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2025年8月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
リプライズ(ばじふゆ)
まだおつき合いはしていないばじとふゆ。
千冬の名前が(書いた人が)好きすぎたのと、千冬を、ちい、と(書いた人が)ばじくんによばせたかっただけのお話。
千冬ママなど、捏造過多です。原作との乖離が激しめかと思いますので、苦手なかたは閲覧にはご注意ください。
※プライベッターより再掲
窓の向こうで、蝉が喚き散らしている。毎年夏が来て、蝉の声を聞くと、ああこいつらも必死なんだな、なんて、センチメンタルな気持ちになってすこしさみしい。
とっくに食べ終わったアイスの棒を前歯で噛んでいると、木の味と、そこに染みこんだアイスの微かすぎる味がする。きょうはイチゴ。くち寂しくて噛んでいるだけだけど、みみっちい、とかあさんによく言われる。オレもそう思う。でもなんだか、癖になってしまって子どものころからずっとやめられない。
夏休みは順調に過ぎてゆき、八月も終盤に差し掛かろうとしていた。協力して夏休みの宿題をする、という名目で場地さんとふたり、テーブルに向かっていたはずなのに、いつの間にかふたり揃ってダレて、漫画を読みはじめたら止まらなくなった。この一冊を読んだら再開しよう、と思うのだけど、それを十二回くらいくり返している。場地さんもおなじようで、オレの蔵書の『NANA』を夢中になって読んでる。
寝転がっていた場地さんが、続きぃ、と言いながら上体を起こした。ぱさ、と長い黒髪が目の前で揺れた。
宿題はちっとも進んでないけど、そんなことはもうほとんどどうでもよかった。オレは場地さんとこうして一緒に過ごせる時間が楽しかったし、うれしかったから。場地さんとおなじ空間にいて、他愛のない話をして、漫画を読んでごろごろして。
外では蝉たちの声が喧しくて、太陽はギラギラと照りつけて、夏が最後の力を振り絞ってるみたいだった。
千冬ぅ、と、本棚に向かっていた場地さんがとつぜん、ふり返った。
「なあこれ、なに?」
「え?」
言われて、読んでいた漫画から顔を上げると、カサカサに乾いた半紙が場地さんの指に挟まれていて、そこには細い筆ペンで書かれた、見慣れた字が並んでいた。
あ、とオレは声を洩らした。湿気を吸って、経過した時間を感じさせるペラい紙には、
命名 松野 千冬
かあさんの丸っこい癖字で、そう書かれている。年季が入って黄ばんでいるその半紙は、昔、押し入れを片づけていたときに見つけたものだった。きっとかあさんが、オレが生まれるってわかったときにでも書いたんだと思うと、捨てようにも捨てられず、ずっと本棚の隅っこに折り畳んでしまっていたのだ。
「かあさんが昔書いたやつっす、それ」
命名書、ってやつっすよ。
べつに、見られて困るものでもなかったので、すなおにそう言った。場地さんは「へえー」と興味深そうに息を洩らして、半紙をまじまじと眺めた。
「おまえこんなん取ってンだ。なんつーか律儀だなー」
「……いや、たまたま見つけただけっすよ」
見られて困るものではない――とはいえ、場地さんにそう言われると途端に恥ずかしくなる。いちおう、オレらは不良で、一生けんめいツッパってるから、こんな、“思い出の品”みたいなのは場地さんは好きじゃないのかもしれなかった。そう思うと頬に血が上ってきて、「あんま、じっと見ないでください」と頼りない声で言った。
オレの訴えを聞いても、場地さんは、でも半紙から目を離さない。かあさんの字は習字のお手本みたいにきれいじゃないし、命名の紙ってもっとおっきくて太い筆で堂々と書いてるイメージがあったから、ちっちゃくて、細い筆ペンで遠慮するみたいに書かれた「命名 松野 千冬」の文字がひどく弱っちいものに見えた。
「あの場地さん、それそんな、じっくり見るもんじゃないすよ」
字、きれいじゃねえし。っていうかもう、捨てよっかなって思ってたんで。古いし、汚いし。捨てちゃってください、それ。
もごもごと言い訳みたいに言いながらさりげなくゴミ箱を場持さんの側に押しやると、場地さんは、きょとんとした顔をして、言った。
「は、なんで?」
なんで? って、ほんとうにオレの言うことの意味がわからなくて訊いてるみたいだった。
「え? なんで、って……」
「なんでだよ、捨てんなよ。せっかくかーちゃんが書いてくれたンだろ」
ほら、と場地さんはオレに半紙を渡した。たくさんの皺の寄ったくしゃくしゃの半紙。
「もったいねージャン」
そう言って場地さんは、漫画本の続きの巻を手に持ってオレの隣に座った。ふわ、と髪の毛が揺れて、かすかに場地さんの匂いがした。
「前から思ってたけどさあ」
場地さんはオレの手もとを覗きこんだ。冷房はしっかり効いているのに、場地さんが隣にいるってだけで体感温度が二度くらい上がった気がする。さっきからずっとおなじ部屋でごろごろしてたくせに、今さらすぎて、恥ずかしがってる自分が逆に恥ずかしかった。
オレの気持ちなんてすこしも知らないようすで、場地さんは、
「お前の名前って、いい名前だよな。“千冬”、って」
と、言った。とつぜんそんなことを言われて、びっくりする。
「そ、っすか?」
褒められたことが、でもうれしくて、むしろ女みたいな名前で嫌いだった、とは言わなかった。
「うん、いーじゃん。“千冬”って。冬ってなんか、カッケーし」
八重歯を覗かせて場地さんは笑う。
「場地さんの名前のほうがカッケーすよ。こう、漢! って感じして」
「オレのなんてどこにでもいそうじゃんか」
ケースケだぜ? もっとカッコいい名前つけろっての。笑いながら場地さんが言うので、つられてオレも笑った。
半紙にふれると、かさり、と音が鳴る。もう十二年も経ってるから、当たり前だけどぼろぼろだ。自分から捨てなくても、このまま放置していても、自然と消えてなくなってしまいそうな気がした。
あ、そうだ。場地さんは思い出したようにスクールバッグの中に手を突っこんだ。
「千冬、ってどんな意味あんだろ」
ぶ厚い国語辞典を場地さんは毎日持ち歩いてる。もう留年れねぇからって言って。真っすぐで、真面目なんだ。場地さんのそういうとこも、オレは好きだった。
「ちふゆ、ちふゆ……」
ち、のページを捲っていく場地さんを見つめながら、たぶん、“千冬”は載ってないと思いますよ、と言おうとしたけど、言えなくて、黙っていた。
ちふゆ。ちふゆ。ちふゆ。……。
くちの中で何度も名前を転がされると、ちょっと、いやかなり、こそばゆかった。こんなにたくさん自分の名前を場地さんが呼んでくれたのは初めてだった。ぼっと顔が熱くなって、リモコンを操作してこっそりクーラーの温度を一度下げた。
「ッンだよ。千冬、載ってねえじゃん!」
バンっと勢いよく辞典を閉じて、場地さんは憤慨する。「役立たねえな、これ!」。床に放った辞典を受け取って、
「じゃ、千冬の、ち、を調べてみません? ち、ってか、千、か。せん」
「千?」
せ、のページを開くと、目当ての単語はすぐに見つかった。千。せん。数の名。百の十倍。また、転じて、数の多いこと。
「……結局どういう意味」
「たくさん、ってことっすかねぇ」
じゃ次、冬は? 場地さんに急かされて、ふ、の項目を捲る。冬。ふゆ。四季の一つ。四季のうちで最も寒い。
「……だ、そうです」
「めちゃくちゃそのまんまじゃん」
「っすね」
「“たくさんの冬”ってどーいう意味よ?」
うーん、と唸ってオレは天井を仰いだ。正直、こんなふうに自分の名前を調べるなんてしたことがなかったから、千、と、冬、の意味をあらためて知ることができてちょっとうれしかったというのがほんとうだ。場地さんは、でも納得のいかないみたいで、オレからまた辞典を奪って、せん、と、ふゆ、のページを行ったり来たりした。
んー、と場地さんは唇を突き出した。
「……でもおまえ十二月生まれだし、冬なのはなんとなくわかる」
「まあ、だから冬って付けたんでしょうね」
冬に生まれたから、千冬。じゃあ春に生まれてたら、千春になってたんだろうか。千冬より女みたいな名前だ。冬に生まれてまだよかった。
「千、は納得いかねーけど。でもおまえのかーちゃんが生まれたばっかのおまえを見て、なんとなく、こいつは“千冬”だ、ぴったりだって思ったのかもしんねーな」
「……どう、でしょうね」
場地さんの意見に、苦笑する。そんなこと考えたこともなかった。そして場地さんのくちから、生まれたばっかのおまえ、なんて言葉が出たことに驚いて、同時にすごく、照れくさかった。
生まれたばかりの自分の写真を、かあさんはアルバムに残していたはずだった。ちいさいころ、何度か見せられたことがある。生意気そうな目をして、ぜんぜん可愛いとは思わなかった。むしろ物言いたげに顔を歪め、不服そうな面で、それがおかしかった。――もうずいぶん、アルバムなんて見てないけど。
「そっか、千冬って、たくさんの冬、って意味かあ」
たくさんの冬、が一体どういう意味か結局わからなかったけど、場地さんは諦めたように辞典を閉じた。ぶ厚くて重たい辞典をスクールバックにしまう。場地さんは命名書を手もとに残しているオレを律儀と言ってくれたけど、オレからしたら場地さんのがよっぽど律儀だ。なんだかんだ勉強しようとしてるし、真面目に授業を受けている。
襟足のとこで一つに結われた黒髪が、くびすじを流れた。場地さんのくびすじはとてもきれいで、見ているとどきどきしてしまうから、オレは慌てて視線を逸らした。沈黙が落ちる。無言の空間に、クーラーが風を吐き出す音と、外の蝉の鳴き声、それからふたり分の呼吸の音が混ざって、なんだか、すごくヘンな感じだ。
場地さん、と言おうとして、喉がひどく渇いていることに気がつく。麦茶のピッチャーは汗をかいていて、しずくが、つぅーっとガラスの側面を落ちてゆく。
ドアの向こう――廊下で、電話の鳴る音がした。すごく遠いとこで鳴ってるみたいに聞こえる。ほんとは玄関側、オレの部屋のすぐ近く、なのに。
かあさんが出て、なにかをしゃべっている。間を置いて、笑い声。オレは喉を鳴らして唾を飲みこみ、このヘンな空気をなんとかしようと努力した。場地さんのほうを見る。くっきりとした横顔がきれいだな、と思う。そして、そんなことは今はどうでもいいんだって思い直す。
「……麦茶、飲みません?」
ようやく声が出た、と思ったとき、部屋のドアがノックされて不覚にもびくりとした。とんとーん。くちでノックの音を真似しながら、こっちの返事も待たずにドアを開ける。「ちい、ちょっと電話出て」。
ゆるみかけた空気が再び固まった。場地さんはぽかん、としてかあさんを見て、オレは目を思いきり丸くさせて、かあさんはなんでもない顔のままオレを手招く。
「福岡のおばさん。ちいの声聞きたいって」
「ちょっ……!」
「……“ちい”?」
場地さんが復唱するのに、耳を塞ぎたくなった。わああ、と大声を上げてしまいたい。もしくはこの場から消え去りたい。
「かっ、勝手にドア開けンなよ!」
「あら、かあさんちゃんと、とんとーんってノックしたわよ」
「こっち返事してねーだろっ」
「ちい」、と場地さんが隣で呟くのが聞こえた。ぎゃああ、やめてください! くり返さないで! 場地さんの声でそう呼ばないでくださいっ! オレの心の叫びは場地さんにも、かあさんにも届かず、ただオレの体の中で虚しく反響するだけだった。
「場地さん来てっから出れないって!」
オレはかあさんに向かって叫んだ。かあさんは眉をへの字にさせて、「困った反抗期ねぇ」とトンチンカンなことを言ってドアを閉めた。
ぜいぜいと肩で息をして、顔に上った血がずっと留まったままなのをどうしていいのかわからず、かあさんの閉めたドアをきつく睨むしかできなかった。
ちい。とか。呼ぶなって。もう。オレは、ガキじゃねーンだぞ。
「千冬ぅ」
場地さんがオレの顔を覗いたので、オレは驚いてのけ反りそうになった。
「ちい、って、なに、おまえのこと?」
「う……」
くちごもるオレに、場地さんは追い討ちのように「ちい」「ちい」とくり返した。後生なのでヤメテください……。瀕死の状態で訴えると、場地さんは、「なんで」と、半紙を捨てる捨てないの会話をしたときとおなじテンションで、言った。え? 場地さんを見ると、楽しそうではあったものの、ばかにしてるようすではなかった。
「なんで、いーじゃん。かわいいじゃん?」
「かわいいって……」
いくら場地さんからの言葉でも、かわいいと言われてうれしくなる男はあまりいない、と思う。
「かわいいぜ、ちい、って。なんかひよこの鳴き声みてーで」
「ひよこの鳴き声?!」
「千冬に似合ってるじゃんか、おまえ、かわいーし」
「そんな、かわいいかわいい言わないでください……」
顔が熱い。耐えきれず両手で覆った。手のひらに熱が伝う。熱い、あつい。せっかくクーラーの温度下げたのに、これじゃぜんぜん意味ない。
「こら、ちい。なに恥ずかしがってンだよ」
手首を掴まれ、手のひらを剥がされる。場地さんの顔が目の前に現れて、ぐ、と息をのむ。場地さんに、ちい、と呼ばれると、全身の力が抜ける。ぺたんと床に座りこんで、泣きたい気持ちで場地さんを見上げる。
「ちい、って、子どものころそう呼ばれてただけで、」
かあさん、いまだにオレのことそう呼ぶときあって。それで。
掠れ声で必死に言い訳をするオレの頭を撫でて、場地さんは「わかったわかった」と笑う。
「べつにからかってるわけじゃねーし。おまえのかーちゃん、おまえのこと大好きなんだなーって思っただけでさ」
「……そんなこと、は、ない、っす」
再び全身が熱に包まれるのがわかった。場地さんに真っすぐに見つめられると、視線をいったいどこに向ければよいのかわからなくなって、混乱する。
「やっぱいーい名前じゃん、千冬って」
そう言って場地さんは楽しそうに笑った。オレはもう、すっかり参ってしまって、へら、と弱々しい笑みを浮かべるしかできなかった。
場地さんが帰ったらかあさんに、もう二度とちいって呼ぶなって釘を刺さなければならない。……効果があるのかは、ちっとも期待できないけれど。
初出:2022/8/18
#ばじふゆ
2025年7月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
甘くない(とらふゆ)
大人とらふゆ/ペットショップ店員さんの平和軸
*ほとんど友愛です。
*一虎くんって顔はいいんですよねっておはなし。
「なあ見て見て、なんかめっちゃ貰っちゃった」
両手に提げた紙袋をガサガサ言わせながら、一虎が休憩室に入ってくる。シフトの確認のためにパソコンを睨んでいた千冬は入り口をちらと見やると、うわっ、と露骨にいやそうな顔をしてみせた。それに構わず、一虎は長テーブルの上に紙袋を置く。赤や黒や白の紙袋にはそれぞれ、なんと読むのが正解なのか千冬にはわからない英字が並んでいる。中に入っているのだろうチョコレートが、箱を開けずとも甘い匂いを休憩室に放って、昼食を逃してしまった千冬の口内に唾液が滲んだ。
「お客さんと個人間のもののやり取りしちゃダメですって」
「えー、いいじゃんか、今日くらい」
「アンタにそういうのゆるすと癖になりそうだからダメっす」
「ひでぇ偏見」
一虎は唇を尖らせたが、紙袋の中を弄る手の動きは止めない。
今日は二月十四日、バレンタイン・デイだ。千冬には昔も今も縁遠いイベントである。女性からバレンタインと銘打って甘いものをプレゼントされたことなど、義理だとしても一度もない。それは一虎も同じだと思っていたのだが、予想をおおいに裏切って彼は複数人の客からプレゼントを受け取っていた。
当然、こちらはただの店員であちらはただの客なのだから、個々人でのもののやり取りはトラブルに繋がる恐れもあり、基本的には厳禁である。しかし客の中には、ここで買っていった動物たちのその後の成長過程を報告したり、世話の相談を持ちかけにやってくる者も少なくない。店が愛されて、信頼されている証拠だ。それはよいのだが、相談というのは口実で、明らかに一虎目当てと思われる女性客が一定数、いるのも事実だった。それもそう少なくはない数で。
「なんでアンタがモテるんだろう……」
千冬はつくづく解せない気持ちで、エンターキーをターンッ、と叩いた。
「そりゃあオレがイケメンだからだろ」
「みんなその顔に騙されてほいほい寄ってくるんすね」
千冬は頬杖をついて、丁寧に包装された箱を紙袋から取り出していく一虎を見やった。彼はまあたしかにイケメンと呼ばれる部類に属していると思う。おなじ男として悔しいが、それは千冬も認めるところだった。
彼の顔立ちは整っていて、きれいだ。髪の毛を肩ほどまで伸ばして、どことなく中性的な雰囲気をまとっているところも、女性客からの人気を呼ぶのかもしれない。
「あ、これ、すげーうまそう」
包みをほどき、箱にうつくしく鎮座するチョコレートを真剣に見つめる。そんな一虎の横顔は、輪郭がくっきりとしていて、思いのほか長い睫毛が頬にかげを落とした。はじめて来店した客が、ちらちらと一虎を盗み見る理由がよくわかる。
――顔は、いいんだよなあ、ほんとうに。
まったく解せない、と思いながらも、千冬は一虎のきれいな横顔から目を離せなかった。
「なあ、いっこやるよ」
一虎が無邪気な笑みを浮かべながら箱を差し出した。そんだけ貰っといてお裾分けは一個だけスか。呆れて言うと、
「お客さんからの愛を、オレは真摯に受け止めんだよ」
へらへらと笑いながら、一虎はチョコレートを一粒、口に含んだ。それに倣って、千冬も、白い縞模様のついたミルクチョコレートを一粒摘み上げた。甘い匂いに涎が垂れそうになって、慌てて口に入れた。休憩をとっていないため空腹で仕方がない千冬に、それは麻薬かと思うほどの恍惚を齎した。
「うんまっ!」
思わずそう言うと、一虎は、「もうやんねーよ」と牽制した。ケチだなあこのひと、と千冬はため息をついた。
「一虎くん、もうちょっとだけ他人に優しくなったらきっともっとモテますよ」
「いやあ、これ以上モテてもしようがねーし」
千冬は椅子の背もたれに背中を押しつけて、一虎を見上ぐ。蛍光灯の下で、金と黒の混ざった長髪がさらさらと流れる。それを、きれいだな、と千冬は思った。
「チョコレート、もっといっぱい貰えますよ」
「んで、食いきれない分はモテない社長にお裾分けするって?」
「一虎くんがそうしたいんなら」
一虎は紙袋の中に箱をしまっていく。残りは家に帰ってから、ということだろう。
「社長にはもっといいもんやるよ」
唐突に、一虎はロッカーから手のひらサイズの小さな箱を取り出した。虚をつかれた千冬が目をまん丸にしていると、
「はい、年中モテないかわいそな社長にプレゼント」
千冬はぽかんとした表情で、押しつけるように手渡された箱を見つめた。白地の、シンプルで上品な紙に、ご丁寧にリボンまで巻かれている。
「……なんでいつもよけいな憎まれ口ばっか叩くんすか」
モテないっすよ、そんなんじゃあ。千冬はぶつぶつ言いながらも、甘い香りをまとった箱を両手に抱えた。潰さないように程よく力を抜いて、顔が熱いのを悟られないよう、わずかに俯いた状態で。
「べつに、これ以上モテなくってもいいよ」
一虎の声はじつに軽やかだった。まるでなんでもないふうに、さらりと言ってしまう。
アンタ、ほんと、そういうとこだぞ。千冬はツッコミを入れたい気持ちを抑えて、開きっぱなしにしていたエクセルの画面をそっと閉じた。
シフトの調整は、明日の朝一番に回してさっさと終わらせよう、と決めた。
(2024/02/15)
#とらふゆ
かげふみ(とらふゆ)
22軸。恋人にならないかもしれないしいつかなるかもしれない、一虎と千冬のSSです。
千冬が一虎に、場地さんを重ねることに罪悪を感じてほしくないし、誰のことも「呪いの人」にしたくないという、ただのわたしの願望です。
うすい背中を抱いて、体から発する匂いを肺いっぱい吸いこんだ瞬間に、なにもかもすべてをこの暑さのせいにできればよかったと心の底から思った。後悔、したのだった。
かすかなたばこの匂いと、一虎自身が持つにおい。それがどういうものかは言葉で表現できない、しかし、きらいではないにおいだった。
同じ職場で働き、退勤後も都合が合えばどちらかの家に行き一緒に酒を飲んだり飯を食ったりする。ときには泊まることもある。この距離感に名前をつけるのならば、「友人」が一等相応しいと、千冬は信じている。そうであってほしいと、願っている。
千冬? 一虎はうろたえたようすで名前を呼んだけれど、千冬は一虎の肩甲骨のあいだに額を押しつけたまま動くことができなかった。ぴたりと体を重ねて、腕を一虎の腹の前で結んで、鼻をシャツに埋める。キッチンの備えつけの蛍光灯はしらじらと光を落としていた。
「なに。どぉした」
一虎の声は優しかった。子をあやすような調子で、だから、抱きついた背中が彼のものだとわかっても、千冬は体を離せなかった。一虎に、その優しさに、甘えた。今、抱きしめているあたたかさは、一虎のものである。かすかに皮ふを伝ってくる心臓の鼓動も。でも。
キッチンに立つうしろ姿があまりにも、あまりにも似ていたから。寝ぼけ眼に鮮烈に、その姿は映った。千冬は遠慮がちに顔を上げて、こちらを見下ろす一虎の瞳を覗きこんだ。
ああ、と、こぼれそうになった息を飲みこむ。
肩よりすこし下の場所で揺れていた髪の毛に、ずっと触れたくて、触れたくてしかたがなくて、そうしてとうとう触れることができたのはさいごのあのときだけだった。
