いったいいつまでそうしてるんだ。そう、投げつけたくなる声を飲みこんで、彼に聞こえないおおきさでため息をつく。ふうっと吐き出された息は誰に届くこともなく部屋の空気に溶けていった。あえて彼から視線を逸らしスーパーで買ってきた惣菜をダイニング・テーブルに並べていく。唐揚げとフライドポテトは彼――一虎の好物だから買ってきた。それにちいさなサラダを二種、付け足す。この程度の野菜を食べたところで日頃の不摂生が解消されるとは思っていないけれど、ないよりはマシだ。きっと。ソファを一瞥すると、長い髪の毛をお団子に結った、一虎の後頭部がそこにはある。
「一虎くん、メシ、買ってきましたよ」
まるでペットに言ってるみたいだな、と、こういう時に千冬は思う。こういう時――つまり、仕事から帰った一虎が帰宅の挨拶もせずソファに直行し、合皮のカバーに深く体を沈める時――は、さっさと飯を食わせて風呂に入らせてベッドに押しこむのがいちばん良い。多少乱暴にでもそうしないと、彼のこの状態は明日以降も続く。それは、あまりにも煩わしかった。
一虎のテンションがするすると落ち、深く暗いぬかるみに足を搦め取られてしまうのは、頻度こそ減ったが無くなったわけではなかった。ポテトを一つ摘んで口に運びながら千冬は、微動だにしない一虎のお団子を見つめ、ふたたび浅くため息をついた。
煩わしいだなんて思うのは、残酷かもしれなかった。けれど一つ屋根の下で暮らしはじめてもうずい分と時間が経つ。その間に一虎が不穏になった回数は両手の指では数えきれない。いい加減、千冬は飽きてきたのだった。
そして何より、いつまでも彼を癒せないらしい己の非力を思い知らされて、苛立ちもしていたのだ。
――どうせまた、自分ばっかカワイソーとか、思ってんだろうなあ。
味の濃いポテトを咀嚼していると、口の中の水分がどんどん奪われていって、それもまた不快だった。いっそのことビールを開けようかと思ったけれど、冷蔵庫まで歩いていってドアを開けるのさえかったるかった。
……うわなんか、すげーヤな気分。
胸の奥でむずむずとした違和感が蠢いていた。オレがいるのに、なんだってそう落ちこむんだか。オレが、ここにいるってのに。
「ちふゆ」
ふいに、蚊の鳴くような声が聞こえた。空気をかすかに震わせたそれを、一虎が発したのだとすぐにはわからなかった。千冬は指についた塩を舐めながら、「なんか言いました?」とこたえた。
ソファは、テーブルに背を向けたかたちで置かれている。この部屋に越してきてすぐに買った、二人掛けのソファだ。もっとおっきいのがいいと一虎がごねたことを千冬は今でも鮮明に覚えている。オレら以外いねぇのに、おおきいの選んでもしょーがないでしょ、と反論したことも。その時に一瞬だけふるえた、一虎のまつげの繊細さも。
なん度めになるかわからないため息をついて、千冬は椅子から立ち上がった。今度のため息はしっかりと、一虎にも届いているはずだ。
「なんスか」
ソファに膝を抱えて座る一虎のよこ顔は、彼の今のテンションに不釣り合いなほどきれいに整っていた。どんな時でもカオだけはいいんだから、この人は。千冬は彼の隣に座って、クッションに背を凭せ掛けた。
成人した男二人が座れば、ソファは、もういっぱいになってしまう。窮屈で、ちょっと端寄ってくださいよと訴えたが、一虎は動かない。仕方なく腕と腕、肩と肩とを触れあわせていると、一虎の体が小刻みに震えているのがわかった。千冬はいよいよ、あーあ、と盛大に声を洩らし、
「ったくもお、あんたはぁ!」
一虎の頭を両手で掴んで、勢いよく引っ張ると胸に抱きしめた。わっ、と悲鳴のような一虎の声が聞こえたが、構わなかった。
「あーあーもー、あんたって人はほんっとーに……世話の焼ける面倒な人だなあ!」
「なっ、……んだよっ! 面倒とかゆうなっ!」
胸の中に収まった一虎のちいさな頭が、不服を訴えて揺れた。
「ほんとのことじゃねぇっスか」
それは、まったくの事実であった。この人は面倒だ。世渡りベタで不器用で、オレがいなかったらすぐに生活が行き詰まってしまう。千冬はそう、つねづね思っていた。
「オレがあんたの面倒くささ引き受けねぇで、誰が引き受けるんスか」
もし場地さんがいたら、助けてくれたかもしんねーけどさ。とてもとてもちいさな声で言うと、一虎の体がビクンッと跳ねた。まるで怯えるようなリアクションに、ああ、やっぱりな、と千冬は思う。
今夜の彼のテンションを下げた要因は、やはりこの件だったのだ。一虎は震える声で、「場地」と言った。雨の中に捨てられたような、頼りのない声だった。
「……もうどこにもいねぇ人に助けを求めるんじゃなくって、目の前にいるオレに助けてって言えよ」
鼻を啜る音が聞こえた。あたたかい涙が、千冬のシャツを湿らせる。
ひどいいじわるを言ってるんだろうなあ、と千冬は思う。でも、現実は現実だ。場地さんはもうこの世にいない。もう、会えない。ゆうれいになって出てきてもくれない。去年のお盆もお彼岸も、ふたりして律儀に待っていたのに。
泣きたいのは千冬だって同じだ。場地の不在を思うたび、胸が締めつけられて涙があふれる。こんな未来を生きるつもりはなかったのに、オレはちゃっかり生きてちゃっていて、一虎くんも生きちゃっていて、そうしてふたり、場地さんの不在を共有してる。
「……バカみてぇ」
ほんとうにそう。オレらはバカだ。傷を舐め合っているなんて思いたくないけれど、よそから見ればオレらの関係はそれ以外に表現できないだろう。
ぐずぐずと泣く一虎を抱きしめながら、オレはこの人とどうなりたいんだろうと千冬はふと、考える。どうなりたい? それとも、どうもなりたくない? ずっと一緒にいるつもりなのか、いつかそれぞれ、一人で生きるようになるんだろうか?
「“いつか”のことなんてわかんねぇ」
ん。と、涙に濡れた声で一虎は呻いた。そうしておおきな目を持ち上げて千冬を見た。千冬もまた一虎の瞳を見つめた。
「いつどうなるなんてわかんねぇけど、もうしばらくは一緒にいましょうよ」
せめてあんたが、大丈夫になるまでは。そう付け足すと、一虎の目のふちから大粒の涙がこぼれ落ちた。
「だから早く泣き止んでくださいよ」
「……うん」
「メシ、冷めるし」
「うん」
こたえながら、一虎の涙はでも止まらない。なんでそんなに泣くんスか、と千冬は呆れて言った。千冬の鎖骨に濡れた頬を押しつけて、一虎は、ひどくか細い声をもらした。
「……オマエがバカみたいに優しい」
深淵でずっと見ていた
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(25.0813)