か、オレたちは血の繋がった兄弟なのだ。
涼介はサイドブレーキを下ろしウィンカーを上げると、いつになくゆっくりと車を発進させた。
きっといつか、オレたちの関係は決定的に終わり、そして変わっていく。その時に啓介をかなしみに暮れさせることは、絶対にしない。
涼介は啓介に気取られないよううっそりと笑い、それからは普段と変わらぬスムーズさで、FCを滑らせていった。
「ひそやかに兆す」
25.1110