頽れた彼の、体が静かにつめたくなってゆくのを感じながら、ただ、抱きしめた。一つに括った馬の尻尾のような黒い髪に触れると、血まみれの手に毛が絡まって、解けなくなった。
「……べつに、どうも、しない」
一Kのひどく狭いアパートは寝室にしているひと間に古いエアコンがあるだけで、いくら冷風を吹かせても部屋全体はちっとも涼しくならなかった。キッチンの据えられた廊下、そして玄関は、だからつねに蒸して暑い。
ただでさえクソ暑い夏の夜に、熟れた空気に満ちたキッチンであつい体をくっつけて、なにしてんだろオレら。っていうか、オレ。
「ねえ一虎くん。引っ越してよ」
暑くて、暑くて、咄嗟にそんなせりふが口をついた。
「は? なんで」
一虎は手に持っていたコップを口に運び、勢いよく麦茶を飲んだ。喉ぼとけが上下に動いて、ああこの人は生きてる。そう、千冬は思った。
背中にくっつけた頬は生ぬるくて、この皮膚の下にはちゃんと血が通っていて、心臓が動いていて彼のいのちを維持していて。これから先もきっと動いて、長く長く、ジジイになっていつかくたばるまで。だってオレらはもう、喧嘩なんてほとんどしねぇから。誰のことも殴らないし誰からも殴られない。そういう世界を生きてるから。今。
おとなになって、まっとうで、オレら、きっと「幸せ」を生きてる。
「できねぇよ。金ねぇもん」
引っ越しなんて。と、一虎はきまじめに答えた。あんまりまじめな調子だったので、千冬は、ふふっと笑った。
「じゃ、うち来たらいいんスよ」
「えー、オマエと一緒に住むの?」
「うん」
千冬は頷いた。かすかに、口の端が持ち上がった。自分のせりふが、おかしかった。
――そう、それで、ときどきでいいんで貸してくださいよ、背中。
あの人に似てる背中。家賃も光熱費もいらない、ただそれだけで、いいんで。
ごくんと唾を飲んだ。千冬は低い声でつぶやいた。
「ここ引き払って、うち、来てよ」
「上司と一緒に住むのもなー」
はらはらと、一虎は笑った。ぜんぶが冗談だと知っている笑いかただった。つられて、千冬も笑った。笑いながら、胸の奥が引き裂かれるように痛くて、痛くて、たまらないことに気づいた。けれど、なんにも気づかないふりをして、笑った。
ひでぇなあ、と千冬は思った。オレも、この人も、あの人も、みんなみんなみんな、揃いも揃ってひでぇよなあ。
ぎゅ、と抱きしめれば一虎の体のかたちは怖いくらいによくわかった。このまま服を剥いでむきだしになった肌に歯を立てたなら、この人は、いったいどういう顔をするだろう。怯えた目でオレを見る? それとも当然みたいにオレの背中に腕をまわすのか。
自分がどちらを望んでいるのかわからなかった。一生、わからないままでいいと思った。
知らない人間たちのわやわやとした笑い声が背後で聞こえた。つけっぱなしのテレビではヴァラエティ番組がそれなりの音量で垂れ流されていた。さっきまで千冬がうたた寝をしていたソファにはタオルケットがいちまい取り残されていて、一虎がかけてくれたらしいそれは千冬の体温を吸ってきっとまだわずかにあたたかい。でも、すぐに冷えていってしまう。千冬ひとり分の体温はゆるやかに、しんしんと損なわれてゆく。
「一虎くん。オレねぇ、」
つめたくなって、動かなくなったあの人のことを思いだす。名前を呼んでもひらかなかった目のことを。血で固まった髪の毛を、梳こうとしたのに指に絡まってうまくできなかったことを。
うん、とこたえた一虎の唇を、軽く触れることで塞いだ。
「……ひどくて、ごめんね」
まっすぐに見つめた先に、まんまるな目をした一虎の顔があった。思いのほかやわらかな一虎の唇を、でもこれ以上求めるつもりはなかった。
「ごめんね」
ゆっくりと、体を離した。合わさっていた箇所から順ぐりに、熱が逃げてゆく。触れて、たしかめていた体のかたちも、蒸した空気に溶けてすぐにわからなくなってしまった。
もっと長い時間をかけて重なりたいとか、触れていたいとか、抱きたいとか。そういう欲を果たして誰に向ければいいのかわからない。わからないなら、誰にも向けないほうがきっといい。これ以上、一虎くんにひどいことをしたくはないんだよ。
千冬がはにかむと、困ったような表情をつくって一虎は眉を下げた。物言いたげなようすで、けれど結局はなにも言わずに、残っていた麦茶を飲みほした。濡れた唇が蛍光灯に艶めいて、それに噛みつきたいと千冬はふいに思ってしまう。
(2024/7/24)
#とらふゆ
かげろう(千冬と場地と一虎)
最終軸バジトリオ。(そんなことも、あったよね。)
※妄想ばかりです。
ヘンな夢を見た。
一虎くんが場地さんを殺す夢だった。
一虎くんの握ったナイフが場地さんの腹に刺さって、場地さんが倒れるのをオレは遠くから見ていた。遠い、とても遠い場所にオレはいて、場地さんと一虎くんはトップクなのに、オレは制服のブレザーを着ていた。
オカシイだろ、と思って、これは夢だとわかった。わかったけれど、どうしようもなく胸がざわざわして、ひどく、たまらなく、怖かった。場地さんが死んだ。――その時のオレは、場地さんが「死んだ」となぜか確信していた。もしかしたら倒れただけで、一命は取りとめていたかもしれない。すぐに手当てすれば、助かるかもしれない。
場地さんは強ぇし喧嘩慣れしてるから、一虎くんの攻撃を躱していたかもしれないのに、どうして「死んだ」とわかったんだろう。
場地さん。オレは叫んで、叫んだつもりだったけれど声は出なくて、一虎くんに殴りかかろうとして足が少しも動かなくて、その場に立ち竦んだ。オレは結局、なにもできずにふたりの姿を見ていたのだ。遠い、遠い場所から、ふたりの影を眺めていた。
涙が出て、うめき声がもれ出て、それで、目がさめた。
部屋は青暗さに染まっていた。夜と朝の境目。涙に霞んだ目でぼうぜんと天井を見上げていると、頬を滑り落ちてゆく涙の熱を感じた。
夏休み直前の浮き足だった気持ちは完全に失われていた。ヘンな、とてもいやな夢だった。ぽろぽろとこぼれ落ちる涙を止めたくて、乱暴に目もとをこする。洟を啜りながら起き上がると、汗でパジャマもシーツも枕カバーもびっしょり濡れていた。
気持ち悪ぃ、と思った。
濡れたパジャマやシーツや枕カバーもだけれど、なによりさっきまで見ていた夢が、ただただ気持ち悪くてしかたがなかった。
夢は夢らしく、前後の脈絡はまるでなくって、でも一虎くんの場地さんへの気持ちはほんものみたいに思えた。あれが、殺意というやつなのだろうか。不良どうしの喧嘩ったって所詮はガキの喧嘩だ。ほんとうの殺意を、オレは知らない。――いや、知らなかった。けれどもう、知ってしまった。あのヘンな夢のせいで、知ってしまったのだ。不本意だ。いやだ。知りたくもない感情だった。それに、あの一虎くんはあくまでオレの夢の中の一虎くんで、現実の一虎くんと場地さんを殺した一虎くんは、ちがう。ぜんぜん、ちがう。
「……あー」
胸がぎゅうっと痛んで、この痛みはなんのための痛みだ。場地さんが刺されて怖かった、かなしかった。一虎くんを止めたくて止められなかった。体が、ちっとも動かなかった。足が一歩を踏み出せなかった。たすけたい、と思ったのに、できなかった。――誰を? 場地さんを。一虎くんを。オレは、ふたりを、たすけたかったのに。
たいせつな人たちだから、たすけたかったのに。
「あぁあ……」
頭を抱えて、もう一度、布団に寝転がる。夢だ、ととっくにわかっても、胸に走った痛みはたしかなものだった。心臓よりもっともっと奥のどこかに深く刺さって、ちゃんとオレに傷をつける。
「ち、ふ、ゆぅ」
「ぁでっ!」
後頭部を、平手でペシンっと叩かれた。家の鍵をかけたところだった。五階からおりてきた場地さんが、いつもの不敵な笑みを浮かべてオレの側に立った。場地さんの顔を見た途端、オレの頬はゆるむ。反射だ。
「おはよーございますっ」大きな声で挨拶をすると、団地の踊り場に声がわあんと響いた。
「早いっスね、今場地さんち行こうとしてたんスけど」
いつもより一分早く場地さんと会えたのはうれしかったけれど、迎えに行かれなかったのはなんだか、少し悔しい。
「ん。まあ、たまにはいーだろ」
場地さんは長い髪の毛を揺らして、先に立ってさっさと階段を降りてゆく。
「あー、そういやオレ今日補習だったワ」
期末の数学がオワッテタらしい場地さんに、オマエもだろ? と当然のように振られたけれど、オレはギリギリ赤点ではなかったので、補習はなんとか免れていた。「ウラギリモノメ」と場地さんは舌打ちをした。
「……場地さんの補習が終わるの、オレずっと待ってるっス」
「ずっとってなんだよ。そんな長時間拘束されんのかよオレやだよ」
場地さんとの会話はするすると進む。隣に立って、歩いていられるだけで楽しいし、うれしいし、なにより誇らしい。ふと、今朝見た夢の話をしたくなった。すぐにうすれてしまうだろうと思っていたのに、夢の気配は朝メシのときも、髪をセットしてるときも、玄関で靴を履いているときも、執拗にまとわりついて離れなかった。
場地さん。名前を口にしようとしたとき、団地のぐるりを囲むフェンスに凭れている、黒い背中が見えた。
「あ、いやがった」
「……え?」
オレは目を瞬かせた。黒い背中は、一虎くんだった。鈴のピアスをりん、と鳴らして、こちらを振り向く。きれいな顔。黒と金色のメッシュを入れた、ウルフ・ヘアー。
「ばじー」
にこにこ笑って手をふる一虎くんに、オレは意味もなく身構えた。そんな必要なんて、少しもないのに。
「なんだよーもー。いっしょ登校しよーつったのに」
「だからしてやってるだろがバカ余所者のくせに」
「オレは場地とふたりっきりがよかったの!」
一虎くんは場地さんの腕に腕を絡めて体を寄せた。オレはそれに少しぎょっとして、そしてかなり、ムッとした。くびすじのスミを夏の透きとおった光のもとに惜しみなく晒して、金色のきれいな目をした一虎くんと場地さんは、もつれあうように歩き始める。
数歩遅れて彼らのあとを追う。さっきまでオレとしゃべっていた場地さんは、今は一虎くんと会話をして笑いあっている。
ああ、約束してたのか。と、バカなオレはようやく気づいた。だから場地さん、いつもより一分早かったんだ、と。
一虎くんと場地さんはほんとうに楽しそうだった。ふたりは同い年だし、東京卍會の創設メンバーだし、オレの知らない時間を共有している。オレの知らない場地さんを一虎くんは知っていて、オレの知らない一虎くんを場地さんは知っている。そう思うと胸の奥がしん、とつめたくなった。ふたりの仲のよさは当たり前のことなのだけれど、いやだな、と思った。
なんか、いやだな。なんか、うまく言葉にできないけれど。
「場地さん。一虎くん」
ふたりの背中に向かって、声をかける。ふたり揃って、こちらを向く。
夢の中で、ふたりのあいだには一体なにが起こっていたんだろう。なにが、起こったんだろう。オレの与り知らないところで、ふたりはふたりだけのなにかを育てて、水をやっていたのだろうか。そのなにかが一虎くんの殺意だったのか、場地さんの慈悲だったのかはオレにはわからない。わからないなりに、バカなりに、いちまつのさみしさを感じた。
見つめる先にいる場地さんと一虎くんに向かって両手を広げ、飛びこんでいった。
「いでっ」
「わっ、ンだよテメェ!」
ふたりの背中をいっぺんに抱きたくて、抱きしめたくて、でもオレでは腕の長さが足りなくて、肩を軽く叩くくらいしかできなかった。
いつもならこんな無礼なことはしない、でも今は、こんなふうなガキっぽい構われ方しか知らない。
「痛ぇーよバカ! 千冬!」
一虎くんがオレの頭に手をのせて、髪をくちゃくちゃにする。オレに触れる手の広さや指のかたちが、今朝の夢に出てきた一虎くんのそれと重なる。この手が握ったナイフの感触が、オレにわかる。まるでオレが一虎くんになったみたいだった。あ、と思った。ぱちん。おおきくひとつ瞬きをしたその一瞬だけ、見えた景色があった。一虎くんのくびすじにナイフの切先が向けられている。虎のスミは派手でよく目立つ。一虎くん、とつぶやくオレの声は低かった。
彼の腹に跨って、泣きながらナイフを握っているのはオレだった。
「ぁ、」
「ア?」
あふれ出そうになった悲鳴を、てのひらで口を抑えて殺した。一虎くんと場地さんが、怪訝な表情を向けた。
「なに、千冬。あーそうか、一丁前にヤキモチ妬いてんだ」
一虎くんは意地悪い顔で笑った。ええ、とオレは唇を歪める。笑顔に見えたかどうか、それはわからない。
「オレと場地がステディな仲なのに、妬いてんだ」
「は、……あ、いえ、」
「なんだ? ステディって」
「ラブラブ〜って意味」
ハッ、と場地さんは笑った。
「っざけんなこんなアタマオカシイやつと」
「似たもんどうしでお似合いじゃん」
「バーカ」
一虎くんはころころと笑う。無邪気に、無垢に、あっけらかんと、楽しそうに笑う。動揺を悟られないように、オレもへらへら笑った。泣きながらナイフを向けた景を、それを見た事実を、どうにか消したくて、へらへら、へらへらと。
オレはいつ、この人を殺そうとした――のだろうか。オレは、そして彼を殺してしまったのだろうか? なぜ? 場地さんを殺したから。いやちがう、だってあれは夢だった。オレは殺さない。一虎くんを殺さない。誰のことも、殺したくない。
場地さんも、一虎くんも、オレのたいせつな人たちだ。
おおきな瞬きを、ぱちん、とする。目を開けたときには目を閉じるまえと変わらない景色があって、場地さんと一虎くんは笑っていて、今は夏で太陽がギラギラと眩しい。遠くの空に入道雲。朝のこの時間ですでにこの暑さはちょっと異常なのではないか。額に汗が滲んだ。オレたちはちゃんとした不良の、中学生だ。期末テストが終わった。もうすぐ夏休みが始まって、オレは場地さんと海に行く。絶対に行く。約束はまだしていない、でもこれからするつもりだ。場地さんはきっとしかたねえなって言ってオレのお誘いに乗ってくれる。優しいんだ、この人。もしかしたら一虎くんも連れてくるかもしれないけれど、べつにいい。そしたらオレはタケミッちを連れて、そんで四人で海に行こう。四人で。ヘンなメンツかな。でも、ま、いっか。海、暑ぃかな。日に灼けるかな。灼けるよな。そういえば一虎くんって意外と肌白いけど、灼けたら赤くなるタチなのかな? 場地さんはまっ黒になりそうだな。でも日に灼けた場地さんはカッケェだろうな。いつもの三割増しでカッケェよな。楽しみだな、夏休み、みんなで流しに行ったりもしてさ。そうだ武蔵祭りもある、浴衣着てみんなで集まって。花火! 夏ってオレすきだな。秋より冬より春よりすきだ。千冬って名前だし冬生まれだけど夏がすきだ。イベントいっぱいあるし、一年でいちばん楽しいと思う。ねぇ、場地さん、一虎くん。ふたりは、夏はすきですか。遊びに誘ったら、来てくれますか。海行ったりしましょうよ。夜じゅうバイク流しましょうよ。ねぇたくさん、たくさん、いっしょにいましょうよ。お願いだから。ね。
(2024/07/30)
#バジトリオ
no title(ベンワカ)
目が覚めたときに、若狭のきれいな顔がすぐ目のまえにあっても慶三は驚かなくなっていた。こんな朝の迎え方なんて不健全なのではないかとほんのり気に病んだときもあるにはあったけれど、そんなかわいらしい時期はいつのまにか過去になった。今は、そばにある若狭の、かすかに甘ったるい体温と穏やかな寝息を享受するのが慶三にとっての幸福だった。
若狭が一人で住まう部屋のベッドはダブルベッドだったけれど、ガタイの良い慶三がベッドに横たわると若狭の眠るスペースは途端になくなってしまう。だから必然的に若狭は慶三に体を寄せる。男ふたりが同じベッドに眠るなんてこれまで慶三にはとても考えられなかった。しかし若狭は至って平然としていた。はじめての夜も、まるで猫のようにするりとベッドに滑りこむと、アルコールが回って朱色に染まった頬をにたりと緩める。昨夜も、そうだった。いつものようにどろどろに酩酊した若狭を彼の部屋まで送り届けて、着替えなどの世話をしているうちに慶三も若狭と一緒に夜を明かすこととなった。
いつも連んでいる真一郎も武臣も、まさか自分たちが同じベッドに寝ているなんてことは知らない。これは、だから慶三と若狭ふたりだけの秘密である。
いったいこれでなん度めになるのか、数えることなどとうにやめてしまったからわからない。しかし、若狭とひとつのベッドに眠り、彼の寝息に触れられるほど顔と顔が近くにある、なんていう頓狂な朝に慣れきってしまったのだから、両手の指を合わせても足りないかもしれなかった。
カーテンのすきまからこぼれた淡い朝日が、若狭の白い頬を斜めに横断していた。慶三は眠気に抗うようぱちりぱちりと瞬きをして、焦点を若狭の顔に合わせる。きれいだな、と率直で愚鈍な感想をため息とともにを吐きたくなるくらい、彼は――今牛若狭はきれいな男だった。顔だけはない。すんなりとした、少し猫背気味の佇まいも、しなやかな腕や脚も、長い髪の毛もその一本一本も。すべてが神に愛されたとしか思えないくらいうつくしかった。それはけっして大袈裟な表現ではなかった。少なくとも慶三にとっては、だったけれど。
引かれるとわかっているから誰にも言ったことはない。真一郎にも武臣にも、そして当然、若狭本人にも。しかし、慶三にとって若狭はそういう存在だった。そう、はじめて彼を見た瞬間から。
同性にたいして「うつくしい」と表現することなどもちろん慶三にははじめての経験だった。うつくしいという形容は女性にたいしてすべきものだと、男はただ強く逞しくあらねばならぬという観念を持っている慶三は、きれいだ、うつくしいと若狭に感じた当初は動揺したものの、今では事実なのだから仕方がないと思うようになった。
じっと見つめていると、やがて若狭のまぶたがふるえ、ふぁあああ、と猫のようなあくびをもらした。いくらうつくしいと言っても若狭は男に違いなく、動作も大きいし恥じらいも見せない。長いつき合いというのも理由なのだろう、慶三の前ではいつも、彼は無防備だった。
「ん……なに?」
若狭はとろんとした目で慶三を見た。あくびのために潤んだ瞳。突然交わった視線に驚いて、慶三は咄嗟に目を逸らした。見つめていたことに気づかれた恥ずかしさが全身を包む。ちがう、そんいうんじゃねぇ。そう言い訳をしたかった。でも、いったいなにがそういうんじゃないのか、わからない。
「なに目ぇ逸らしてんだ、ベンケイ」
するりと伸びてきた手が頬に触れた。つめたい手で両頬を挟まれ、強引に引っ張られる。視線が、もう一度絡んだ。今度は糸が絡まりあうように、容易にはほどけない。
若狭に強く見つめられて、慶三はつくづく自分の非力を思い知る。べつに恋人でもなんでもないのに、まるでそういう関係のように寄り添って見つめあって、いったいこれはなんだ、なんなんだ。プライドがズタズタにされる感覚、しかし取り繕う気も起きないから不思議だった。いっそう、若狭の思うままにしてくれていい、とさえ思ってしまう。
「……だよ、」
ようよう唇を動かして、慶三は声を発した。か細い声に若狭は不愉快そうに顔を顰める。なんだって? 問い詰められて、慶三は片手で顔の半分を覆った。
「きれーな顔だな、って、思って、見てたんだよ」
悪いか、バカ。はっきり言葉にしてしまうと、途端に頬が熱くなっていく。はあぁ、とため息をもらして指のあいだから若狭を見ると、彼は目を丸くさせて敬三を見ていた。ぽかん、という擬音が聞こえてきそうだった。
「手ぇ離せ」
頬を包む若狭の手を横柄に振り払う。存外すんなりと離れていったつめたい手に、その感触に、一瞬だけだけれど罪悪感を覚えた。
罪悪感、だなんて。なんで。
枕に仰向けになって、舌をうつ。静かな部屋にその音は思いがけず高く響いた。
いつのまにか見慣れたものになっていた天井を見上げて、なにしてんだ、と自嘲する。なにしてんのかな、オレら。なにしてぇんだ? オレも、コイツも。
若狭がなにを考えているのかわからないのは昔からだった。そんな中でもつきあっている時間と比例して、表情の微妙な動きやまなざしに宿る光の加減で、少しずつ彼を知っていくのに慶三はかすかなよろこびを感じていた。若狭のいろいろな表情が見たかったし、その目がなにを見てどんな色にひかるのか、見とめたかった。こんな願望を他人に抱くなんてはじめてだったので、戸惑いながら、けれど今までに見たことのない顔をする若狭を見ると、たまらなくうれしくなってしまう。それは揺らぎない事実なのだった。
わずかに視線を動かしてみる。長い髪の毛が垂れて、若狭の表情は見えなかった。呆れた顔をしているのだろうと想像する。なに言ってんだオマエ、などと罵倒されると思った。なのに、いつまでも彼は無言だった。
「……おい」
声をかけると、組んだ両腕に顎を預けていた若狭はふっと顔を背けた。髪の毛が流れて、朱色に染まったかたちのよい耳があらわになった。
「ワカ、」
「バカじゃねぇの」
先ほどの慶三のものよりもっと細く小さな声で若狭は言った。悪態をつかれているのに力のない声はいつになく慶三の心をくすぐった。なに、照れてんだ。ツッコミたかった、けれど、慶三もまた自分の顔にいっそう熱が帯びるのを感じたので唇を引き結んだ。
若狭の顔を見たいのに、見たくない、とも同時に思った。きっとコイツはまた、オレの知らない顔をしている。でもそれを見てしまったら。そう思うと怖かった。きっと、なにかが終わってしまう。否、それともなにかが始まるのか?
クソが。慶三は呻きたい気持ちを抑えて再び天を仰ぐ。若狭はまだ黙っている。口を開いたとき、コイツはなにを言うんだろう。聞きたいような、聞きたくないような複雑な気持ちで、慶三は天井に一つだけある薄墨色のちいさな染みをじっと見つめた。
#ベンワカ
こりないやつ(カクイザ)
キスはいつも、イザナから、だった。目の前にふっと淡い影が落ち、あ。と思った次の瞬間には唇を掠め取られている。ふにふにと柔らかく、かすかに湿ったイザナの唇はその時々によってつめたかったりあたたかかったりするのだけれど、今朝のそれはいつもより少しばかりひんやりとして、鶴蝶は身を寄せてくるイザナの肩に手を置き「寒いか」と訊ねた。秋のはじまりの朝日が、カーテンのすきまから淡く落ちていた。寝起き特有の掠れ声に、イザナは「なんで?」と返す。長いまつげにふちどられた大きな目をよりまるく大きくさせたイザナに、だってオマエの唇がつめたいとすなおに言えば、彼は数回、瞬きをした。ぱちりぱちりとまぶたが開閉するたび、銀色の長いまつげが光を弾く。
ベッドにはすでに鶴蝶ひとりぶんのぬくもりしかなかった。朝に弱いイザナが先に起きているなんてめずらしく、鶴蝶は夢とうつつの間をたゆたいながらイザナの腰に腕を回す。スプリングが軋んで、イザナがベッドに体重を預けたのがわかった。そのままシーツに頬をくっつけて横になる。
ベッドに寝そべった状態で真っすぐ見つめられると、その距離の近さや微かに感じ取れる体温に、今さらながらどぎまぎしてしまう。イザナのまなざしは揺らぎなく、鶴蝶を真っすぐに見つめていた。
「オマエのはあったかかったけど」
「オレの?」
手が伸びてきて、頬を両のてのひらで包みこまれる。そのゆびさきはやはりつめたくて、鶴蝶はイザナの手の上に自らの手を重ねた。
ゆびを絡め、手を繋いで見つめあうと、まるでふつうの恋人どうしだ。鶴蝶は頬に熱が宿るのを感じた。イザナとはそういう関係ではあったけれど――少なくとも鶴蝶はそう信じていたかったけれど――、はっきりと自覚をすれば嬉しさで胸がくすぐったい。イザナは口もとをゆるめて、
「ほっぺたもあったけぇ。オマエ、どこもかしこもあったけぇのな」
毛布の中に体を滑りこませ、鶴蝶の胸もとに顔を沈める。長い足が鶴蝶の足に絡まって、逃げようとする動きを封じる。イザナの体は静かに冷えていて、鶴蝶はふいにかわいそうに思った。オレの体温を分けてやりたいと思い、抱きしめてみる。「あったけぇ」。イザナは鶴蝶の体に腕を回して、くすくすと笑った。細長いゆびが鶴蝶の背骨をなぞった。
「ここはあっためてくんねぇのかよ」
「ここって?」
顔を上げて、イザナは自身の唇を指差した。途端、鶴蝶の顔がぼっと朱色に染まった。
「オマエ、な……」
「今さらなに照れてやがんだぁ?」
ヘンなやつだなと言いながらイザナは首を伸ばし、鶴蝶の唇に唇を重ねた。つめたい、と最初は思った唇が少しずつぬくもってゆく。
触れたそこから自分の熱がイザナに伝わっているのが、恥ずかしくてたまらない。イザナに触れられるとたやすく熱を帯びてしまう体――それを知っていてイザナはいつもいたずらばかり仕掛けてくる。でも、そんな彼をとても愛おしいと思うのだった。
「……まだ、寒いか?」
うすい背中を上下にさすりながら問うと、イザナは小さく笑った。答えはなかった。代わりのように、鶴蝶の鎖骨に頬を擦り寄せてつぶやく。
「もう寒くねぇ」
パジャマの布地越しにくぐもった声が聞こえた。身を寄せあって暖をとる自分たちは、ほんとうにただのどうぶつみたいだと鶴蝶は思った。
#カクイザ
うれしくてここまで/tiny tiny(ふゆとら/ばじとら)
千冬と一虎、場地さんと一虎のとてもとても短いお話まとめ。さらっとお読みください。
1.うれしくてここまで/ふゆとら・22軸
2.tiny tiny/ばじとら(ばじ+とら)・最終軸
※1.ふゆとらのようなとらふゆのような、どちらでもよいような。
左右にあまり拘りのないかた向けかもです。
※2.恋にも愛にも毒にもならないような、ばじととらのこと。
世界をかえるつもりはない;yuko ando
うれしくてここまで
あたたかな体温に包まれて深く眠り、目覚める朝はいつだって幸福に満ちている。こんなおとなになることを少年の自分は想像していなかっただろうと、千冬は浅く息をはく。
すくなくとも、彼とこうして体を寄せ合う関係になる、なんてことは。
少しでも身動ぎをすると背中に張りついている一虎を起こしてしまいそうで、完全に目がさめても背後から彼に抱かれたまま、千冬はベッドの中でおとなしくしている。寝巻き越しに感じる肌の温度や湿っぽさ、耳もとをなぜる穏やかな呼吸は、一虎が生きて、今ここにいることの証明だった。
胸の前に無防備に落ちている手に、そっと触れた。手の甲を指さきでなぞり、輪郭をたしかめる。あたたかくて、人の手のかたちをしている。おとなの、男の、手だった。
これ、オレのだ。ふと、千冬は思った。この人は、オレのものだ。
ちふゆ。耳朶に、生ぬるい息がかかった。注がれた声は、小さなどうぶつの類が甘えるようなやわらかさをはらんでいた。千冬は首を捻って、そちらに視線を向けた。一虎の瞼はまだほとんど降りていて、長いまつ毛が細やかに震えていた。
一瞬、さっきのは寝言かと思ったのだが、触れていた手が動いて千冬の指に絡まってきたので、彼が目を覚ましたことを知った。
「おはようございます」
体を反転させて、一虎のほうに向いた。一虎は空いているほうの手で目を擦り、額にかかった長い前髪をかき上げた。「眠ぃ」とひとこと、もらす。千冬はくすくすと笑った。
「べつに、まだ寝ていていいんスよ」
休みなんだし、なんの予定もないし。そう続けると、一虎は千冬の肩を引き寄せて、強い力で抱きしめてきた。鼻先が固い鎖骨に当たり、一瞬にして一虎の匂いに包まれる。少し湿った、肌の匂い。無意識のうちに、千冬の体の奥が疼く。
「……一虎くんて、いい匂いしますよね」
にわかに噴き出した欲求を悟られないように、ゆっくりとした調子で言った。
「香水のせいじゃねぇの」
一虎もまたのんびりと返した。千冬は首をふった。一虎のくびすじに頬を押しつけて、思いきり息を吸う。
「じゃなくて、一虎くんそのものの匂い。いい匂い」
一虎はくつくつと笑って、「オマエ、変態かよ」と言った。おかしそうに、愉快そうに、自分相手に言葉を交わしてくれることが千冬にはうれしくて、こちらも力をこめて一虎の体を抱きしめた。
「千冬はなんか、埃っぽい匂いする」
千冬の髪の毛に鼻を埋めて、一虎は言った。
「ええ……、なんスかその悪口」
「外干しした布団の匂い」
すんすん、と鼻を動かした。太陽の匂いがする。一虎はそう、静かに続けた。
「それっていい匂いなんスか」
どうだろ、わかんねぇけど、と一虎は言った。「でも、オレはすき」
一虎の腕の中で、一虎の声を聞いているうちに、頬が熱を帯びてゆく。ゆっくりと上昇する体温に、彼は気づいているだろうか。気づいていたとしたら、なにを思うだろうか。不安になると同時に、わずかな期待が芽生えていることに千冬は呆れた。
「してぇの?」
「えっ」
唐突に、一虎が耳もとに囁いた。くの字に曲げていた千冬の膝のあいだに足を入れ、するすると絡ませてくる。ズボンのすきまから脛をなぜた、足のつまさきがつめたかった。
「しても、いいけど」
視線が絡まる。一虎の瞳は透きとおっていて、かすかに潤んでいるように見えた。
すう、と視線を逸らして、千冬は再び一虎の胸もとに顔を沈めた。んん、と、あいまいな声をもらし、額を鎖骨に擦りつける。
店であつかっている仔猫が似たような動きを、母猫にたいしてしていた。その姿を思いだして、気恥ずかしさにいっそう顔を上げられなくなった。
このままでいい。――ちがう、このままがいい。千冬は思った。口には出せなかったが、膝を割ってきた一虎の足に、自らの足を絡めて、数回深い呼吸をした。
一虎の匂いをかぐ。あたたかい体温に包まれる。幼いころには想像もできなかった未来を、ふたりで生きている。ふたりで、朝を迎える。そうして、やがて夜がおりてくる。そのくりかえしの毎日を、これからもずっと続けてゆく。
すき、を声に乗せることはできなかった。腕いっぱいで一虎を抱きしめて、まるでそれしかできないどうぶつのように。
tiny tiny
どこにいても正しくない気がした。だからってオレを選ばなくていいだろうよって、オレの言い分を聞いたならそう言いそうだけれど、オレの選択肢にはオマエしかいなかったのだ。それはたぶん、最初っから。
場地の尖った顎が夜の中に輪郭を描いていた。目の前にある顔はガキのころからあまり変わっていなくて、オレをひどく安心させる。
狭い部屋の空気はふたりぶんのアルコールの摂取量と比例して濃く濁っていた。缶ビールと酎ハイを交互に飲んで、したたかに酔うとそのまんま、リビングの床に転がって眠る。バカでのんきな大学生みたいだ。
実際に場地は大学生だったけれどオレは一応社会人で、こんなことをしている場合ではないのかもしれない。場地とは同級で、今年二十七歳。アラサー。ペットショップで働いている。年下の上司がいて、コイツがまあ口うるさい。でも、なんだかんだで今の日々は楽しい。
あんなに飲んだわりに頭はすっきりしていて、完全に覚醒していた。場地の長い髪の毛が視界の中でうねっている。さわれそうだった。
手を、伸ばしてみた。場地の頬に触れようとした指が、宙で止まった。
夜の闇の中でも、場地の痩せた頬やつんと上を向いた鼻はよく見えた。闇に目が慣れるくらいにオレは場地を見つめていたのだった。
伸ばした手を引いて、床に下ろした。オレの手も、指も、オレのものなのにそんな気がしなかった。オレは場地にさわりたかったのに、手と指がそれをさせなかった。行動は意思に反した。自覚すると背筋がゾッとした。
仰向けになって眠る場地に、ほんの少しだけ身を寄せる。カーペットの表面を体が擦る。安物のカーペットはざらざらとしていてけっして寝心地のよいものではなく、そもそも直接この上に寝転がることは推奨されていないのだろう。
場地の顔に先ほどよりも数センチ近づいて、近づいたぶんだけ呼吸の音や体温が濃く感じられた。触れようと思えば触れられる距離にいて、でもそれをオレの手や指がゆるさない。だからオレにはなにもできない。
頬をカーペットに押しつけて横顔を見つめる。ふいに心細さに襲われる。どこにいても正しくないと感じていた、ガキのころからある焦燥が、また。だからってなんでオレ? へらへらと笑う場地を思い浮かべる。場地は笑いながらオレの頭を乱暴に撫でる。――ぜんぶオレの妄想で、願望で、だからこんなにもせつなくて胸が苦しい。どこにいればよいのかわからない、場地の隣なら安心できる、そう思った。単純に、そう思ったのだ。
「なあ場地。……さわってもいい?」
つぶやきはたやすく溶けてしまう。はなから届けるつもりのない声だから、どうでもよかった。
目を閉じた。場地の世界を壊すことはできないと思った。オレ自身の世界も、そうだ。なにもしない、なにもできない、なにもかえられない。
夜はいつも世界を押し潰そうと躍起になる。今夜もどこかで誰かの世界が壊れたり壊されたり、新しくうまれたり、しているんだろう。かえられるだけの力がない、それは絶望のようにも希望のようにも思えた。不思議と涙は出なかった。
こんなにせつなくて苦しいのに、少しも涙は出なかった。
初出:24.0620
#ふゆとら #ばじとら
こぼれてしまうよ(ふゆとら)
22軸/ペットショップで働く一虎と千冬が、ゆっくり恋をしてゆくお話です。
(2024年9月15〜16日開催webオンリーにて展示させていただきました。ありがとうございました。)
こぼれてしまうよ ; YUKI
prologue
暗い夜空の下に立っていると、ムショにいた時のことを思いだす。なにか問題を起こすと放りこまれたまっ暗な独居房の中で、壁を四角に切り抜いた味気ない窓をぽかんと見つめていたあの時のこと。
窓の向こうの夜空は黒色の絵の具をべったりと塗りたくったように重たかった。季節や時間によっては月や星が見えることがあって、消灯時間を過ぎても一向に眠くならない夜を、ささやかすぎるその光だけを救いと思って生きていた。
ムショに収容されている他のガキ連中に比べてずい分おとなしくしていたせいか、オレはしばしば目をつけられて喧嘩を吹っ掛けられた。睨みやがっただの肩がぶつかったのにシカトしただの。理由はいろいろだったけれど要するにオレの存在そのものが気に食わなかったのだ。いくら髪を黒くしてもポロシャツを着てボタンをぴっちり留めても、くびすじに刻んだタトゥーは隠しきれなかったし、オレが東京卍會との抗争に加わった人間であることは所内にはとっくに知れ渡っていた。
売られた喧嘩は買わなかった。散々ボコられた挙句先に手を上げたと濡れ衣を着せられて、独居房に入れられるのは毎回オレの役目だった。ガキ共のストレス解消と都合の良いサンドバッグにされる日々は、でもオレを安らかにさせた。殴られるたび一歩ずつ、死に近づける気がした。
死のうと積極的に思っていたのは最初のうちだけだった。収容される直前、面会に来てくれたドラケンに釘を刺されたあとは、死を渇望する気持ちはするすると萎んだ。けれど日々を生きるあいだに何度か、それは訪れた。トイレで用を足している時や慌ただしくシャワーを浴びている時。死の気配はふいにやって来て、オレの背中を押そうとした。驚いてふり返ってみてもそこには何もなくて、何もないことが、むしろ絶望だった。
独居房の窓を見上げて過ごす眠れない夜、オレを押し潰そうとする不安や焦燥や死の手招きを、星と月の光が慰めた。ぽつんと佇むかすかな光が、あんなにちっぽけなくせにまぶしくて不思議だった。
一度だけ、柵越しの夜空にひとすじの流れ星を見たことがある。固いベッドに横たわったオレの見つめる先で、それはあっというまに流れて視界から消えた。
流れ星に願い事をすれば叶う。そんなオカルトを信じたくなるくらい、その時のオレはすべてを諦めていたのだと思う。諦めていて、かなしくて、やりきれなくて、さみしかった。
口の中で願い事をつぶやいた。声には出さなかった。流れ星はとっくに跡形もなく消えてしまって、そうでなくとも、オレの願いは絶対に叶わないことを最初から知っていた。
01.流れ星
日中の日ざしはまだ充分にあたたかいのに、夜になると急激に冷えこむようになった。サンダルを履いた足の裏がつめたい。キッチンでたばこを吸おうとすると千冬が「部屋の壁に匂いがつく」と言っていやがるので、オレはひんやりとした風の吹く中渋々ベランダで喫煙している。
ときどきもらいたばこをするくせに、どの口がそんな文句を言うのか意味がわからない。反論したい気持ちを、でもひとまずぜんぶ飲みこんで、オレはおとなしく外に出るのだった。
煙を細く吐き出して、空を見上げる。大人になった今はもう、視界は四角形に切り抜かれてはいなくて、夜空も柵越しではない。東京の街の明かりがずっと遠くに見えて、世界は正しく、どこまでも広かった。
檻の外に出るのはおそろしかった。でも千冬がいたから、そっと声をかけてくれたから、オレはまだ生き延びることを選んだのだった。
「寒くないっスか」
リビングとベランダを隔てる窓が開いてふり返ると、千冬が肩にフリースのブランケットを羽織った姿で目の前に立っていた。
「寒ぃよ」
オレは煙と言葉を同時に吐いた。わざとらしくて顔を顰めて。「オマエが意地悪するから、おかげでめちゃくちゃ寒い」
「意地悪じゃねぇでしょ」
千冬ははだしの足でベランダに出てきた。足、つめたそ。オレが言うと、つめてーっス、と千冬は笑った。
「賃貸だと、部屋ん中でたばこ吸うと退去ん時面倒なんで」
「へえ。じゃあ、マイホームでも買う?」
「アンタってマジでバカっスね?」
オレの冗談に、千冬は本気らしく返した。オレはへらへらと笑う。
「夢は持ってたほうがいいじゃん」
「途方もない夢よりも、目の前の業務にしっかり向き合ってください」
ちりり、とたばこの先端が赤く燃える。燃え尽きた灰がこぼれて、ベランダの床に落ちた。儚い赤い灯に、昔見た流れ星の姿を重ねた。
流れ星も、ほんとうのところは星が燃え尽きる際の一瞬に過ぎない。死ぬ瞬間を見せつけられているだけで、さらには願い事をすれば叶うなんてカルトなことまで託されて、星屑にとってはさぞ迷惑だろうと思う。
少年時代の記憶――それは不思議と鮮明だった――をたぐり寄せながら、なあ、とオレは千冬に問いかけた。
「千冬は流れ星に願い事したことある?」
千冬は首を傾げた。なんスか急に、と、怪訝な表情をこしらえて、けれどすぐに真剣な声で言った。顎に指を添えて、そうっスねぇと唸る。
「どうだろ。いや、見たこともないかも、流れ星は。初詣のお参りはあるけど」
「見たこともねーの?」千冬の答えに、オレはびっくりしてしまう。「っていうか初詣とはぜんぜん違げーよ」
「一虎くんはあるんスか? 流れ星、見たこと」
「ある」と、オレは言った。「昔な、ガキのころだけど」
へえ、と千冬は興味深そうにオレの顔を覗きこんだ。
「願い事、した?」
「した」
「なに、願ったんスか」
たばこをひと口吸う。舌に苦い味が広がった。煙を細く吐き出し、言葉を継いだ。
「うまれてくる前に戻してくれ、って」
千冬の表情が途端に曇って、しまった、とオレはため息を吐いた。暗い話などするつもりはなかったのに、どうしても言葉がこぼれてしまう。誰にも言ったことのない話を、でも千冬に、聞いてほしいと思ってしまったのだ。
「いやさ、そもそもオレがうまれてこなかったら、ぜんぶうまくいってたのかなーって思ってさ」
極力あかるい声で言ったけれど、発した言葉の重みはオレがよくわかっていた。夜風が頬を撫で、髪の毛とピアスが同時に揺れる。りん、りん、と鈴がかすかな音を立てた。
千冬は目を細めて、肩に掛けたブランケットを胸もとで合わせた。
「……そんなん、わかんないじゃねぇっスか。実際うまれてこないと」
「そう」オレは頷いた。「だから、すげえ残酷だよな、って」
うまれて、生きてみないとわからないことが多すぎて、オレはずっと苦しくてしかたがなかった。
正方形に近い四角の窓から見た流れ星は、オレの眼前をあっさりと過ぎ去ってどこかで燃え尽きた。オレの願いなど少しも聞いちゃいないとでもいうように。
手摺りに置いていた手に、千冬がてのひらを重ねた。あたたかい手。ずっと触れていたくて、さわっていてほしくて、体温を掴んでいたくて、輪郭をたしかめていたくて。――でも、オレはやんわりとその手をほどく。千冬はオレの手を追ってはこなかった。オレが握っていた部分の手摺りをおとなしく掴んで、顔を上げた。
「一虎くんの手ぇ、つめたい」
こちらを見つめる千冬のまなざしはまっすぐに、オレを射抜いた。オマエが外に追い出したから冷えたんだよ、と喉もとまで出た文句を、飲みこむ。代わりに小さく笑いながら、短くなったたばこを足もとに落とした。サンダルで踏みつけて、火種を消した。
「……今も」
「ん?」
千冬はふいに目を伏せた。視線から解放されると、オレは途端に心細くなる。見ていてほしい、いや、見ないでほしい。さわってほしい、ううん、さわらないでほしい。千冬への願望は、いつも頭の中でこんがらがっていて、オレ自身どうしたら始末をつけられるのかわからないでいた。
「今も、そんなこと願ってるんスか?」
オレは無言で俯いた。つめたい空気が体中にまといつく。一瞬だけ千冬にさわられた手はまだかすかにあたたかくて、オレは千冬の体温を欲しいと、心から思った。
「……千冬にどう思われたんだろ。ちょっと怖ぇな」
引いた? 答えずに、逆に問いかけてみた。引かない、と千冬は首をふった。
「でももうそんなこと、願わないでほしい」
顔を歪めて、かなしそうな顔をする。そうだ、とオレは思った。
その顔だけでじゅうぶんなんだよなあ。そういう顔を、してくれるだけで。千冬のかなしい顔を見たいわけではなかったけれど、オレのためにそんな顔をしてくれる千冬がたまらなくいとおしかった。今にも泣き出しそうなのを堪えているような。くちびるをきゅっと結んで、少し不貞腐れているような。
それ以上、オレは何も望めないし、欲しがれない。オレは千冬に、何も求められない。
「……帰るワ」
手摺りに背中を向けると、オレは千冬に向かって笑いかけた。千冬は、驚いて目をまるくさせる。まんまるの、青い目。
「泊まってくんじゃないの」
「そのつもりだったけど、やっぱ、いいや」
千冬は不安そうに眉を顰めた。
「……オレ、なんかしちまいました?」
オレのためにそんな、不安にならなくっていいのに。そう思いながら、吸い殻を摘み上げてプラスチックの携帯灰皿に押しこんだ。
「なんにもねぇよ」
「……」
「でも今日はちょっと、ウチで寝る」
納得のいっていない顔で、千冬はくちびるを尖らせる。表情をころころ変える千冬はまるで体だけ大人になっちまったガキみたいで、可愛らしかった。
「それじゃ、また明日、店で」
おー、とオレは返事をした。サンダルのソールがアスファルトの床を擦る、固い音が夜の闇に響いた。窓を開ける。リビングは照明のおかげで煌々と明るく、ほのあたたかかった。
千冬の住むアパートからオレの部屋までは徒歩で十分ほどで、だから帰るのが億劫な時はたびたび、どちらかがどちらかの部屋に泊まって翌日一緒に出勤していた。千冬の家にはオレの下着や歯ブラシが置いてあるし、オレの家にも千冬の私物がいくつか、あった。
――泊まるのは、平気なのに。
夜風に髪の毛を遊ばれながら、オレは平たい道路をとろとろ歩く。千冬にさわられた手は、もうオレの体温だけになってジーンズのポケットの中に押しこまれていた。
一瞬、だった。それこそ星が灰になるくらいの一瞬。千冬はオレに触れた。あたたかな手で、オレに触れた。オレはそれとなく千冬を拒絶した。――オレが逃げたことを、千冬はかなしく思っただろうか。訊いてみるつもりはなかったけれど、もし他人の心が読めるのなら、千冬の心を読みたいと思った。アイツはすなおだからすぐ顔に出るし、わかりやすい。けれど、「ほんとうのところ」を察する能力がオレにはないから、千冬の思っている「ほんとうのところ」が、わからなかったのだ。
――すき、なのになあ。
なんでかなあ。こんなに、さわるのもさわられんのも怖ぇのは。
千冬にさわられるとオレはたやすく幸せになっちまうから、だからこんなに、怖ぇんだろうなあ。
「すき……なのにな」
ぽつん、と声がこぼれ落ちる。吐息と混ざってそれは呆気なく空気に溶けていく。顔を上げると、夜空は高い場所にあった。街路の枝のあいだから見える真っ黒の空に、今夜は月も星も見えなかった。
いくら視界が広がっても、見えねぇものは見えねぇんだな。そんな詩人みたいなことを胸の中でつぶやいて、我ながら、ばかげていると思った。
やがて見慣れた茶色の建物が、街灯にぼんやりと浮かび上がった。なんだかんだで二年のあいだくらしているアパートは、古くて狭くて、家賃の安さだけが取り柄みたいな建物だったけれど、オレはわりあい気にいっていた。契約更新もする気でいて、きっとこの先まだまだ世話になる。
昔ながらの鍵を鍵穴に差しこんで、錆びついたドアノブを回す。玄関横のスイッチを押して電気をつけると、がらんとした殺風景な部屋がオレを出迎えた。台所を隔てた一間にベッドを置いてあるだけの、かんたんな部屋。持ちこんだものは少なくて、部屋のようすはここに越して二年の時間を経た今もほとんど変化していなかった。
靴箱の上に鍵を置いて部屋に入ると、ベッドに体を放り投げた。ぎしりとスプリングが軋んだ。ドラケンから譲られた簡易ベッドだった。そのほかに、三ツ谷が使っていた全身鏡、パーちんの実家にあったというローテーブル――無駄に厳かな模様が描かれている――があった。テーブルの上には、空のペットボトルが卒塔婆のように何本も立っていた。
オレが出所した時、東卍の創設メンバーたちが協力してかき集めてくれた家具で部屋はできていて、体はそこにすぐに馴染んだ。
うれしかった。オレを忘れないでいてくれたことが。十年の時間がオレの存在を溶かしてしまうのはかんたんなはずだっただろうに、みんなオレのことを憶えていて、受け入れてくれた。
東卍がなくなって、マイキーが消えて、世界は変わっちまった。でも、ムショの中で背中を押した「死」から、オレはやっと遠ざかることができたと思った。
枕に顔を沈めて、深く呼吸をする。染みついたたばこの匂い。いくら洗濯しても取れない匂いだ。
「……たしかに、賃貸でたばこ吸うのはよくねーかもな」
千冬の嫌がる気持ちが理解できた。……オレも少しは大人になれたんだろうか。
02.朝
ムショの外で千冬と再会した時、オレは咄嗟に、殺されるんだ、と思った。千冬はパーカーにジーンズというラフな恰好で立っていて、トートバッグを肩に提げていた。キャンバス地の白いトートバッグの中にはナイフが入っていて、それを取り出してオレの心臓に切先を向ける――そんな妄想をしているオレをよそに、千冬は「一虎くん」と笑いかけた。やわらかなほほ笑みだった。
「おかえりなさい」
と、千冬は言った。まるで買い物から帰ってきた人間に挨拶するみたいな気やすさだった。
背後に寄り添っていた刑務官が離れて、檻の中に戻っていく。ガ――チャン。重たい音を立ててドアが閉まった。おそらくまた、しばらくのあいだは開くことのゆるされない扉。
ひゅっ、と。喉の奥で呼吸が絡まった。吸おうとして吸いきれなかった息が、くちびるのすきまから細くもれ出た。いき、とオレは思った。息。ひゅっ。ふっ。ひぅ。酸素を求めれば求めるほどそれは遠ざかり、手を伸ばして掴もうとするとこちらを小馬鹿にするように逃げてゆく。喉を抑えた。体が傾いてゆく。視野が狭まる。指の先が痺れる。息が、できない。
「一虎くん?!」
くずおれたオレに走り寄って、千冬はオレの肩に、背中に触れた。
「落ちついて。ゆっくり、ゆっくり、息吸って、吐いて」
背中をさする千冬の手のぬくもりを感じた。癇癪を起こしたガキをあやすような優しい動作。
「過呼吸はね、ゆっくり、落ちついて、息すればなおります」
次第に酸素が肺に取りこまれ、満ちてゆくのがわかった。ふう、ふう、と大きく肩で息をするオレを、千冬は弱い力で、遠慮がちに抱きしめた。
「ごめんなさい、驚かせちまいましたね」
「……な、んで……?」
呼吸のあいまに、問う。息ができるようになっても心臓は早鐘を打ち続けていて、オレを抱く千冬の体温にも、どう反応するのが正しいのかわからなかった。
「なんで、オマエ……」
混乱する頭で、目の前の現実を整理しようと必死だった。千冬の目を見ると、透きとおった湖のような深い色をしていた。困ったように眉を下げて、笑う。
「一虎くんがそろそろ出所するころだってドラケンくんたちから聞いて。っていうか、みんなと連絡取れてたんスね」
「……ドラケンとは、手紙、で、」
うん、と千冬は頷いた。
「そのへんはドラケンくんから聞きました」
十年前、面会に来てくれたドラケンとは、その後は手紙のやりとりで近況報告をしていた。身内以外の面会はできなかったけれど、オレの家族が面会に来ることはとうとうなかったから、ドラケンとの手紙がオレと檻の外とを繋ぐ唯一の糸だった。
「……オマエ、オレを殺しに来たの」
くちびるからこぼれた言葉は、しばらくのあいだ空中に留まっていた。オレの言葉が千冬の耳に届いたのは、声を発してから数秒後だった。千冬は目をまんまるにさせて、ぽかんと口を開けた。
「殺す? なんで?」
千冬はオレとまるでおんなじ反応をした。は、とオレは息をもらした。
「なんでって、ふつう、そう考えるだろ」
オレは――、続けようとしたオレを、千冬が遮った。
「今さらっスよ」
「……」
「アンタを殺したって場地さんは帰ってこねぇ」
その名前を聞いた瞬間、体が強張った。オレらを取り囲む空気が一瞬にして張り詰める。千冬の目は浅く伏せられて、オレを抱く自分の手を見ていた。
十年前にオレの目の前で死んでいった男――場地圭介を、もはや悼むことしかできないのだと、その事実を十年のあいだに何度も突きつけられた。いや、悼む資格すらオレにはないのかもしれない。だからと言って、死んで詫びることもゆるされない。
何もかも、すべてが遠かった。
「……だよな」
オレは心のどこかで期待をかけていた自分に気づいた。自死がゆるされないのだったら、殺されたいと願っていた。オレは卑怯者だから、そうして罪を誰かになすりつけてこの世とオサラバする、安楽な未来を望んでいた。
「バカだ、オレ」
両手で顔を覆った。小さく丸めた体を、でも千冬がしっかりと抱きしめてくれていた。人間の持つ体温がなつかしかった。昔、ほんとうにほんとうのガキのころ、母親にこうして抱きしめてもらったっけ。そんなことも、あったんだっけ。
母親ほどやわらかくはない大人の男の腕の中に、この歳になって包まれている不思議を思った。
「バカですよ、アンタは」
今ごろ気づいたんスか、と千冬が耳もとで囁いた。うん、とオレは頷いた。目のふちから熱い水の塊があふれて、あ、と思うまもなく頬を伝った。
「ああ、あ……っ、うああぁっ」
ムショの高い高い塀の前で、千冬に抱かれながらオレは声を上げて泣いた。ガキのように、気がふれたみたいに、わんわん泣いた。
「ごめんなあ」
嗚咽をもらしながらオレは何度も何度も謝った。涙と洟水とよだれでぐちゃぐちゃになった顔を千冬の胸に押しつけた。誰にたいする謝罪なのかわからない。でも声は「ごめん」という言葉にしかかたちをなさなかった。ごめん。ごめんなあ。ごめんなさい。
千冬はオレを殺すことはおろか、殴ることすらしなかった。オレの体を抱きしめて、ひとしきり泣き喚くのにつきあってくれた。それだけだった。
:
朝のひかりが瞼をなぞって、くすぐったさに目をさました。促されるまま借りた千冬のベッドはしっかりとした白いマットレスが敷かれていて、当たり前だけれどムショのそれとはまるで違った。オレこっちで寝ますからと言って千冬はソファに横たわった。本来ならばオレがそっちで寝るべきなのに、千冬はしつこくオレにベッドを使うよう勧めた。
カーテンのすきまからもれた朝日が、オレの体をまっすぐに横断して睫毛を撫でた。数回、瞬きをした。眩しさに目を細める。膝を抱えて眠る姿勢はガキのころからの癖で、だから朝起きるときはいつも背中がきゅっと丸まっている。背中を丸め、膝を抱えたままマットレスに体を沈めてゆくと、まだまだ眠れてしまいそうだった。眠気が、波のようにゆっくりと寄せては引いてゆく。布団からも枕からも、千冬の匂いがした。まるで千冬に包まれて眠っているような気持ちになった。
昨夜は深く、とてもふかく眠った。せっかくだから外食でもしたいとこだけど、一虎くん疲れてるだろうから。そんな気遣いにより、コンビニで弁当と缶ビールを買って千冬の家に向かった。前を歩く千冬に、オレは阿呆のようにくっついていった。迷いのない足取りに、オレは却って戸惑った。千冬が何を考えているのか、まるでわからなかった。
繁華な駅前を通りアーケードを潜り抜けた場所にある千冬のアパートは、意外にもさっぱりと片づいていた。
大きな家具といえばシンプルなかたちのソファとベッド、本棚があるだけの広めのワンルーム。ベランダへと続く窓からは、茜と藍の混ざり合った複雑な色の空が見えた。
ローテーブルに買ってきた弁当と飲み物を広げて、向かい合って食べた。コンビニでの支払いはすべて千冬持ちで、あとでちゃんと返すよ、とオレは弱々しく言ったのだけれど叶えられる自信はまるでなかった。ムショから出たばかりのオレに、外で働き、自立して生活する姿はとうてい想像できなかったのだ。
シャワーを借りて髪と体を清潔にし、ベッドに横たわるとオレはすぐに眠りに落ちてしまった。
千冬がオレを迎えにきたこと、自分の家に連れてきて、食事とシャワーとあたたかい寝床を与えてくれたこと。――なんで? と、心底思った。あまりにも千冬がわからなかった。なんで、オレにここまでするのか。なんで、手を差し伸べるのか。
でも、思考するまもなく瞼は落ちた。気がつけば朝になっていた。
「ちふゆ」
枕を抱きしめながら、そっと名前を呼んだ。昨日再会してから、オレはまだ千冬の名前を呼んでいなかった。千冬はオレを、ちゃんと名前で呼んでくれたのに。
ちふゆ。自分にしか聞こえない小さな声を出すオレはひどく臆病で怖がりで、情けなかった。
洟を啜って、ふたたび枕に顔を沈めた。
目がさめたのは、コーヒーのこうばしい匂いが鼻先を掠めたせいだった。身動ぎをして目をひらく。カウンターキッチンに、パジャマ姿の千冬が立っているのが見えた。
「……ちふゆ」
寝ぼけまなこをこすりながら声をかけると、千冬は顔を上げた。湯気の立つマグカップを両手で包み持っていた。
「おはようございます」
律儀に挨拶をする千冬に、おはよ、と短く返す。喉がからからに渇いていた。千冬はゆっくりとオレに近づいて、「座っていいですか? ここ」とベッドの縁を視線でしめした。オレは頷いた。
「一虎くん、ぐっすり寝てましたね」
ベッドに腰をおろして千冬はくちびるの端を持ち上げた。マグカップをローテーブルの上に置く。
「……一回起きた、けど」
二度寝した、とオレは不必要な弁明をした。
「起こしてくれりゃあ、よかったのに」
「あんなにすやすや眠ってるとこ起こせるほど、オレは鬼じゃねぇっスよ」
しし、と笑う千冬の表情は穏やかで、オレの記憶の中を生きる十三歳だったころの松野千冬と、咄嗟には一致しなかった。
「オマエ、変わった? なんか」
布団にくるまった状態で、オレはつぶやいた。ええ、そうっスかねぇ、と千冬は首を傾げた。
「でも十年、経ちますもん」
心臓が、ごとりと鳴った。オレとコイツは、十年前の時間を共有している。オレの目の前で場地の体が崩れた、その向こう側にいた千冬の姿をオレは見たのだ。
そして十年前、死んだ場地を抱きしめた時と同じ手で、千冬は昨日、オレに触れた。
「……壊すことしかできないのにさ」
「え?」
十年前の十月三十一日の抗争で、オレは千冬のたいせつなものを壊した。壊してしまったものが帰ってくることは二度とない。だというのに、コイツは。
「オレには壊すことしかできなかったのに」
「……一虎くん?」
なのになんで。コイツは。
「ごめん」
大粒の涙があふれて、頬を、顎を、伝い流れた。声がふるえて、どうしようもない恐怖がオレを包んだ。ちふゆ、とオレはふるえる声で千冬を見上げた。
「ころして」
「ちょっ、ちょっと?!」
千冬の両手首を掴んで、オレは懇願していた。千冬のてのひらを首に添わせて、訴えた。ころして。しめて。くび。このまま。ころして。
「バカっ、やめろって!」
思いきり手を振りほどかれて、肩をベッドに押しつけられた。途方にくれるオレを、千冬はつよいまなざしで睨みつけた。
「バカな真似すんな!」
オレを押し倒すかたちで覆い被さり、千冬は低い声を放った。大人の、男の声。体がふるえた。
「そんなことしたって、オレはアンタを殺さない」
「……でも、」
「なんべん頼まれても、……土下座されたって、絶対に殺さない」
はくはくと息がもれるオレは死にかけの魚みたいだった。涙があふれて、こぼれて、止まらない。
頬を伝う涙が枕カバーとシーツを濡らした。肩を抑えつけていた千冬の手が離れて、体がふっと軽くなった。
「すんません」
カッとなっちまって、と唇を尖らせて、千冬はバツの悪そうに顔を顰める。
「……なんでオマエが謝んだよ」
悪いのは完全にこっちなのに。居た堪れない心地で、上体を起こした。伸びた前髪がぱらぱらと顔にかかって、うっとうしい。
髪の毛を掻き上げながら千冬の隣に膝を抱えて座った。頬は涙で濡れていたけれど、さんざんな姿を見せた今さら、隠そうという気はまるで起きなかった。
「オレ、生きていていいのかな」
つぶやく。それは何度も思考に飛来してきた問いかけだった。自問して、答えを求めてさ迷ってる。ずっと。
千冬はそれには答えず、オレの顔を見つめてそっと手を伸ばした。
「髪の毛、伸びましたね」
額に波打つ髪をゆびの先で払い、オレの目を見つめる。ん、と喉の奥で返事をした。
「いっそのこと伸ばそうかな」
「いいんじゃないっスか、イメチェン。今の一虎くん、ちょっと陰キャっぽいし」
「うるせーよ」
千冬は無邪気にわらって伸ばした手を引いた。髪の毛をさわられただけなのに、心臓が痛いくらいに鳴っていた。
千冬の体温を感じると、体が勝手に身構えてしまう。怖い、と怯んでしまう。それは殺されるかもしれないという気持ちとは無関係な、まったくべつの場所から発生するふしぎな感情だった。
「朝メシにしましょ」
そう言って千冬は立ち上がる。オーバーサイズのパジャマは丈がやや長いようで、裾をわずかに引きずっていた。
斜め上から笑みを向ける千冬には、ガキだったころの面影がきれいに宿っている。
03.みずうみ
まるいまなこがオレをじっと見つめていた。深い森の奥にひっそりと佇む、湖のような澄んだ瞳だった。そこに映りこんだ自分の顔を、オレはじっと見つめかえす。ハイネックの薄手のセーターに隠されて、首の刺青は今は見えない。
「かわいいでしょう」
背後に立った千冬の声はどこか誇らしげだった。腕には体重測定を終えた仔犬を抱えている。
毎朝出勤するとまずはあつかっている動物たちの健康管理から始まる。検温、体重測定。必要ならば爪のケアも。休暇明けに店に来ると、見覚えのない黒猫が真新しいケージでおとなしくしていた。
「きょうからウチの家族っス」
仔犬をケージにそっと戻してやりながら、千冬はオレの隣にしゃがみこんだ。
ちいさなケージの中で、その黒猫は身動きひとつせずにオレを見ていた。毛並みはととのっておらずボサボサで、顔つきも生意気そうだけれど、青色の目はどこまでも深く透きとおっていた。誰かに似てる、と思った。そうして、すぐに合点がいった。隣に座る千冬の顔を見やると、オレの視線に気づいて千冬は首を傾けた。
「なんスか?」
「いや、コイツ千冬に似てんなって思って」
「ええ?! 似てないでしょ!」
「似てる。目の色とか特に」
黒色の毛がボサボサだったり、生意気そうな顔だったり。あとに続けようとした言葉は飲みこんで、オレは猫に手を伸ばした。ゆびを近づけるともの珍しそうな顔で匂いをかいでくる。かすかなあたたかさを感じた。いきものの持つ、あたたかな体温。
「オレはペケJに似てるって思ったんスよ」
「ペケ?」
ガキのころ、千冬が可愛がっていたという猫のことを思いだす。名前をペケJと言って、店の名前はその猫からもらった。元々の名前はエクスカリバーだったらしいけれど、その猫に懐かれていた場地がペケJと名づけたので、千冬もそれに倣ったそうだ。
いいのかよ命名権場地に譲って。ずっと前にペケの話をはじめてされたとき、オレが問うと千冬は「場地さんがペケJっていうんならそいつはペケJなんっスよ」とわらっていた。
「じゃあ、コイツはペケの生まれ変わりかな」
ペケはある日突然いなくなったそうだ。いくら名前を呼んでも現れなかった。時間は流れて季節もどんどん過ぎていった。とうとう帰ってこなかったペケは、たぶん死んだのだろうと千冬は話してくれた。猫は死期を察すると人の元を離れて自分だけの死場所にいくんですって。そこでひとりっきりで死ぬんだってききました。
寿命を考えれば、猫だって少なくとも十年は生きるはずだから、生きていてもおかしくはなかった。たとえ生きていたとしても、ペケは自分で自分の居場所を見つけたんスよ。そう言った千冬の顔はさみしそうだったけれど、すべてを理解し納得しているように見えた。
オレの匂いをたしかめるように鼻を動かす猫――千冬いわくペケJは、やがてざらついた舌でゆびをペロリと舐めた。そのやわらかく生ぬるい感触に、思わず「ぎゃっ」と声を上げてしまった。
「ああ、お腹すいたんスね。ごはんの時間だ」
「噛まれそう、怖い、千冬たすけて」
「ちょっとそのまま動かないでいてください。びっくりしちゃうんで」
「千冬うう」
まだ動物の扱いに慣れていないオレをその場に置いて立ち上がり、千冬はいそいそと給餌の準備を始める。オレは動くことを禁じられ、ペケにゆびを舐められつづけた。
目線を送るとオレのゆびになにか味でもついているのだろうか、ペケは無心で舌を動かしていた。ひどくくすぐったかった。
こんなに小さないきものでも、生きるためにものを食おうとしていることが、妙にオレの心に響いた。
「えらいな、オマエ」
かたほうの手で、ペケの頭を軽く撫でた。そのときだ、ペケが勢いよくゆびに食らいついたのは。
「いっでええええっ!」
「一虎くん?!」
オレの悲鳴に千冬が慌てて駆け寄ってくる。甘噛みなんてかわいいもんじゃあない、マジ噛みだった。なのにペケは平然とした表情で、オレを見上げていた。
「か、噛まれた……」
「あー、びっくりしちゃったんスね」
かわいそうに、と言う千冬はあきらかにペケの心配しかしていなくて、オレはくちびるを尖らせた。
「オレのことも心配してくれよ」
「なにを今さら。昔さんざん喧嘩してきたじゃあないっスか」
ちょっと噛まれたくらいで大袈裟な。千冬は呆れたようにため息をついた。コイツの言っていることはもっともで、昔してきた喧嘩の怪我とは比べものにならないくらいの些細な痛みと傷だった。痛い、と言うのも憚られるくらい。
「そりゃあ、そうだけど」
「でも、一虎くんは優しいっスね」
ペケを抱え上げて腕に抱くと、千冬はオレを見てわらった。
「は? なんで」
「だってコイツがゆびを吸ってるあいだ、ちゃんと動かずにいてくれたじゃあないっスか」
「……オマエが、動くなっつったから」
オレは噛まれたゆびに視線を落としてつぶやく。千冬は首をふって、
「アンタは優しいから、この仕事向いてますよ」
ペケは千冬の胸に抱かれて、満足そうに目をほそめている。どうやら早くも千冬に懐いているらしかった。
千冬に言われた言葉が頭の芯を叩き、反響した。向いてる、なんて、今まで誰からも言われたことがなかった。千冬は、学歴もない、職歴もないどころか、前科持ちのオレに働く場所を与えてくれた。接客業なんてとうてい無理だと思っていたから、最初はバックヤードでの在庫管理や、掃除の仕事をおもに任された。そのうちにあつかっているさまざまないきものたちの世話も見るようになって、今は店頭に立って接客までしている。「生きているもの」を相手に仕事ができる、なんて。十年前のオレには、無理だった。でも、今はできている。震えが止まらない夜をいくつも越えた場所に、今、オレは立っているのだった。
「コイツのごはん終わったら、開店準備するんで」
ペケをケージに戻して、千冬は皿に盛った仔猫用のペットフードを置いた。待ってましたとばかりに餌にがっつくペケを見て、いきものの持つ力強さをやはり感じた。
「……ゆび、どーしたらいい?」
生体に噛まれたり、引っ掻かれたりしても絶対に傷を舐めたりはしてはいけないときつく言われていた。千冬はようやく気づいたように、立ち上がってオレの手をとった。千冬の手がオレの手に触れ、噛まれたゆび先を検分する。オレより少し低い位置にある頭。目。鼻。ツン、と尖っているくちびるの先。
「血は出てないんで、消毒だけでよさそうっスね」
ひさしぶりに、千冬の顔をまじまじと見つめることができた。家にいるときは千冬がそばに来るとすぐ逃げ出したくなってしまうというのに、ここが職場だからか、噛まれたことで気が動転してしまっているからなのか、とにかくオレは目を逸らさずにいられたのだ。
「……一虎くん?」
気がつけば、オレは千冬の右手を両手で握りしめていた。
千冬の体温がオレの手をじわりとあたためていく。その心地好さに、さっきまでの動悸がおさまってくる。これが、たぶん、安心、というものなのだろう。ほんとうは千冬に触れてほしくて、さわっていてほしくてたまらなかったのだ。触れてくれたら、オレは安心できたから。
ぎゅ、と力をこめるオレの手のその上に、千冬は手を重ねた。そうして、優しく包みこむ。
「痛い?」
千冬は問うた。上司という立場を抜きにした口調で。まるで家にいるときみたいな穏やかな発声で。
「も、大丈夫」
オレの声はか細かったけれど、誤魔化そうとする気は、なかった。千冬ははらりとわらった。
「そっか。よかったです」
消毒します、とオレの手を離し、救急箱を取りにレジ台へと向かう。エプロンをつけた後ろ姿を視線で追った。腰のあたりで結んだ紐が、動物の尻尾みたいに揺れていた。
:
気がつけば窓の向こうは夜の闇にとっぷりと覆われていた。壁掛け時計が十九時を示し、ドアの鍵はもう施錠されている。動物たちのかすかな鳴き声――眠っているヤツらの寝息も含めて――が響く店内はレジ周りだけにあかりが灯されていて、全体的にうす暗かった。
掃除用のモップを片づけると、残った仕事がないか店を見渡す。バックヤードにも周り、在庫を数えた。いきものたちのケージを一つひとつ見て、餌と水に過不足がないかを確認する。小さな店だからあつかっている生体は少ないけれど、いかんせん従業員がオレと店長兼経営者の千冬のふたりだけなので、一人当たりの業務量はかなり多い。それでも不思議と、苦痛は感じなかった。いきものの、生命の気配を浴びながらの仕事だからか。とても信じられないけど、やっぱりオレはこの仕事に向いているのかな、なんてことを思ってしまう。
「テンチョー、掃除とかいろいろ終わったけど。あとなんかない?」
レジ締めをしている千冬に声をかける。千冬は顔を上げてオレと、時計を交互に見た。
「あ、すんません、時間過ぎてましたね」
売上管理があまり得意ではない千冬は、レジ締めの作業になると集中力をすべてそちらに傾ける。もともと、さほど勉強ができたわけではないから当然なのだけれど、それでも必死こいて経営について学んで、結果こうして立派に店を構えているのだから大したものだと思う。
「ありがとうございます。上がってください」
「はあい」
エプロンの紐を外しながら、窓の外を見やる。すっかり暗くなった商店街は人通りもまばらで、あかりのついている店も僅かだ。夜の闇にほんの少しだけ、こころぼそい気持ちになった。
なあ、とオレはレジのそばに寄った。千冬がふたたび顔を上げてオレを見た。
「きょうさ、オマエんち、行っていい?」
飯、つくって待ってるから。そうつづけると、千冬の表情がぱあっと輝いた。
「え、つくってくれるんスか?」
珍しー、と千冬の目がまんまるになる。
「あんま期待すんなよ、簡単なもんしかつくれねーぜ」
「ぜんぜんいっスよ! じゃあこれそっこー終わらせて帰るんで!」
互いの家を頻繁に行き来するようになってだいぶ経つけれど、オレが率先して飯をつくることは滅多になかった。料理の経験なんて皆無だからレパートリーもないし、味の保証もできない。ネットで調べてつくってもなぜかおかしなことになるのが常だったから、料理は極力避けてきたのだ。でも今夜はなんとなく、千冬に自分がつくった飯を食わせたいと思ったのだ。日中、手を握ったときに伝わってきた体温が体の奥に残っていて、いちにちかけても消えなかった。それとどう関係があるのかはわからなかったけれど、千冬になにかしてやりたいという気持ちがあるのは、たしかだった。
「そんじゃ、とりあえず先帰るな」
「鍵、ちゃんと持ってます?」
「持ってる、持ってる」
オレはポケットから合鍵を取り出す。出所後しばらくしてひとり暮らしをはじめたオレに、なにかなくてもいつでも来てくださいと手渡された合鍵だった。ぶら下げているのは、ガチャガチャで取ったチープなキーホルダーで、千冬と色違いだ。
「じゃあ、待ってるな」
片手を挙げて、裏口から店を出た。ドアを押しあけた途端にひゅうっと風が吹きぬけて、薄手のパーカーの裾をはためかせた。秋が終わりつつあった。街路の枝は日に日に葉を落としていき、風をうけて寒そうにしている。いつのまにか見知ったものになっていた商店街を、出口に向かって歩く。仕事終わりは遅くなるから、買い物をするときは駅前のスーパーに行くことにしていた。
歩いて15分程度の場所にある24時間営業のスーパーは、いつ行っても混雑している。スマホの画面を見ると、二十時半に差し掛かろうとしていた。なにをつくろうか、っていうか、なにをつくれるんだ? オレは。ネットをひらいて「料理 初心者」「レシピ 簡単」「時短 うまい」などで検索をかける。けれど出てくるのは複数の食材と、小麦粉や片栗粉や塩や胡椒や唐辛子などの調味料をあれこれ組み合わせてつくる料理ばかりで、ちっとも参考にならなかった。すぐにつくれて腹を満たせるうまいメシだよ! 苛々しながらとりあえずカゴを持って店内をうろつく。千冬が何時に帰ってくるかわからないけれど、とにかく工程がシンプルで失敗しない味つけのもの、オレでもつくれるようなもの――結局、「カレー・シチュー・スパイス」と書かれた陳列棚の中からCMでいちばん名前をきくメーカーのカレールーを選び、野菜コーナーに戻ってじゃがいもと玉ねぎとにんじんをカゴに入れる。最後に肉を選び、会計を済ませてスーパーを出た。カレーならルーを入れるだけで味つけしないで済むから、オレでもたぶん大丈夫なはずだ。
ほんとうはもっと手の込んだものをつくりたかったけれど、それはカレーを成功させてから考えよう。
頬を撫でていく夜風がひんやりとつめたくて、気持ちがよかった。気がつけば顔じゅうが紅潮し、ほてっていた。スーパーのビニール袋を提げたまま、片ほうの手で頬に触れる。皮ふは、ひどくひどく熱かった。
04.指
「ただいまあ。あー、めーっちゃいい匂いする」
玄関のドアがひらいて、千冬は部屋に入るなり鼻をひくつかせた。
「おかえり」
「カレー? うまそ」
ワンルームの部屋は玄関の隣がすぐに簡易キッチンで、千冬は靴を脱ぎながらオレの手もとを覗きこんだ。
「一虎くん、カレーつくれたんスね」
千冬は感心したように言った。
「カレーなんてルー入れるだけじゃん」
「いや、野菜とか切れたんだなって」
「それは、……頑張った」
「あはは」
風呂場で手を洗った千冬が、オレの隣に立つ。カレーはかんたんだ、なんていうのは、普段料理をしないオレには通用しない幻想であると知った。まず、野菜を切るところから躓いた。皮剥きが特に関門で、そこを乗り越えるのにかなりの時間を要した。カレーふたり分にたいして、じゃがいも二個とにんじん一本、玉ねぎ一個。それだけの材料に苦戦しながらなんとか切り終え、肉を炒めていると今度は鍋の底に肉がくっついて剥がれなくなった。せっかく買った肉は破けてボロボロになり、なんとかかたちを留めている数個は貴重だった。味つけだけはまちがいがないはずだ。市販のルーを入れたのだから。
「野菜、ごろごろしてる」
千冬がボソリとつぶやく。
「……悪かったな。うまく切れなかったんだよ」
くちびるを尖らせるオレに、千冬はにっこりとわらった。
「いや、野菜大きめにごろって入ってるヤツすきっス。おふくろもそうだったんで」
「え、なにオマエ、マザコン?」
「ちがいますよ!」
頬を膨らませて否定する千冬が、つぎの瞬間「あっ」と声を上げて鍋の取っ手に添えたオレの左手首を掴んだ。その瞬間心臓がごとり、と動く。
「なに」
オレはわずかに身を引いた。素早い動作に、少しだけ怯えた。千冬はオレの左手を顔の前に持ち上げて、
「どしたんスかこれ。血ぃ出てる」
「え? うそ」
見ると、たしかにゆび先に血が滲んでいた。痛みもなかったから、まるで気づかなかった。
「あー。皮剥きのときかな」
「擦っちゃったんスか? 痛そ」
「痛くねーよ。なんならペケに噛まれたときのが痛かったよ」
冗談半分、本気半分でオレはいう。ペケに噛まれたときはこんなふうに反応してくれなかったくせに、店と家とで態度が変わりすぎる千冬がおかしかった。
「だってあれは出血もしてなかったし……、たいしたことないと思って」
「べつにこれだってたいしたことねーよ」
カレーはくつくつと煮え、華やかなスパイスの匂いが部屋いっぱいに満ちていく。
かちり、と音がしてコンロの火が消えた。見ると、千冬がスウィッチのつまみを捻ったところだった。え、と思ったときには、人差しゆびは千冬の口の中に吸いこまれていた。
第一関節のところまでぱくんと食べられ、咥内のあたたかさを皮ふの面積いっぱいに感じた。動揺のあまり、オレの思考と体は完全にフリーズした。
え、なんで――、なんで? 疑問符がぽこぽこと浮かんだけれど、それを口にすることができない。千冬は舌を器用に動かしてゆびを舐め、吸った。
「へ、ぇ、」
オレの口からなんの意味もない声がもれる。それはどうしようもなく情けないもので、千冬にはあまりきかれたくないものだった。
「……あ、止まった」
ひとしきり吸われたあと、ゆびが解放される。千冬は平然としていた。オレだけが混乱の極みにいて、なんだか惨めな気持ちにさえなる。
「な、にが」
「血」
ああ、とオレはゆび先を見た。滲んでいた血は拭われ、本来あるべき肌色が姿をあらわしている。
「ってか、傷口に口つけたりしちゃ、だめじゃん」
研修のときからしつこく言われていたことだ。だからペケに噛まれたときも、おとなしく消毒を待った。千冬はくちびるを舐めて、
「生体に噛まれた傷じゃないから、いいんスよ」
飄々と、言った。
「……なに、それ」
都合いいなあ、とオレは思った。思ったけれど、声には出さなかった。千冬に吸われたゆびが、まだ熱を持っていた。千冬の体温をそっくりそのまま移されたような。咥内のぬめってあたたかな舌の感触とか、少しだけぶつかった歯の硬さとか――そういうのが、じんわりとゆびに残って、胸が苦しくなった。
火を止められても、余熱がカレーをあたためていた。しかし次第に鍋が奏でる音は遠のいていく。煮えた野菜たちはきっとくたくたで、じゃがいもは溶けてしまっているかもしれない。それはそれで美味いのかも、だけど。冷めないうちに、ごはんよそって食いたい。はやく、皿を用意しなきゃ。せっかくつくったんだから、美味いうちに食べてほしい。さまざまな考えが頭を駆け巡っていくのに、体が動かなかった。立ち竦んでいるオレに、千冬の手が伸びてくる。頬に、触れる。一虎くん、と千冬のくちびるが、動く。
「キス、していい?」
「え」
オレを見上げて、千冬は言った。瞳を見下ろすと、ペケに似ている青い目の奥、湖のようなそこにオレの顔がうつっていた。オレは目をまるくさせて、完全に千冬に怯えていた。強張った表情。下がった眉尻。近づいて、千冬の息がかすかに頬にかかった。オレはぎゅっと目を瞑った。
「――ごめん」
声がしたと同時に、体温が離れていく。オレは目をあけて、喉の奥で声をもらした。
千冬は頬をまっ赤にして俯き、口もとをてのひらで覆っていた。
「ごめんなさい。忘れてください」
そうして千冬はオレの横を通り過ぎ、おもむろに流しの上の棚をあけると、カレー皿を二枚とコップをふたつ取り出して、作業台に並べた。
「せっかくつくってくれたカレー、冷めちまいますね」
食べましょ、と千冬は言った。突っ立っていたオレの体はその一言でようやく動きだした。それでも、心臓の音は鳴り止まない。近づいた千冬の体温と息の感触が、体にねっとりとまとわりついてしまったみたいだった。何事もなかったように振る舞う千冬を、ずるいを思った。オレはこんなに動揺して混乱してるってのに、コイツは。
炊飯器からごはんをよそう千冬の横顔を、オレは見つめた。頬がほんのりと赤かったけれど、やがてその赤色も見えなくなってしまった。
オレらは恋人どうしなんかじゃあなかったけれど、もしかしたら千冬は、オレが好意を抱いていることを早いうちから知っていたのかもしれない。
バスタブのあたたかい湯に体を浸しながら、千冬に吸われた人差しゆびを見つめた。皮がめくれているものの、出血のあとはどこにもなかった。痛みもない。なのに、いつまでもそこになにかが残っていた。
――すき、なのにな。
拒絶してしまうのは、これで何度めになるだろうか。
千冬から唐突にキスを仕掛けられて、まず感じたのは恐怖だった。こんなことがあってはいけない、と思った。たくさん触れたいし、触れてほしいのに、他人の体温が怖くてたまらなかった。誰かの体温であたためてもらうなんて、オレには一生ゆるされないから。
口もとまでを湯に沈める。ちゃぽ、と水面が跳ねて垂れた前髪を濡らした。
千冬のことがすきだった。でも、それは想うだけでよかった。千冬とどうにかなりたいなんてことを考えると体が竦んでしまうから、アイツのそばにいられるだけでよかった。
膝を抱えて俯くと、水面に自分の顔がうつった。乳白色の入浴剤を入れた湯にうつるオレは、腑抜けたような表情をしていた。
千冬のキスを受け入れていたら、今ごろ、オレらの関係はどう変わっていたんだろうか。ちゃんと恋人になれていた? それとも、ただのいたずらだってわらわれて、終わってた? そもそも、オレは千冬とどうなりたいんだろう。
深いため息をつくと、あぶくがぼこっと立ち上がった。目のふちが熱くなってきて、気がついたときには涙がこぼれ落ちていた。涙はぽとぽとと落ちて水面にいくつもの波紋を拡げていく。
幸せになんかなれない。そう覚悟していたはずなのに、こんなにも胸が痛くて苦しい。心の奥底で、ほんとうは、ずっと誰かを待っていた。さみしくてさみしくて、まっ暗なその場所はつめたくて体はどんどん冷えていって、誰かにあたためてもらいたかった。――それが千冬であればいいと、思っていたのだ。
「……幸せになんか、なれねぇよ」
低くつぶやいて、バスタブから体を引き上げる。涙は止まることなく流れ続けて、頬を、顎を伝い落ちてぱらぱらと散った。
タオルを肩に引っ掛けてリビングに戻る。千冬はソファに座ってテレビを眺めていた。オレに気づくとふり返って、「ドライヤー、つかってくださいね」と言った。
ガチャガチャと騒がしいバラエティ番組が、CMに切り替わる。ビールを旨そうに飲む男のタレントが、満面の笑みを浮かべているCM。
「あー、ビール飲みたい」
千冬がひとりごちた。
「飲んだら? なんか冷蔵庫に入ってたけど」
たしか冷蔵庫の奥のほうに、CMとおなじ銘柄の缶ビールが冷えていたはずだった。チェストからドライヤーを取り出しながら、オレはいった。千冬はソファの上で体育座りをして、「うーん」と唸った。
「あしたもあるし、やめときます。もう遅いし」
「……ふうん」
時刻は十二時半を過ぎたところで、先に風呂に入った千冬の頬はまだほんのりとほてっていた。
泊まるつもりはなかったのに、食事の後片付けをしているうちに夜はどんどん深まり、いつのまにか深夜になっていた。泊まっていっていいっスよ、と千冬がいうのに、オレはあいまいな返事をした。うん、とも、ううん、とも取れない、どっちつかずの返答。千冬もまた、それ以上しつこく追って来なかったのは、食事前の出来事を考えていたからかもしれない。
ふたりで食器を片付けたあと、千冬が沸かしてくれた風呂に入った。そのあいだオレは、帰るべきかどうか、ずっと迷っていた。泊まったところでなにも変わらないけれど――そう思いつつも、淡い期待を込めている自分の存在に気づいていた。
姿見の前にあぐらを掻いて、ドライヤーの温風を髪に当てた。このアパートには独立した洗面台というものがないから、泊まるときはいつもこうしてリビングで髪を乾かす。千冬に背中を向けるかたちで座り、乱暴に髪の毛をかき混ぜていると、金色に染めた前髪が視界に幕のようにおりてくる。
「一虎くん」
ふいに声がきこえて、ふり返るより先に背中になにかが押しつけられた。それが千冬の額だと気づいて、心臓が跳ね上がった。ドライヤーのスウィッチを切って、鏡越しに背後を見た。オレの体に隠されて千冬の姿はよく見えなかったけれど、ガキがいじけるみたいに、膝を抱えて頭をオレの背中に凭れていた。いつのまにかテレビは消えている。音のなくなった部屋に、ふたり分の呼吸音だけが静かに流れた。
「ちふ、」
ちふゆ、と言いかけて、鏡の中の千冬の目と視線が絡んだ。青い目は、ペケにそっくりだった。
「さっきは、ごめんなさい」
ドライヤーを片手に持ったまま、千冬の声に耳を傾けた。
「なんか、いろいろ堪えられなくなっちまって。困らせるだけだってわかってたんスけど……」
「……ん」
「一生懸命な一虎くん見てたら、ほんとうに、オレこの人のことがすげぇすきだな、って思って」
キス、したいなって思ったんスよ。千冬はぼそぼそと続けた。その顔が赤くなっているのが、鏡越しにもわかった。
「オレのこと、すきなの、オマエ」
声が震えていた。ききたいような、ききたくないような気持ちで、問うた。うん、と千冬は頷いた。
「すきですよ」
「なんで」
なんで、こんなヤツのこと、わざわざ。オマエならもっと他にいっぱい、いいヤツいるだろが。
「……わざわざオレなんか、相手にすんなよ」
前科モンだぞ、とオレは自嘲した。オマエのたいせつな男を殺した。オマエにひどい思いしかさせなかった。そんなオレをすきになる理由、ひとっつもねぇだろ。
「なんで一虎くんが泣いてんスか」
言われて、オレはようやく自分が涙を流していることに気がついた。息が苦しくなって、何度も嗚咽をもらす。肩を上下に激しく震わせる。その肩を、千冬が遠慮がちに抱いた。
「我慢してたのに、オマエのせいで台無しじゃん……」
「え?」
息継ぎのあいまに言葉をこぼす。
我慢していた。すきだなんてぜったいに口にしないように。口にしたらオレは、たやすく幸せになってしまうから。
「オレがっ、幸せになっていいわけねぇもん……っ」
千冬は力をこめて肩を抱く。オレは顔を千冬の胸に埋めて、まるでガキみたいにわんわん泣いた。いい年をした男でもこんなふうに泣けるのかよと、自分でも驚くくらいの泣きっぷりだった。
千冬は引くことなくオレを抱きしめていてくれた。背中をさすってくれる手があたたかくて、よりいっそう涙が出た。
05.正夢
ラグの上に体を倒し、ふたりして寝転がった。ラグは毛足が短くてうすいから、フローリングの硬さがじかに伝わる。それでもお互いに、ベッドに行こうとは提案しなかった。泣き腫らしたまぶたが、眠気に従って今にも落ちてきてしまいそうだ。目の前で千冬はオレの目を見つめている。手が伸びてきて、オレの頬をするりと撫でた。
「千冬は、オレとなにしてぇの」
オレはすなおに問うた。恋人どうしならば当然それなりのことをするんだろうと、恋愛経験がないなりに想像だけはできたから、目を逸らさずにきいた。千冬は首をわずかに傾けて、
「なに、って?」
と、かえした。不思議そうに目をまるくさせて。
「べつになにも、しない」
なにかしなきゃないってのも、おかしいでしょ。千冬は口の端を持ち上げた。
「一虎くんがしたくないなら、それでいいんス」
そんなことがあるのか、とオレは驚いていた。だいたい――それもすべて想像のものだけれど――恋愛というのは性愛が隠れていて、必ず、セックスがついてくるものだろうと思っていたから。
「千冬は? オレとしたくねぇの?」
それで、そうきいた。千冬はこそばゆそうに表情を崩した。そしてもう一度オレの頬に手を当てて、「べつにセックスが目的じゃねぇんで」と言った。
「でも、そーいうかたちで一虎くんを満たしたいって思ってるのは、まあ、そうです」
「やっぱ、してぇんじゃん」
うん、と千冬は頷いて、オレの頭を抱きしめた。オレとおなじボディソープの匂いがした。
「いろいろ、してやりてーんです。アンタに、いろいろ」
「……いろいろ」
「キスとか。あとそう……なんか、いろいろ」
そっか、とオレは言った。そっス、と千冬は言って、オレの頭を深く胸に抱いた。
体が、千冬の体温で満たされていく。それは信じられないほどの幸福をオレに与えた。
「幸せになっちまうよ」
オレは千冬の腕の中でつぶやく。このままじゃあオレ、幸せになるよ、と。
「千冬にさわられんのは、すきだ。気もちいい」
もっとさわってほしいって、思う。抑えていたことばたちが、澱みなく口から溢れ出る。
「アンタそれは、オレのことがすきってことですよ」
千冬の声が耳もとをくすぐる。また、涙が滲みそうになった。
「人のことすきになったって、いいじゃないっスか」
誰かをすきになって、それで幸せになったって。
ん、とオレは頷いた。
床に散らばった髪が、ラグの上で波打っていた。まだ湿っている髪の毛を、でももう乾かそうという気にはなれなかった。まぶたがひどく重たかった。眠い、寝そう。つぶやいたオレに、千冬は「寝てください」と言った。ついでみたいに頭を撫でて。
目を瞑る。途端に暗闇が視界を覆う。体は千冬に抱かれてあたたかい。ふと、額にやわらかく湿ったなにかがふれた。それが千冬のくちびるだと気づいたのは、夢に落ちるまぎわの、わずかな一瞬のことだった。あ、と思うより早く、オレはするすると眠りに落ちていった。
目がさめたとき、目の前に千冬の寝顔があった。のんきで健やかな寝顔をしばらくぼうっと見つめる。固い床に寝たせいで、体のあちこちが痛かった。いい年こいて変な場所で寝るもんじゃねぇな、とつくづく思った。
体を横向きにして、オレに顔を見せて眠る千冬の表情はほんとうにアラサーかと疑いたくなるほど幼いものだった。もともとの童顔がいっそうあどけなく見える。重たげな前髪を額に散らして、すやすやと寝息を立てる千冬を見ているうち、体が勝手に動いていた。近づけた顔に、千冬の息がかかる。構わず鼻の頭をくっつけると、オレはハッとして身を引いた。自分の行動に自分で驚く、なんて、バカみたいだ。千冬はかすかに呻き声を上げたけれど、目をさますようすはない。
鼻と鼻を触れあわせるだけのスキンシップは動物じみていた。人間も動物だからな、とわれながら意味のわからない言い訳をして、そっと体を起こす。寝たあとに千冬がかけてくれたのだろうタオルケットを、千冬を包むようにかけて直してやる。
窓辺に近づいてカーテンを細くあける。外を見ると、ぴかぴかに晴れた青空が見えた。高い場所に雲が浮かんでいる。すっかり秋の空だった。
ううん、と声がしてふりかえると、千冬がオレの寝ていた場所をてのひらで探っていた。まだそこにある体温を頼りに、オレを探しているようだった。戻っていって、そばにしゃがみこむ。千冬、と名前を呼ぶ。千冬はうすく目をあけて、オレを見上げた。
「かずとらくん」
「はよ」
「はやいっすね……めずらしい」
寝起きで、まだ舌の回っていない千冬は目をこすりながら体を起こし、大きなあくびをした。
「……ってか、体、痛ぇ」
「はは。オレも」
「こんなとこで寝るもんじゃあねぇっスね」
オレとおなじことを言ってる。おかしくて、喉を鳴らしてわらった。
「朝メシ、なんかつくる」
「え、大丈夫? つくれる?」
「バカにすんな」
「ねえ」
立ち上がりかけたオレのパジャマの裾を、千冬は引っ張った。促されて屈むと、両頬をてのひらで包みこまれ、ぐいっと顔が近づいた。オレは目を見開いた。
「夢、見た」
ぬるい吐息が頬を滑った。
「夢」
どんな、と問うと、千冬は目を細めて、
「一虎くんとキスする夢」
と、言った。
「……そう」
「ねえ、正夢にしてもいい?」
まっすぐにオレを見つめる。青い目。深い湖のようなそれに、オレがうつっている。水鏡の向こうでオレはくしゃりとわらって、千冬のくちびるに自分のくちびるを重ねた。一瞬のことだったけれど感触と温度はしっかりと伝わった。それは千冬もおなじだったようだ。顔を離したとき、千冬がきょとんとした顔をしていたのがおかしかった。
「ほら、正夢になったろ」
勝ち誇った気持ちで、オレは言った。
「……ちょっ、ずりぃ! オレからしたかったのに!」
「どっちからでも変わんねぇって、べつに」
したかったから、しただけ。そういって、オレはふたたび立ち上がる。かんたんな朝食をつくろうと思った。トーストに、卵とベーコンを焼くだけならオレにでもできるはずだから。
背後では千冬がまだぶうぶうと文句を垂れていた。ほんとうに負けず嫌いなヤツだ。
焦げたトーストはほろ苦く、バターとジャムで中和しながら食べた。目玉焼きは白身がフライパンに張りついてしまったのを無理やりこそげ落としたせいで無惨に千切れているし、ベーコンもおなじだった。それでも千冬は文句を言わずに食べてくれた。
ダイニング・テーブルに向かい合ってオレのつくった朝食を食べているあいだ、オレらは無言だった。テレビもついていない部屋で黙々と食事を咀嚼する。窓から差しこむ光が少しずつその質量を増してきていた。明るくなっていくごとに千冬の顔がはっきりと輪郭を定めてくる。パンを噛みしめながら顔を見ていると、はたと視線がぶつかった。
なんスか、と軽く首を傾ける千冬に、オレはうっすらとわらって応えた。なんでもない。無言の中に、そう言葉をこめた。
ついさっきキスをしたことなどなかったかのような自然な時間だった。今までとこれからはなにも変わらない気がした。千冬はコーヒーを啜っている。朝日が頬にぶつかって、白っぽく反射していた。
ふいに、脛を蹴られた。つま先で、ごく軽く。千冬はオレの足に足を絡ませて、上目遣いでオレを見た。
「なんだよ」
思わず、固い声が出た。はだしの足がすりすりと脛を、ふくらはぎを撫でてくすぐったかった。
「なーんか一虎くん、シケた顔してるんで」
「そんなことねぇだろ」
「なに考えてるのか知りませんけど、そんな不安になんなくっても、大丈夫っスよ」
図星を指されて、どきりとした。千冬はマグカップをテーブルに置いた。
「……不安、とかじゃ、ない」
「嘘。顔にぜんぶ書いてある」
千冬は無遠慮にオレの顔を指さした。そうして目を細めてオレを見つめた。つま先でオレの足の甲をさすりながら。
「ほんとにアンタってわかりやすいっスね」
自覚はなかったけれど、千冬がそう言うのならそうなのかもしれなかった。俯いてパン屑のついたゆび先を見下ろす。そんなオレの耳に千冬の声が静かに降ってくる。
「オレは逃げませんから」
だから、安心してください。千冬はそう言って、オレの足を解放した。体温が離れると急に心もとなくなったけれど、千冬の目は真っすぐにオレを見つめてくれていた。
うん、ありがと、とオレはつぶやいた。ほんの少しだけ、声が掠れた。
:
出勤してすぐ、動物たちのようすを確認する。ケージでおとなしくしているいきものは皆、昨日となにも変わりがないようだった。
千冬とふたりがかりで、検温と体重測定をする。それからそれぞれに給餌をして、店内の清掃に入る。一連のルーティンはすっかり体に染みついて、滞りなく流れていった。
土曜日ということもあり、客は立て続けにやってきて、オレも千冬もその対応に追われた。アメリカンショートヘアのケージを覗きこんだカップルを相手に、ああでもないこうでもないとやり取りをしているオレを、隣のケージから見つめている目があった。ペケJだった。青い目が真っすぐにオレを見ていた。ペケは昨日のうちにしっかりとケアされていたから、初対面のときより小綺麗になっていたけれど、客からの人気はあまりないようだった。みんなペケを一瞥するだけで、すぐにべつのケージを見にいく。
「やっぱまた今度にする」とカップルの若い女が言って、オレはようやく解放された。カップルが店を出ると同時に千冬も会計の対応が終わったらしい。人が捌けて、店内は唐突にいきものたちの立てる音と気配だけに満ちた。
はぁーっとため息をついて、オレは前髪を掻き上げた。千冬が労るようなまなざしを向ける。
「お疲れさまです。対応ありがとうございます」
「……ああ、うん」
接客が不得手なオレのことを、千冬はいつも気遣ってくれる。できるだけ頑張って慣れようとしているのだけれど、人とのコミュニケーションは一朝一夕ではいかないから、毎回とんでもなくエネルギーをつかうのだ。
「大丈夫ですか?」
客の置いていったレシートを帳簿に挟んで、千冬はオレの目の前に立った。不安そうな表情で顔を覗きこむ。
「だいじょぶ」
「ほんとに?」
千冬は肩に手を置いて、じっとオレの目を見た。ペケとおなじ、青い目。そんなきれいな目でオレを見てくれることがうれしくて、照れくさいようなくすぐったいような気持ちで、オレは視線を逸らすと口をもごもごと動かした。
「……ほんとは、けっこう、きつかった」
白状すると、ほら、と千冬はわらった。
「お客もいないし、ちょっとだけ休憩しましょう。コーヒー飲みます?」
「ん。のむ」
千冬のあとについて、休憩室に向かう。店を完全に空けるわけにはいかないから、千冬はすぐに仕事に戻るのだろう。動物たちに昼メシも与えなきゃならない。
インスタントコーヒーを入れるための湯を、ケトルで沸かす。こぽこぽと水の沸騰する音が響く休憩室は、窓からさしこむ日でしらじらとまぶしかった。光は千冬の黒い髪を透かして、横顔のラインをなぞる。顎、頬、鼻の頭。
パイプ椅子に座って見つめていると、今朝の出来事が鮮やかに蘇ってきて恥ずかしくなった。自分からしておいて、今さら、キスをした事実をなかったことにしたかった。
でも、もうしてしまった。事実は覆らない。
「はい」
コーヒーの入った紙コップが、目の前に置かれた。ありがと、とオレは言ってコップを手に取る。
「一虎くん、頑張ってますね」
「え?」
千冬が立ったまま急に言ったので、オレは驚いて目を上げた。青い瞳に視線がぶつかる。
「迎えに行ったときは、こんなに元気になるなんて思わなかった」
「そんなに元気なかった? オレ」
はい、と千冬は頷いた。オレは苦笑した。
「そりゃあ、出所してすぐ元気なヤツなんていねぇだろ」
「そうっスかねぇ」
まあ、わかんねぇか、そんなこと。世の中いろんな人間がいるし。晴れ晴れとした気持ちで出てくるヤツも中にはいるだろう。
でも、千冬と再会したときのオレはたしかに憔悴しきっていて、疲弊していて、どうしようもなく頼りなかった。千冬、とオレは紙コップをテーブルに置いてたずねた。
「あのさ。なんでオレに構う?」
構うどころか、千冬はオレの更生のために奔走してくれた。部屋探しを手伝ってくれ、職を与えてくれて、さんざん世話を焼かせてしまった。
「オレは、オマエに報いたいって思うよ」
恩返しなんて柄じゃあないけれど、償いさえもできないのなら、せめて。
千冬はしばらく黙ってオレを見つめていた。そうして、やがて浅く息を吐いた。
「オレは、一虎くんがこれからもオレのそばにいてくれたらいいなって思ってますよ」
視線を持ち上げて、千冬と目を合わせる。千冬はやわらかな表情を浮かべていた。
「オレは一虎くんがすきなんで」
アンタがどうかは知らないけれど。そう付け足しながら、千冬はオレに背中を向けた。腰で蝶々結びをしたエプロンの紐が、やはり尻尾のようにゆらゆらと揺れた。
「先に戻ってますね」
休憩室のドアが静かに閉まって、ひとり取り残される。千冬の声が、言葉が、耳の奥に響いていた。さらりと、オレをすきだと千冬は言った。パイプ椅子の背もたれに寄りかかって、オレはため息をついた。
オレが千冬をすきなことなんて、とっくに見透かされていたのだ。それどころか、あっさりと向こうから告白までされてしまって、咄嗟に反応できなかった。頬が熱を持っていた。顔じゅうが熱かった。横に置いてある姿見を見たらきっとまっ赤な顔をした自分がいるはずで、恥ずかしさのあまり見ることができない。
「オレも、オマエがすきだよ」
オレ以外に誰もいない休憩室で、ぼそりとつぶやく。口もとがにやけてしまったので、慌てて、てのひらで覆い隠した。
06.こぼれてしまうよ
秋の夜空はめまいがするほど広く澄み渡っていた。チカチカと瞬く星を見上げ、あしたも晴れかな、なんて、どうでもいい他愛のない話をする。
退勤後、二組の足は自然に千冬の家へと向かっていた。帰路をとろとろと辿りながら、オレは千冬と肩を並べて歩いている不思議を思った。
好意を伝えあった事実以前に、千冬はオレという人間を最初っから受け入れてくれた。千冬につらい思いをさせたのはオレなのに、それを承知したうえでオレを拒絶しないでいてくれた。オレは殺されてもいいはずだったのに、千冬はそれをしなかったし、望むことさえなかった。
ああ、とオレは空を眺めながらため息をついた。ようやくわかった――気がした。
「なんか言いました?」
隣で千冬がたずねるのに、オレは頷いた。そうしてゆっくりと言葉を吐いた。
「千冬はさ――当たり前なんだけど、やっぱりオレをゆるせねぇんだなって。今やっとわかったよ」
千冬は神妙な顔で自身のつま先を見つめた。ハイカットのスニーカーはずい分と履き古していて、ボロボロだった。
「オレを勝手に死なせないためだったんだろ? 出所の時、保護したのは」
「……だって」
千冬は、オレに呪いをかけていた。絶対に死なせない、という呪いを。それは無垢な呪いとなってオレを縛り、この世に縫い留めた。千冬のいる世界に、きつく。
「だって、それ以外にどうしようもなかったから」
「わかってる」
右手を動かして、千冬の手を握る。そして、「ごめん」と言った。
「オレずっと、ほんとうにずっと、千冬にしんどい思いばっかさせてんな」
千冬の手はあたたかで、ゆるい力で握ると、おなじくらい弱々しい力で握りかえされた。ささやかな抵抗――オレへの反抗――を、心からいとおしく思う。
「ごめんな」
くりかえす謝罪に、千冬は首を左右にふる。でも、俯いた顔は上げなかった。
髪の毛に隠れて表情は見えなかったけれど、きっとくるしみに歪んだ顔をしてるんだろうと思った。そんな顔をさせたくはなかった。でも、千冬は最初っから苦しかったのだから、ぜんぶ、なにもかも今さらだ。
「ごめんとか、いらねぇっス」
車道を走る車の音のすきまを縫って、千冬が言った。
「オレら、もう、キスした仲じゃあないっスか」
唇にはまだ今朝の感触が残っていて、恋愛経験がないって大変だな、とオレはつくづく思い知った。大概が十代のうちに通り過ぎているだろう「すきなヤツとのキス」に、オレはこの年にしてようやっと辿り着いたのだ。
「千冬って、ファーストキスいつ?」
興味本位でたずねれば、千冬はギョッと目をまるくさせた。
「なんスか、中坊みてぇなこと言って」
「オレの心はちゅーぼーのままだよ」
「体は立派なアラサーでしょ」
いいから教えろよ、と迫る。千冬は逃げるようにそっぽを向いた。
「……教えねー」
「まさか、千冬もアレがはじめて? とか?」
「なっ、……ンなわけねぇでしょ!」
「ほんとかぁ?」
さらさらと流れてくる風がオレと千冬の髪の毛に絡んだ。秋の終わってゆく匂いを含んだ、気持ちのいい風だった。
深い紺青の空のあちこちに星が散らばった静かな夜には、オレらの足音だけが聞こえていた。商店街を抜けたらすぐに狭い道に入る。千冬の家までもうまもなくだった。
「オマエんち、行っていいの?」
こんなところまで来て、今さらだったけれど一応訊いた。千冬は「今ここで言います?」とわらった。
「もう着くのに、ダメっつったらどうすんスか」
「え、……自分ち帰る」
「すなおか!」
ケタケタと腹を抱えて千冬はわらう。ああ、そんな顔を見られるだけでじゅうぶんなんだよな、とオレは思う。オレはたくさんのひどいことをしてきて、誰かをわらわせてやれる自信なんてすっかり失くしていて、なのに千冬はいつも隣でころころとわらってくれる。
「はあーっ、ウケたウケた」
息継ぎをしながら空を見上げた千冬が、ふいに「あっ」と声を上げて立ち止まった。半歩遅れてオレも止まる。千冬は空の一点をゆびさした。
「今、見えたっ? 流れ星!」
「え?」
千冬のゆび先を辿った場所で、一瞬、光が流れた。
「ねぇ見えた? 一瞬だったけど!」
興奮したようすで千冬はオレの顔を見た。
「見た。見えた」
と、オレは言った。
「なんか願いました?」
「あんな一瞬で、なんも願えねぇよ」
そうだ、流れ星に願いをかけるなんて、ほんとうはばかげている。けれど、十代のオレは願わずにいられなかった。どんなに阿呆らしいとわかっていても、願うことがオレの救済だった。
独居房の四角い窓から見えた星と月と、ときおり過ぎっていった流れ星のことを今でもずっと忘れられない。あれはたしかに希望の光で、でも願いを叶えてくれる魔法ではなくて、オレはとうとう今日まで生き永らえてしまった。
「千冬はなんか、願ったん?」
ガキの会話みたいだと思いながら問うと千冬は頷いて、
「商売繁盛」
ドヤ顔で、そう言った。
「うわ、現実的」
「だってそれなりに繁盛してくんねぇと、そのうち一虎くんの働き口もなくなっちまいますよ?」
「そりゃ困るわーマジで」
でしょ? と千冬は言って、オレの手をぎゅ、と握った。
「一虎くんにはずっと店にいてほしいんで」
視線の先に、煉瓦を模した壁が見えてくる。千冬のくらすアパートだ。庭に植っている名前のわからないデカい樹が、風に葉っぱを揺らしている。
「一虎くんは、どうっスか」
「うん?」
「ずっと店にいてくれますか」
これは、面談かなにかか? オレは千冬の目を見つめて、口の端を持ち上げた。
「そりゃあ、いるよ」
今店を放り出されても、どこに行けばいいのかわからない。
「そっスか。よかった」
「クビにしないでくれよ、店長」
「努力しますよ」
喉を鳴らしてオレはわらった。つられて、千冬もわらう。繋いだ手が熱を持つ。帰り道、ずっと手を繋いでいたことが今さら恥ずかしくなった。けれど、お互いにほどこうとはしなかった。
次に流れ星を見たときに、オレはこれからもずっと千冬と一緒にいたいと願うだろう。千冬はいやがるだろうか。すぐに面倒になるだろうか。不安が消えたわけではないけれど、「逃げない」と約束してくれたことはほんとうだ。オレにできるのはその言葉を信じることだけなのだ。
当然みたいに千冬の部屋のドアをくぐる。ただいま、と千冬が言う。それに倣って、オレも部屋の中に向かって「ただいま」を言った。
epilogue
サンダルを突っ掛けてベランダに出ると、秋の終わりの風が頬を滑った。気持ちのいい夜。ほんのりと酔った頭で、手摺りに体を預ける。窓をふり返ると、リビングのソファに寄りかかって眠る一虎くんの姿が見えた。無防備だなあ、とおかしくなる。オレに心をゆるしてくれている証拠だろうか。そんなふうに思うことが、オレにゆるされるんだろうか?
ソフトケースからたばこを一本取り出して、咥えた。いつも一虎くんにもらいたばこするくらいで頻繁には吸わないけれど、吸いたくなったときのために一箱買っておいたものだ。100円ライターで火をつける。先端が赤く燃える。星の瞬きよりずっと力強い。
秋の夜風に煙が流されていく。一虎くんと歩いた、家までの道が眼下にあった。アパートに着くまでずっと手を繋いでいた。一虎くんは手をほどかなかったし、オレもほどくつもりはなかった。離したくなかった、というのが本音で、離したら、きっと彼は自分の家に帰ると言う気がした。
怖がりで傷つきやすい一虎くんに、無闇なかなしみを与えたくなかった。
彼を保護したのはオレのエゴだ。放っておいたら死んでしまいそうな彼を、どうしても死なせたくなかった。オレにはそれしかできなかった。
煙を吸いこんで、細く吐き出す。ひさしぶりに吸うたばこはさほどおいしいと思わなかった。
帰り道にふたりで並んで見た流れ星は、あっというまに視界から消えてしまった。「なに願った?」と無邪気に問うてくる一虎くんに、オレは咄嗟に、「商売繁盛」なんて嘘をついた。ほんとうは、ぜんぜんべつのことを願っていたのだけれど。
たばこは半分ほど残して簡易灰皿に押しつけて消した。一瞬だけ空を見上げてすぐに目を逸らし、リビングに戻った。
ソファに凭れた一虎くんを起こさないよう、そうっと近づいた。前髪を払って、その整ったきれいな顔を見つめる。
「ごめんね、嘘ついた」
起きる気配のない一虎くんに、オレは小さな声で話しかける。
「商売繁盛なんて、うそ」
ほんとうは、と言葉を継ぐ。
「一虎くんがもっともっとオレを求めてくれますようにって、願ったんだよ」
もっと欲しがって、求めて、渇望してほしい。ずっとそう願っていたのに、一虎くんは頑なだった。そんな彼にオレはときどき苛立った。苛立っても、訴えることはしなかったから、一虎くんがオレを貪欲に欲しがることはなかった。ないままに今日まできてしまったのだ。
肩ほどまである髪がゆびのあいだをさらさらと流れ、こぼれていく。人さしゆびで頬を撫で、輪郭を辿った。頬、顎、耳のかたち。んん、と呻き声をもらして、一虎くんの目があいた。
視線が、一時絡まった。
ちふゆ、と彼の唇が名前を呼ぶ。うん、とオレは答えた。手が伸びてきて、一虎くんの両手がオレの頬を包んだ。
「顔、近い」
「うん」
オレがくすくすと笑うと、一虎くんは眠たそうな声音で、
「……すげー、ちゅー、したい」
そう、言った。そんな彼を心底、かわいいな、と思う。
「どうぞ」
オレの返事を待ってから、一虎くんは静かに唇を重ねた。生あたたかい体温を感じて、不覚にも心臓が高鳴った。
顔が離れると満足そうにほほ笑む一虎くんがいた。オレは髪の毛をくしゃくしゃにかき混ぜながら、言う。
「ほんとうに、アンタはかわいい人ですね」
ひどいことばかりしている、と思う。オレは一虎くんをこの世に留めてしまって、生きることを強いてしまった。それは彼にとって呪いにちがいないはずだった。
心の中でなん度も謝った。でも、オレにできることなんてほんとうになにもないから、せめて一緒に生きてほしいと、隣でわらっていてほしいと、そう願うのだ。
目の奥がツン、と痛んだ。滲み出そうな涙を押しこめて、もう一度、軽いキスを落とした。一虎くんがくすぐったそうにわらう。
幸福そうなその表情に、オレの心はゆっくりとあたためられていく。
初出:24.0919
#ふゆとら
Merci mille fois(ふゆとら)
一虎くん、お誕生日おめでとう。(一日遅れでごめんなさい)
22軸/ふゆとらがナチュラルにいっしょに暮らしています。
顔を押しつけた枕からはひなたの匂いがした。それに混ざって今ではもう嗅ぎ慣れた千冬の匂いも。三十手前の男が放つ匂いなんてよいものでもないはずなのに、少しもいやな気分にならないのは惚れた弱みだろうか。それとも単に気持ちが弱っているから? ひと肌恋しいだけ? 熱っぽい頭は朦朧としていて思考はまるでさだまらない。重たい体を守るようにぎゅっと丸めて枕を抱きしめると、額に貼られた熱冷ましシートがずれて、メントールの香が鼻の奥をツン、と突いた。
夏風邪はばかが引くって言いますよね。出勤前の千冬に言われた言葉が記憶の水面を浚う。生ぬるい手で額に触れながら、真剣な表情でそんなことを言ったので一虎はどう反応するのが最適かわからなくなった。朝起きた瞬間から、だるい、頭が痛い、と訴える一虎に熱を測らせると、37.8℃の表示だった。風邪ですね、と千冬は体温計の数字を見つめ、そうして、先ほどの言葉をつぶやいたのだった。
「なんでそんないじわる言うんだよ」
「いじわるて、アンタ」
ばか、だなんて。ひどすぎる。ワイシャツを着た千冬を、ベッドに横たわった状態で一虎は見上げた。恨めしげな目で。そんなつもりはなかったのに、声は掠れてひどくか細かった。
「病人には優しくするもんだろぉ」
風邪なんて滅多にひかないから、こんな非日常な状態に陥ると途端にメンタルが崩壊する。ただでさえ脆い精神の持ち主なのだ。夏掛けに包まってぐずる一虎の側に寄って、千冬は額にかかった前髪を払ってやる。
「どっかで中抜けしてようす見に来ますから。今日はゆっくり休んでてください」
「……ん」
病欠することへのすまなさはあったけれど、千冬のてのひらの柔さがささくれていた心をわずかに均した。迷惑かけてごめん、と言おうとした一虎の喉から痰の絡んだ咳が出る。シーツに口を押し当て苦しげな咳をする一虎の背中を、千冬の手がさすった。
ばか、と言われたのはショックだったけれど、なんだかんだ言って千冬は優しい。それは風邪をひいている状態に限らないことを一虎は知っているから、つい甘えて、千冬を乞うてしまう。
「はやく帰ってきて」
はいはい、と一虎の頭をひとつ撫でて、千冬は立ち上がる。気をつけて。無理に動かないように。水分ちゃんと摂ってくださいね。できれば食事も、食べられる分だけでいいんで食べて。親が子に言い聞かすような注意事項をつらつらと述べて、千冬は部屋を出ていった。
玄関のドアが閉まると、途端にあたりは静寂に満ちる。喉奥でぜいぜいと掠れた呼吸がもれ出、息苦しさにサイドテーブルに置かれたペットボトルを手に取った。マスカット味のスポーツドリンクはするすると喉を滑り落ちていった。そこでようやく、一虎は喉がカラカラに乾いていたことを知った。
ベッドに丸まり、枕に頬を預けた。ひなたと、千冬の匂いが交互に鼻を掠めた。早く帰ってきて、なんて、ずいぶん甘ったるい、めんどうなことを言ってしまった。自分の発言をふり返って、一虎はうっそりと後悔する。千冬は呆れたかな。さすがにうざかったかな。ふと不安になったけれど、こっちは体調不良なのだから仕方がない、と自分を納得させる。今日の店のシフトはバイトの子がふたりいたはずだから、オレがいなくってもどうにでもなる。でも、千冬はオレのようすを見に中抜けすると言った。余計な迷惑をかけちまうな。ため息を一つ、吐き出す。
滲んだ罪悪感は次第に頭の片隅へと追いやられてゆき、解熱剤による眠けが一虎の全身をゆるやかに包んだ。ベッドに体重を任せて力を抜くと、意識はあっというまに夢の世界へと落ちていった。
ひんやりとしてやわらかな皮ふの感触があった。指のひらが頬を撫でる心地は気持ちがよかった。まぶたを押し上げると目の前に千冬の顔があり、一虎は咄嗟に、「ああ」と無防備な声を発した。
「どうっスか、具合は」
じっとりと汗ばんでいるくびすじに千冬はタオルを当てがってくれていた。ていねいな動作で滲んだ汗を拭い、優しく甘い声をかける。とろとろとした眠りのふちにいる一虎は覚醒しきらない頭で、千冬が今なぜここにいるのかを考えていた。
「……オマエ。店は」
「中抜けするって言ったでしょ?」
「あー、そっか」
そっか、とくり返せば口もとがどうしてかゆるんでしまう。なに笑ってんスかと千冬がくしゃくしゃになった髪の毛をさらにかき混ぜて乱した。一虎はその手を取って、唇に寄せる。匂いを嗅ぐ。ふたりで愛用している石鹸の、清潔な香り。すんすんと手の匂いを嗅いで、指の感触を楽しむと、心細さがうすれてゆく。
「大丈夫っスか? なんかメシ、食いました?」
しばらく一虎のすきにさせていた千冬はやがて周囲を見渡して、ペットボトルの中身が半分以上残っていること、食事をした気配がないことを素早く察知する。
「だるくて。眠ぃし、全然腹減らねえの」
「ちょっとでもなんか食わねぇと。とりあえずこれ、飲んで。飲めます?」
スポーツドリンクを掴んでキャップを捻る。のむ、と一虎は言ったけれど、上体を起こす気力もないらしかった。
「……やっぱオレ、店休んで一緒にいればよかったっスね」
しんどいのに、すんません。謝る千冬に一虎は首をふる。
「オレも、寝てたらすぐ良くなるって思ってたもん」
「これ以上つらくなる前に病院行きましょう」
一虎は「病院」という単語に露骨に顔を顰めた。
「ビョーイン、は、ヤだ」
「はいはい」
千冬は一虎の言葉を受け流しながらペットボトルに口をつける。中のスポーツドリンクを口内に含み、一虎に顔を近づけた。
唇が、なんの抵抗もなく触れ合う。かすかにひらいた唇のすきまから甘酸っぱいドリンクをそっと流しこむと、一虎は給餌される幼鳥のようにそれを受け取った。こくこくと喉が鳴ったのを確認してから、そうっと顔を離す。潤んだ瞳が千冬を見つめていた。もっと、と、その目が言っていた。千冬はもう一度、口移しでドリンクを飲ませてやる。一虎は片肘をついてわずかに体を持ち上げ、ドリンクを飲むのにいちばん具合のいい角度で千冬の唇を受けていた。それでも口に含みきれなかった水分は唇の端からあふれ、顎を、そしてくびすじを伝った。
タオルを当てていたからシーツを濡らすことはなかったけれど、スポーツドリンクの甘味料によって一虎のくびすじはベタベタになってしまった。
「な、もっと」
そんなことはお構いなしに水分をねだる一虎に、千冬は、「つぎはメシ。カロリー」と言って、足もとに置いていたコンビニのビニル袋の中を弄った。取り出されたのは、小ぢんまりとしたチョコレートケーキが二切れ並んだパックだった。
「……なんでケーキ?」
訝しげに首を傾けた一虎に、千冬は、「アンタ自分の誕生日も忘れたんスか?」と驚いてみせた。九月十六日――今日は一虎の誕生日で、千冬はこの日を祝おうと事前にプレゼントを用意し、ケーキ屋にバースデーケーキも予約していたのだ。
「夜に食べられなかったときのために、とりあえず買ってきたんスよ」
「え、わざわざ?」
一虎は目をぱちぱちと瞬かせた。まるで、信じられない、とでもいうように。千冬はバツの悪そうに唇を尖らせた。
「仕事だから夜しか時間取れねぇけど、どうしても祝いたかったんで」
こんな風邪っぴきの時に、あれっスけど。はにかむ千冬を見、チョコレートケーキを見、また千冬に視線を戻す。一虎はくしゃりと表情を崩して、顔を片手で覆った。くふっ、と口もとから笑みがこぼれる。
「……うれしい」
「そりゃあ、よかった」
ドーム状になっているケーキの蓋を開ける。店員が付けてくれたプラスティックのフォークでひとかけらを掬い、一虎の口もとに運ぼうとした。すると、一虎は背中をシーツにくっつけ、頭を枕に乗せて千冬を見上げた。
「この体勢じゃ食えねぇんだけど」
「……じゃ起きてくださいよ」
一虎はいたずらっ子のように目をほそめた。
「起きれねぇ」
意図を察した千冬は「しょうがねぇ人」とぼやきながらケーキのかけらを口に含んだ。そうして、寝た状態の一虎の口に、自らの唇を押し当てた。
軽くひらかれた口に、舌でケーキを入れてやる。やわらかなスポンジもとうに常温に戻ったチョコレートソースもすぐに崩れてかたちをなくし、一虎の舌の上でまたたくまに溶けていった。誤嚥の心配はなさそうだった。
「んー、んま」
「今時のコンビニスイーツ、ほんと侮れないっスよね」
「もっと食う」
「……いや、じゃあ起きろってば」
寝たまま「あ」と大口を開ける一虎に呆れながらも、千冬はふたたびケーキを口移しで食べさせてやる。もっと、もっと、とねだられて、喉仏の上下運動を何度も見守った。そうしているうち、やがてケーキはすべてなくなっていた。
千冬はほっとしてため息をついた。
「まあ食事ではないけど、とりあえず固形物を食べれてよかったっス」
口もとについたチョコレートソースを親指の先で拭い、一切れ余ったパックに蓋を被せる。散らばった諸々を片付けるため一虎に背中を向けた時、ぐい、とシャツの裾が引っ張られた。
ふり返る――それと同時に、唇と唇とが重なっていた。チョコレートの甘ったるい匂いで鼻口がいっぱいになり、丸くなった目の視野は一虎の顔で埋まった。
梳かしていないせいで絡まった毛先が千冬の頬を、耳の輪郭をくすぐる。ふは、と息をもらして一虎は顔を離した。耳たぶにぶら下がった鈴のピアスが、りん、と涼しげな音を立てた。
「ケーキ、すげー甘かった」
「……そりゃ、ケーキっスから」
「でもうまかった。ありがとな」
そう言って一虎は笑う。まだ顔は赤く、瞳は熱っぽく潤んでいた。
「そんだけ食欲あんなら夜は夜で、ケーキ屋のケーキっスからね」
「えぇえ〜、食えっかなあ」
一虎は肩を竦めたけれど、すぐに表情を崩し、
「でもまあ、また千冬に食わせてもらえばいっか」
「あんま甘えないでください」
っていうか全然、起きれんじゃんか。ツッコミそうになったけれど、まあ、誕生日だから。少しくらいのわがままは今日だけはゆるしてあげようじゃないか。
口の周りどころか、顔じゅうが、甘くて甘くてたまらなかった。キスをしてきた一虎の唇には、チョコレートソースがくっついていた。気づいていないようだからそのままにしておくか、ベッドに戻ったらきれいに舐めとってやるか――千冬は思案しながら、中身の少ない冷蔵庫を開けた。
初出:24.0917
#ふゆとら
名残の朝(カクイザ)
NPO(最終)軸カクイザです。
ぱちりぱちりと瞬きをするたび、長い、銀色のまつげが光を弾いた。厚い雲の間あいを縫って光がイザナに降り注ぐ。その姿が、まるで天使みたいだ。と、幼い鶴蝶は思った。
両親の墓をつくっていた。両手で砂を必死にかき集めてちいさなちいさな山を、ふたつ。それをイザナが蹴散らしたのが彼との出会いで、すべてのはじまりだった。
「死んだヤツのことなんて忘れろ」
と、イザナは鶴蝶の胸倉を掴んで言い放った。平坦でつめたい声。顔にはわずかに笑みを浮かべていた。
イザナはいつ何時も大変な暴君だった。下僕である鶴蝶への扱いは特にひどく冷淡で、絵に描いたような「王」と「下僕」の主従関係であった。でも、どんなときだってイザナは鶴蝶の側にいた。イザナがいる限り、鶴蝶はひとりぼっちではなかった。
――たぶん、答えなんて出会ったときに出ていたんだよ。
成長し、すっかり大人になった現在も、イザナは鶴蝶の隣にいて、鶴蝶もまたイザナの隣にいた。カーテンを引っ張り、同時に、うっすらと露が貼りつけた窓も細くあけた。12月の、きん、と冴えた空気が部屋に滑りこんで、裸足のつまさきを冷やした。
すこしずつ空を裂いてゆく朝の光を見つめて、鶴蝶はひそやかに思う。さっきまで見つめていた、今はまだ寝室で寝ているイザナの顔。まぶたの下に隠れたあおむらさき色の瞳や、それを縁取る銀色のまつげを。
彼が誰よりも澄んでいることを、鶴蝶は知っていた。それは、まだたいした知恵も知識もついていない子どものときのことだった。直感で、わかったのだ。彼をはじめて見たあの瞬間から。底なしに澄みきった彼を、鶴蝶はほとんど反射的に、守りたいと思った。天使みたいな彼のことを、一生を賭して守ろうと決めた。
「……イザナは、どう思ってんだろうな」
「なにが?」
声がして、驚いてふり返る。視線の先に、イザナが寝巻き姿で立っていた。眠たそうにおおきなあくびをこぼしながら、鶴蝶の隣へと歩み寄る。寒ぃ、と顔を顰めて、あけたばかりの窓を乱暴に閉めた。
「窓開けんなよ、寒ぃだろ」
苛立ちがはっきりとこめられた口調だった。
「すまん。空気を入れ換えようと思って……」
「なに、ひとりでぶつぶつ言ってたんだよ?」
「え?」
鶴蝶の返事を無視して、イザナは強引に、自分のペースへと持っていく。いつものことだから今さら戸惑ったりはしない。ただ、切り出し方が唐突なので、多少驚きはするのだけれど。
「オレが、なんだって?」
「ああ、……」
先ほどまで耽っていた思考にふと戻り、鶴蝶は目を細めた。
「いや、イザナはガキのころから、ずっとオレと一緒にいてくれてるだろう?」
「気持ち悪ぃ言い方すんな」イザナはいかにも不快そうに唇をへの字に曲げる。「王に仕えんのが下僕の仕事だろが」
側にいなくてどーすんだよ、とイザナは続けた。鶴蝶は頷きながら、わらう。
「そうだな、うん。でも、オレ、うれしかったんだ。イザナがいてくれるから、オレはあれからもう、ひとりぼっちじゃあなくなった」
イザナの側にいる――それが鶴蝶の生きる意味になってから、世界が変わったのだ。
「感謝してる」
鶴蝶はイザナをまっすぐに見つめた。イザナもまた、鶴蝶を見つめかえした。あおむらさき色の瞳に鶴蝶の顔がうつり、鶴蝶の赤い瞳にイザナの顔がうつった。傷ついた自分の顔も、イザナの瞳という鏡を通せば、見つめるのは怖くなかった。
イザナが瞬きをする。銀色のまつげが光を跳ね返してきらきらと輝いた。天使みたいだな、と鶴蝶はやはり、思う。神も仏も信じちゃあいないが、天使だったら信じられる、と。実際にこうして、目の前にいるのだから。
「これからも、イザナと生きていたい」
イザナがどう思って、なにを望んでいるかはわからないけれど。すべてはオレのエゴかも知れないけれど。
ゆびで、額に落ちた前髪をはらった。イザナはふん、と鼻を鳴らした。
「すきにしろよ」
365日仕事漬けにしてやる、と不穏なことを宣うので、鶴蝶は困ったようにわらった。
元・天竺メンバーで立ち上げたNPO法人は正式に始まったばかりで、これからもっともっと大きくしていかなければならない。資金繰りだって目下の課題だ。そして片づけられていない書類の山。仕事は鬼のようにあった。
「ああ、なんでもするよ」
「言ったな? 馬車馬のように働けよ」
朝日がイザナの頬をゆっくりと染めてゆき、憎まれ口を叩く唇を金色の光がしずかになぞった。
鶴蝶はイザナの手を掴み、きつく握りしめた。つめたい手が鶴蝶の体温によって次第に熱を帯びてゆく。それは心地よい感覚だった。
ふぁああー、と一際おおきなあくびをして、イザナは傾けた頭を鶴蝶の肩に乗せた。眠ぃ。まだ寝る。ぼそぼそとつぶやいて、鶴蝶の手を引っ張る。
「せっかくの休みなんだから、つきあえよ」
言われるまま、それなりの力で寝室まで引っ張られてゆく。あいかわらず容赦がないし、人の都合もまるで考えない男だ。これから朝のランニングに行き、トレーニングに励む予定だったのだけれど、王の言うことは絶対である。鶴蝶はおとなしく、寝室のベッドに横たわった。
毛布に潜りこむと同時にイザナは寝入ってしまった。その銀髪に、そっと触った。髪の毛は呆気ないくらい、ゆびのあいだをさらさらと溢れていった。
イザナのちいさな頭をなん度も撫でながら、鶴蝶も目をとじる。眠くはなかったけれど、イザナの体温が感じられる今を逃すのは、惜しかった。
恋や、愛。そういうものに分類されるのだろうか? オレのこの、こそばゆいような、ぬるい感情は。そんなもの、すこしも知らずに生きてきた。今まで側にはイザナしかいなかったから。これが恋だろうが愛だろうが、なんでもよかった。ただ目の前にいる彼を、たいせつにしていたいと思うだけ。
この名前のない関係がいつまで続くのかはわからない。変わらないことは、彼は絶対的な王で、――そしてオレだけの天使、だということだ。こんなことを言ったら気色悪ぃと言って殴られそうだから、絶対に口にはしないけれど。
あいしてる。ふいにそんな言葉を唇に乗せようとして、やめた。やにわに薄目を開けたイザナと、視線が絡まった。彼はしばらくのあいだ鶴蝶を見て、そうして、再び目を閉じた。銀色のまつげが揺れて、震える。
鶴蝶は手の甲で口を抑えると、枕に顔を沈めた。次にイザナが起きた時には、また何事か罵られるだろうと覚悟しながら。
初出:24.1228
#カクイザ
くちなし咲いた(カクイザ)
天竺イザナと鶴蝶/愛されたいし愛したいのに、愛され方も愛し方もわからない若いふたりの、まだなにもはじまっていないかもしれない地点のおはなしです。
昨夜殴りつけられた頬は、鏡を見たら青黒く腫れていた。痛みは感じない。指の先で触れるとかすかに熱を持っていて、その熱だけが殴られた「事実」を唯一鶴蝶に突きつけた。
熱を冷ましてしまうのは惜しい気がしたが、顔を洗わないわけにはいかないのでつめたい水を両手に掬い、顔を沈めた。じいん、と痺れが走った。
イザナはすぐに手を上げる。理由はないことのほうが多い。腹が減っていた、ペットのベタがそっぽを向いた、ただなんとなく苛々していた――強いて理由をつけるのならばそんなところで、まったくもって子どもじみていた。彼はかっこうばかり大きくなった子どもなのだと、イザナに殴られるたび鶴蝶は思う。握りしめた拳や振り上げられた脚が少しの手加減もなく鶴蝶の体に食いこんで、肉が凹み、息が止まる一瞬。癇癪を起こした子どもが泣き喚く姿をイザナに重ねる。愛してほしい。子どもはそう叫んでいた。愛して。愛して。愛して。オレを愛して。喉が切れて血が出てしまうのではないかと不安になるくらいの大声で、子どもは――イザナは訴える。
だから鶴蝶はイザナの暴力を受け入れる。殴られ蹴られ踏みつけられても、その理由がどれほど理不尽であっても、イザナがそうしたいのならすきにさせた。それでイザナの癇癪がおさまり気が済むのならばいくらでも相手をした。――それ以外にイザナを宥められるすべを、年若い鶴蝶は知らなかったのだ。
まだ寝室で眠っているイザナを起こさないよう、足音を殺してキッチンに立つ。どの窓も遮光カーテンがぴっちりと閉じられて、もう朝の七時を過ぎたというのに部屋全体はうす暗かった。
キッチンの電灯をつけると手もとが白く発光した。冷蔵庫から食材を取り出して、鶴蝶はイザナのための朝食の支度を始める。ウインナーに十字の切り込みを入れて、溶いた卵液に砂糖と少しの塩を混ぜる。サラダ油を敷いて熱した卵焼き用のフラインパンに卵液を流しこんでくるくると巻き、同じ動作を三回くり返した。あっというまにふっくらと厚く膨らんだ卵焼きが出来上がる。卵焼きを皿に移し、ついでウインナーもフライパンで焼いていく。切り込みを入れた箇所に火が通ると、肉が捲れ上がってさながら蛸のような足ができた。
そんな小細工いらねぇよ、とつめたくあしらわれてしまうのは目に見えていたが、つい余計なひと手間をかけてしまう。養護施設で暮らしていたとき、朝食にときどき出てくる蛸に似たかたちのウインナーを鶴蝶はひそかに好んでいた。素っ気ない給食にそのウインナーが添えられていると、ほんのわずかにだが食卓が華やいだから。
当時もイザナは特に何の感慨もなかっただろうが、どうでもいいと一蹴されてしまうような手間ひまに幼い鶴蝶のこころが救われていたのはたしかだった。
「テメェのエゴを押しつけるんじゃねぇよ」
イザナはしばしばそう言って鶴蝶を小突いた。その通りだと思うから、反論はしない。鶴蝶がイザナのためにしていることのすべては、イザナにとっては煩わしいエゴだった。そんなことはとうにわかっていたのだ。
「オマエはオレに言われたことだけしてりゃあいーんだよ」
何度も投げつけられたイザナの声が耳の奥でくり返し響く。つめたい、怒りの感情を孕んだ声。すまない、とそのたび鶴蝶は謝った。
――でもオレは、オマエが安らげるためなら何だってしてやりたいから。
喉もとまで出かかったことばは、音にはしない。いつも。
食パンをトースターに入れると、つまみを回す前に寝室へ向かう。
ドアを開けると、イザナを包んで膨らんだタオルケットが規則的に上下する影が見え、それが彼が今朝も生きていることを鶴蝶に教えた。すうすうとくり返される呼吸の音がかすかに聞こえて、つられて、胸の奥があたたかくなる。
呼吸の気配を感じるだけで、イザナへの愛おしさで胸がいっぱいになった。それがおかしな、異常なことだとはちっとも思わない。オレにはこの人しかいないのだから。この人がオレの生きる意味と理由そのものだから。心も命も捧げている、なによりもたいせつな人なのだから。
「イザナ」
届けるつもりのない声はひとりごととなって床にこぼれた。穏やかな寝息を立てて眠るイザナを起こしてしまうのが、にわかにかわいそうに思えたのだった。
足音を忍ばせてベッドに近寄った。顎まで引き上げたタオルケットに包まれて、イザナは眠る。長いまつげがときおり震えるのは、なにか夢でも見ているのだろうか。夢の中までは鶴蝶も世話を焼きに行くことができないから、こういうときは現実世界のイザナの寝顔を、もどかしく見守るしかない。
苦しい思いやかなしい思いをしていなければいい。夢の中でくらいはせめて、屈託なく笑っていてほしい。鶴蝶が願うのはいつもいつも、イザナの幸福についてだった。
それにしても、この人はオレと共にいて幸せなのだろうか? ――不意に耳の奥で疑問が蠢いた。それはつめたい不安といっしょに背筋を登ってくる。
とてもちいさな不安の種は、いつもこころのどこかに埋まっていて鶴蝶を苛んだ。芽吹く気配を感じる前にほじくり出してしまいたかったが、心優しい鶴蝶に、果たしてそれはむつかしかった。結局いつまでもこころの底に沈めて、不安な心地が去ってゆくのをじっと待つほかなかった。
イザナの顔に自身の顔を近づけてみる。気配を察して起きるかと思ったが、イザナは変わらずに規則正しく寝息を立てている。ゆっくり、吐息を感じられるほどに距離を縮めて、唇に唇が触れる、というところで頬に鋭い熱が走り鶴蝶は身を引いた。
目の前で星が散った。比喩ではない。視界いっぱいにまたたく星に驚いていると、
「このっ、ばか!」
ベッドに横になっていたイザナが半身を起こし、寝起きとは思えない大声を上げた。
「テメェ、なに人の寝込み襲ってんだよ!」
「す、すまない、つい」
「なにが、つい、だ。ばぁか」
イザナが深いため息をつきながら起き上がり脚をベッドの淵からおろしたとき、鶴蝶はようやく、彼に思いきり頬を張られたのだとわかった。左頬がじんじんと熱く痛む。それでも昨日拳で殴られた右頬より、平手打ちされたこちら側はまだ生やさしいものに感じられた。
機嫌を損ねたようすで、イザナは足下に視線を落としている。前髪が額に落ちて、整った顔を半分隠した。
「イザナ、すまん。悪かった」
無言のイザナを宥めようと、鶴蝶はくり返し謝罪する。
「寝顔見てたら、イザナに触れたくなっちまって」
「……変態」
「すまない」
鶴蝶が正直になればなるほど、イザナは渋い顔をこしらえる。不快そうに眉を寄せて、唇を歪める。
しかし、本音を伝えることは悪いことではないと鶴蝶は信じていた。特にこの、意地っ張りで扱いのむつかしい男とは、いつも本音で向き合いたかった。
嘘ではない、ほんとうのことばを伝えたかったのだ。
「イザナ。オマエは、オレといて幸せか?」
それで、先ほどうちがわで響いた不安をくちにしてみた。イザナは「アァ?」と、不愉快そうに言った。
「自惚れんなよ」
鼻で笑い、続ける。
「下僕が王に仕えんのはあたりまえだろが」
イザナは鶴蝶をつめたく見据えた。
「オマエはオレの言うとおりにしてりゃあいいんだよ」
問いに答えるつもりはイザナにはなかった。おそらく、そんなことは考えたことすらないのだろう。
彼からは何度も同じせりふを聞かされたはずだった。ああ、そうだ、そうだったな。鶴蝶は頷く。頬を緩めると、張られた頬がわずかに痛んだ。ここにある痛みも、熱も、イザナの心からの叫びだと思うとすべて愛しい。
王と下僕。その主従関係は施設にいたころから変わらずに今も続き、もしこの関係が壊れたら、オレはもうイザナの側にはいられない。鶴蝶はそう思っていた。オレたちはずっと、このままでいい。このままでいたかった。
「朝メシ、できてるから」
それだけ告げて部屋を出ようとしたそのとき、「おい」と背中に声を投げつけられた。ふり返ると、イザナは真っすぐな視線をこちらに向けていた。感情の読めない大きな瞳の中に、鶴蝶は自分の姿を見つける。うす暗い部屋の中、廊下の照明が筋となってイザナの体を斜めに渡っていた。
「オマエは、――」
そこまで言ってイザナは息を吸い、唇を閉ざした。うん? と、鶴蝶は喉の奥で声をもらし、続きを待った。イザナは言葉を探すように中空を見つめ、やがて目を細めた。
「なんでもねぇ」
「どうした? 他になにか、気に障ったか?」
「……うっせぇな。いいよ、もう」
イザナは深いため息をついて立ち上がる。すらりとした影が床に伸び、Tシャツにスウェットのズボンを履いた姿で鶴蝶の横を通り過ぎていく。自分より小柄な、華奢にさえ見える背中を鶴蝶は慌てて追いかけた。
彼はなにを言いかけたのだろう。あまり自信のない想像力を必死に働かせたが、鶴蝶には答えを見つけられなかった。
ダイニング・テーブルの椅子に腰を下ろしたイザナの前に、出来たばかりの朝食を置く。トーストにバターを塗ったものも、ほぼ同時に。
「……こんな小細工いらねぇつってんだろ」
ぼそりとつぶやいて、イザナは蛸のかたちのウインナーにフォークを突き刺した。鶴蝶は苦笑いを浮かべる。
「施設にいたとき、たまにそういうの出てきてたろ」
「おぼえてねぇよそんなもん」
ウィンナーを口に放りこんで、咀嚼する。くだらねぇと吐き捨てながら、用意された朝食をだらだらと食べ始めるイザナに鶴蝶はひそかに喜んだ。
キッチンカウンターの向こうで、イザナの食事するようすを静かに眺めた。あまり見つめ過ぎると不機嫌になるから、使ったフライパンや皿を片づけながら、こっそりと、だ。
横浜天竺の特攻服を着ていないイザナの姿は、どこか幼くて、見ているとなにかを思い出しそうな気持ちになった。それがなにかを考えたときにすぐ、幼少のころ共に施設で過ごした時間に辿り着いた。オレたちの国をつくる、と決めたあのころのこと。雪の日にかまくらの中で身を寄せ合って話しこんだこと。
そのときに目の前にあったイザナの横顔が、今のイザナと、重なる。同じ人間なのだからあたりまえだが、おもかげというにはそれはあまりにも近すぎた。まるで十二歳のイザナが、そっくりそのまま目の前に現れたようだった。
「おい、鶴蝶」
鋭い視線が向けられて、鶴蝶はコップを拭いていた手を止めた。イザナは背もたれに体を預けた行儀の悪い姿勢で、鶴蝶を睨みつけていた。
「どうした?」
メシが不味かったのか、変なものでも入っていたのか。不安になってカウンターを回りこみ、イザナの側に寄る。イザナは目を眇めて、「オマエよぉ」と鶴蝶を見上げた。
「メシ、不味かったか?」
「オマエ、マジでガキのころのまんまだな」
「は?」
思いがけないことばに、鶴蝶は頭の上に疑問符を浮かべる。その愚鈍な反応が気に食わなかったのか、イザナは余ったウィンナーにフォークを突き刺すと、おもむろに鶴蝶の顔に近づけた。
「食えよ」
「……なんで」
「いいから」
仕方なくウィンナーを口に含む。油が舌の上に溢れて、次いで程よい塩気が口じゅうに広がった。
「うまいか?」
「……ああ、まあ」
市販品だから、と意味のない言い訳をする。
「オレのためだとか言って、くだらねぇことばっかしやがって」
歯で潰したウィンナーを飲みこんで、視線を皿に落としたイザナの横顔を鶴蝶は見た。まだカーテンを開けていない部屋の中、照明だけが淡いオレンジ色を放ちイザナの輪郭をなぞっていた。銀色の髪の毛が光を跳ね返して、ちかちかと瞬く。
「イザナのためならなんだってするさ」
鶴蝶のことばに、ハッ、とイザナは笑った。
「それがオマエの幸せか?」
「ああ、そうだ」
ためらいもなく答えてみせる。途端に、イザナの顔が歪む。
「オレはオマエのために生きてるから」
イザナが求めているもの――たとえば、愛してほしいという渇きを、オレが癒せるわけでもないけれど。
「そのためならいくらでも殴られてやる、ってか」
「ああ。イザナが望むならそうする。そうさせてほしい」
「そうかよ」
素っ気ない声音でイザナは言い、トーストの最後の切れ端を口の中に放った。小さな咀嚼音が沈黙を埋める。イザナのまなざしはテーブルの上の空になった皿に、未だ注がれていた。長いまつげが神経質そうに揺れ、鶴蝶はその微細な動きをじっと見つめた。
「オレはずっとオマエの側にいたいんだ」
こころの中で、長いあいだあたためてきた思いを口にする。鶴蝶は静かに続けた。
「イザナの側にいられるならなんだってする。オマエに命を懸けてる。ずっといっしょにいたいから」
「ウゼェなあ、それも」
「すまん。でも、ウザくてもいい」
イザナは口の端を持ち上げて鶴蝶を見上げた。「いい覚悟じゃん」と平らかな声音で言い、鶴蝶の胸倉に手を伸ばした。つよい力で引き寄せられて、にわかに顔が近づく。
「さすが、オレの下僕だよ」
青紫色の瞳の中に、鶴蝶の顔が映りこんだ。鏡のようだと思った。
唇と唇が重なる。咄嗟のことに体が強張ったが、胸倉をがっちりと掴まれていて動けなかった。獰猛ないきものが獲物に食らいつくのと同じ激しさで、イザナは鶴蝶の唇を食んだ。口の中に、かすかな血の味が広がった。
ゆっくりと顔を離されて、見るとイザナの唇が赤く染まっていた。
「イザナ、血が出てる」
慌てて指を唇に持っていったが、傷は見つけられない。イザナは、「オマエの血だよ」と笑い、人差し指で鶴蝶の唇をなぞった。絵の具のような鮮やかな赤色が、指のひらについた。ちりちりとした痺れのような痛みを唇に感じたのは、そのときだった。
舌で舐めるとたしかに血の味がした。舌先で、わずかに切れている皮ふを探り当てる。鶴蝶はほっと息をついた。
「なんだオレか。よかった」
「……オマエさあ」
イザナは呆れたようすで眉間に皺を寄せた。
「ん?」
「ああ、もういいや」
ひらひらと右手を振って、離れるように促す。もう会話をする気はないようだった。
おとなしく体を離し、ボックスティッシュを箱ごとイザナに手渡す。自らも一枚取って、唇から流れる血を拭いた。
イザナとのキスはいつも、そのたびに必ず痛みを伴った。唇という、人間の器官でも鍛えようのないとりわけ弱い場所に、イザナは容赦なく傷をつけた。鶴蝶が他人と唇を触れ合わせたのはイザナがはじめてだったが、それはキスというよりただ唇に噛みつかれているといったほうが正しいしろものだった。
血を含んだティッシュをキッチンのゴミ箱に捨てる。痛みは、けれどすぐに去ってゆく。彼が与えてくれる痛みならいつまででも抱いていたいと思うのに、少しすれば消えてなくなる儚さに、鶴蝶は不思議な心地をおぼえる。
「……イザナ、コーヒーでも飲むか?」
鶴蝶は頬をゆるめて問う。イザナがかすかに頷くのを確認して、ドリップポットに浄水を注いだ。
コンロが湯を沸かすあたたかい音で部屋が満ちていった。揺れる空気のあわいには、イザナの気配が混ざっている。オレばかりが満たされていると鶴蝶は思う。イザナにしてやれることがなにもなくて、満たしてやることもできないのなら、彼の望むとおりにすることでしか隣にはいられない。
「鶴蝶」
低い声で呼びかけられ、顔を上げた。視線をテーブルに落としたまま、イザナは唇を動かした。
「オマエは、どこにも行くなよ」
そうして、背もたれに背中を深く預けた。天を仰ぐイザナののどぼとけが上下する。唇に残った血を舐めとったのだと、鶴蝶にはわかった。
ポットがしゅんしゅんと鳴き始める中、鶴蝶はイザナのことばを脳裡でゆっくりと反芻させた。答えははなから決まっていて、それをそのまま唇から押し出した。
「あたりまえだ」
朝の冷えた空気が少しずつぬくもりを帯びてきていた。頬にあたる蒸気が心地好かった。
インスタントコーヒーの瓶を手に取り蓋を開けると、思いがけず軽やかな音が部屋に響いた。
初出:24.1010
#カクイザ
あらしの夜に(ときメモGS3/桜井琉夏(桜井兄弟))
※ご注意ください。
・この小説は、ときめきメモリアルGirl's side 3rd storyの名前変換なしの夢小説になります。
・本作品の主人公(夢主)には固定の名前があります。
・本作品の主人公(夢主)とゲーム内主人公は別の設定です。
・本作品中にゲーム内主人公は登場しません。
・人の死についての描写があります。
・冒頭の短歌は、平岡直子著『みじかい髪も長い髪も炎』収録の連作「Happy birthday」より一首引用させて頂きました。
以上のことを踏まえて、了承して頂ける方のみお読みください。
すごい雨とすごい風だよ 魂は口にくわえてきみに追いつく
/平岡直子
激しい雨と風の音がやまない。何度めかの寝返りをうって、アリスはあきらめたようにため息をついた。
目をひらくと、暗闇のなかにかすかに光る金色が見える。健康的に盛り上がった肩にさらさらと流れるそれは繊細な絹糸のようで、手を伸ばしてゆびを絡めたい気持ちにさせる。こんな嵐の夜でも、琉夏の金色の髪の毛は変わらずにそこにあって、アリスを安心させた。肩越しに反対側を向けば、琥一の左耳に付けたピアスが呼吸のたびに揺れている。仰向けの体勢で、片膝をたてて――これは、琥一の寝るときの癖だ、幼いころから変わらない――、琥一もねむっている。
アリスが桜井家に泊まるとき、琉夏、琥一、アリスは三人で川の字になって眠る。琉夏がおそらくどこからか拾ってきたのだろう厚いマットレスに身を横たえて、微妙に高さの合わないまくらに頭をのせて。 三人で眠るとき、アリスは一人で眠るときよりよく眠れた。一人で、ひとりっきりの部屋で眠るときよりも。セックスはしない。とうぜんだ。三人は友だち同士なのだから。ただ身を寄り添いあって眠るだけ。誰かが寝落ちしてしまうまで、おしゃべりをすることもある。桜井家に泊まることは何度もあったが、深夜遅くまで他愛のない話をして、笑って、そのくりかえしがアリスにはたのしくて仕方がなかった。そして琉夏、琥一にとっても、それはおなじだった。
きのうの夕方から、空はぶ厚い雲を怪しげに拡げていた。「嵐が来るかも」。暗い空を見上げながら琉夏はどこかたのしげに言った。「マジかよ、雨戸なおってねえぞ」。琥一が面倒そうにため息をつく。夕食の食器を洗っていた手をとめて、アリスはキッチンの窓から外を見た。灰色の雲、街路樹の枝がさわさわと揺れている。不穏な天気から目を逸らして、泡のついたスポンジを皿に押しつける。
夕食はいつも琥一がつくる。今夜は珍しく贅沢にビーフシチューで、肌寒い夜にそれは体を芯からあたためた。West Beachにはエアコンの設備などないため、ひと昔前の石油ストーブを置いている。それでも部屋全体が暖色系の明かりに包まれているせいか、それほど寒さはこたえない。むしろ一人暮らしのアパートのほうが寒いくらいだ、と、いつかアリスはふたりに言ったことがある。築古で家賃が安いだけが取り柄の狭いアパート。おば夫婦がアリスに与えたのは生活の基盤となるその部屋と、両親が貯めていたアリスのための貯金通帳だった。
アリスは静かに体を起こした。左右にねむっている桜井兄弟を起こさないように細心の注意を払いつつ、マットレスを降りる。
板張りの床はひどくひんやりとしていて、夕食時に部屋を覆っていたあたたかさはとうに消えていた。
サイドテーブル代わりのヴィンテージの椅子――琥一がフリーマーケットで買ってきた――に引っかけていたカーディガンを羽織り、はだしの足で床を踏む。ギシ、とかすかに音が鳴った。
キッチンに行き、電気をつけて水道水をコップに注ぐ。ほんのりと黄みがかった電球の光が、水に吸いこまれ、溶けてゆく。
一杯の水道水を、のどを鳴らして飲んだ。飲みほしても、でも胸のざわつきは消えない。わかっていたことだった。嵐が来る、と、琉夏が言ったときから、暗い空を見つめたときから、きっと今夜は眠れないだろうということは。
リビングのソファからブランケットを取って、窓辺に移動する。レースカーテンが掛かっている窓の向こうで、世界は荒れていた。窓にいくつものしずくが張りつき、滑り落ちてゆく。絶え間なく降りつづく雨と、容赦なく樹々を揺らす風。アリスはしゃがみこんで、カーテンのすきまから真っ暗な夜の闇に視線を向けた。
何を見ているわけでもなかった。ただ、ぼうっとしていたかった。頭のなかは冷静だった。かなしいくらい、ひどく。
「アリス」
どのくらいの時間が経ったのか、聞き慣れた声にふり返る。金色の髪の毛を肩に流した琉夏が、黄みがかったキッチンの灯りの中に立っていた。古い電球の光がかかると、金髪はいっそううつくしく輝いて見えた。夜だというのに。こんなにもかなしい、嵐の夜だというのに。
アリスはくちもとに笑みを浮かべて、「ごめん」と言った。
「起こしちゃった? ごめんね」
足音もなく、琉夏が近づいてくる。薄手のロングTシャツにスウェットのズボンといういでたちはいかにも寒そうで、季節に合ってなかった。「寒いっしょ。これ羽織りなよ」。アリスがブランケットを手渡すと、「うん。寒い」と言って琉夏はすなおに受け取った。声音に笑みが含まれていた。
「ごめんね、安眠妨害した」
再度謝ると、琉夏はくっと笑った。
「アリスがいなくなったら、すぐ気づくよ」
「そう」
「でもコウは寝てる。さすが」
「はは」
息を吐きだすようにして、笑う。アリスの隣に腰を下ろして、琉夏はあぐらをかいた。
「なに見てんの」
「雨」
アリスは言った。カーテンをゆび先ですこしだけ持ち上げ、
「すげえ雨。あと風」
琉夏の声には、内容とはうらはらに感情がこめられていなかった。肌がふるえて、アリスは琉夏の瞳を見上げる。琉夏の視線もまたアリスに向けられる。
「やっぱ、思いだしちゃう?」
特に遠慮のないようすで琉夏は言った。「まあね」。かすかに笑って、アリスは頷いた。
こんな嵐の夜に、アリスの両親は死んだ。
「事故だもの、しようがない」
高速を走っていた両親の車が、視界不良のためにガードレールに突っ込み、二人はそのまま、向こうの世界に行ってしまった。アリスが六歳の、秋だった。
「いやだね、台風の季節でもないのに」
窓硝子がカタカタと音を立てる。勝手口のほうの雨戸は大丈夫だろうか、と、アリスは頭の片すみで考えた。いや、大丈夫じゃないだろうな、次の週末はあのあたりの修繕作業になるだろう。
ふわっとあたたかな手のひらが、アリスの頭にふれた。そのまま、琉夏はアリスの黒く長い髪の毛を梳き、くびすじにふれ、肩を引き寄せた。鼻と鼻とが、ふれあいそうなほどに近くにある。アリスは、でも抵抗しなかった。琉夏の瞳は水をたたえたように光り、うつくしい――ひどくうつくしい瞳だ、と、思った。
「慰めてくれなくて、いいよ」
アリスはふっと息を洩らす。「どうせいつか、忘れちゃうのだろうし」。
琉夏の目がかなしげにほそめられる。
「アリスが忘れちゃったら、おばさんたちかわいそうじゃない」
「さあ……どうかな。わかんない」
「いーよ忘れなくて。忘れらんなくて」
肩を抱き寄せられ、琉夏のくびすじに頬がふれた。そのまま、惰性で体を沈めていく。琉夏からは、花のような、せっけんの匂いがした。やさしい香りだった。
キス、できそう。冷静な頭で、アリスは思った。いまにもわたし達は、キスをしてしまえそうだ。
それでもキスはしなかった。ただ、互いの体温を確かめ合うように、額と額をくっつけた。うすい皮ふごしに、硬い骨の感触。きっとその下にあるのだろう血管と、脳と、その他の臓器を想った。琉夏を、琉夏として構成している要素一つ一つがいとおしかった。
「アリス、好き」
うん、と、アリスは言った。「わたしも好きだよ」。
「じゃあ、ここに住んじゃえよ」
ほとんど本気と受け取れる声音で琉夏は言う。うん。アリスは頷く。うん、そうだね。そうできたら、どんなにいいだろうね。
「俺ら三人で、イッショに暮らそ?」
それは甘ったるい約束だった。まだ幼い、大人ではない彼らにふさわしく、チョコレート菓子みたいにくちの中で溶けていってしまうほどの、甘いあまい約束。
アリスは笑って、つられて琉夏も笑った。
「寒いだろ? ベッド行こ」
琉夏に手をひかれ、アリスはすなおに立ち上がる。窓の向こうでは雨も風も止む気配をみせない。眠れるだろうか、と不安にもなったが、眠れなかったら琉夏の寝顔を、朝までずっと見ていよう、と、そう思った。
「ルカの手、あったかい」
繋いだ手をぎゅっと握りしめてると、琉夏はくすぐったそうに笑った。
#GS3 #桜井琉夏 #桜井琥一
群青(柄丑)
※本誌の内容と矛盾したおはなしになっています。
・鰐戸兄弟の一件からさほど時間が経っていない中学時代柄丑のおはなし
・丑嶋が少年院に入っていない(鑑別所行きのち保護観察処分で帰ってきている)
上記の点をご了承いただける方のみご覧ください。
吐瀉物と排泄物の混ざり合った匂い、堆積した生ごみ、転がった酒の一升瓶、黴の浸みこんだ炬燵布団、それに足を突っこんで横たわり、鼾を掻いている寝ている老人。「臭ェーなおい」と吐き棄てるように言った丑嶋の顔を柄崎は横目で見た。鋭いまなざしが老人に注がれている。呆れと、憐みと、微かな慈悲の混ざった、複雑な視線。彼はぶら提げていたスーパーの袋を足もとに置いて、緩慢な動きでへやに入っていく。柄崎は無言のままそこに一人で立ち竦み、彼の、黒いダウンコートに包まれた背中を眺めていた。
ぶあつくて、たぶんワンサイズくらい大きなダウンコートは、今の彼のからだに合っていない。大きく見えるけれど、その実年齢相応に未成熟であることを柄崎は知っている。丑嶋に限らず、この年ごろの男子は皆んな一様に、自分のからだをすこしでも大きく見せようと、兄貴とか先輩からのお下がりを着て、擬態する。
「おいジィさん、起きろよ。炬燵で寝ンなつったろ」
丑嶋の手の甲が老人の頬を叩き、老人は煩わしそうにその手を払った。獣のような呻り声。あらゆる負の空気が沈殿したへや。
「悪い柄崎、起きねェや」
ジィさんいてもいいか? と、振り返って訊く丑嶋に、いーよべつに、おまえの親父だろと返すと、丑嶋は数秒のあいだ柄崎をみつめて、ちいさくため息をつく。
「お邪魔、します」
柄崎はスーパーの袋を持って、へやに上がった。靴下の裏に何か固いものを踏む感触があり、視線をやると硝子の破片だった。
「なんか色々落ちてっかもしんねーし、土足でいいよ」
「……そうか」
身を屈めて破片を拾う。かつてはコップか何かだったものの一部が、日あたりの悪いへやの、かろうじて差しこむ西日の茜に淡く染まった。
老人――丑嶋の父親――は、土気色の顔をして、もごもごとくちを動かし、時折り瞼を痙攣させて、けれど起きる気配はなかった。死んでるようなもの、と柄崎は心中で思う。死んでるようなもの、な人間なのに、でも人間なんだよな。息をする音がする、匂いがする、腐った果物みたいなへんな匂い。
「炬燵で寝っと死ぬみてーだけど、いつまでもくたばンねーのな」
悪態をつきながら、丑嶋は父親の上半身に押し入れから出したタオルケットをかけた。色々の浸みがついた炬燵布団とは違って、天日干しにしたばかりらしい清潔そうなタオルケットだ。
玄関から入ってすぐにある台所の流しにスーパーの袋を置くと、丑嶋は手際よく中身を取り出してそこに並べていく。豚のこま切れ肉、じゃが芋、人参、玉ねぎ、バナナ。
「いつもおまえが飯作ってンのか」
水道の蛇口を捻って、笊に入れた根菜類を洗い始める。「ああ」と気のない返事を彼はした。
「ほかにするヒトいねーから」
慣れた手つきで食事の支度をする。柄崎、飯炊いてくれと言われ、柄崎は彼の指示に従った。何合? 二……や、三合、かな。流しの下の米櫃から米を三合掬って釜に入れ、野菜を切る丑嶋の隣に並んで米を研ぐ。出の悪い水道から流れてくる水はひどくつめたい。米を研ぐなんて行為をしたのははじめてのことだった。柄崎の家では炊事洗濯などの家事はすべて母親がやってくれる。丑嶋の家には、しかし母親がいない。
「丑嶋、」
じゃがいもの芽を取る丑嶋の手もとを覘きこんで、ふいに柄崎はたずねたかった。「なんだよ」とこたえる丑嶋の、何の感情も含まれていない声。平らかで、目の前に横たわっている現実をただただ睨みつけて、すべてを認め、受け容れているのだとわかる声。
「や……、なんでもねぇ」
「なんだよ、言えよ、気になンだろ」
丑嶋が笑って柄崎の足の臑を小突く。柄崎も笑って、おどけたように身を捩った。
「悪ィ。なんでもねぇよ」
――さびしく、ねェの?
そうたずねようとして、たずねなかった己の精神に我ながら安堵をする。さすがにこの質問は、彼にとり不適切であり、まるで相応しくないと思った。
白く濁った水を、米粒を落としてしまわないよう気をつけながら棄てていく。丑嶋は既に野菜をすべて切り終わり、鍋に油を落として肉を炒め始めていた。上手いな、と感心していうと、カレーくれぇ誰だって作れんだろ、と彼らしい調子で言った。
「俺は作れねぇよ」
「ハァ? 嘘だろ」
「作れねぇよ、作ったことねーもん」
肉の炒められる音と香ばしい匂いが鼻先をくすぐる。米を炊飯器にセットしてしまうと、あとはもう柄崎の出番はなくなってしまった。どっか坐ってろよ、と言われたものの、居間には丑嶋の父親が鼾を掻いて寝ているし、どうにも居心地が悪くて、けっきょく、丑嶋の背後で野菜が煮えていくのをぼんやりとみつめることしかできなかった。
「木偶の坊だな」
「なンだと!」
丑嶋に鼻で笑われるも、事実なのだから仕方がない。そうしているうちに根菜類はやわらかく煮え、カレールーを割り入れてしまえば、やるべき支度はいよいよもって終わってしまった。
「飯、できたけど、夕飯にはまだ早ェな」
丑嶋はふりかえって柄崎を見やり、それから、居間でねむる父に視線を移した。柄崎もまた丑嶋の視線を追いかける。何事かを唸る父親のことばは聞きとることができないけれど、何か、汚い罵りの文句であることは柄崎にもわかった。それが丑嶋と、おそらくはその母に向けられたものであることも。
悪ィな、と、丑嶋がつぶやいた。その声には、柄崎を家に招いたことへの後悔の色が滲んでおり、柄崎は胸がぎゅうと痛むのを感じ慌ててかぶりを振る。
「そんなことねーよ」
食わしてもらうばっかじゃ悪ィから、と、丑嶋がにわかに柄崎を家に招んだのは、学校から帰る道すがらのことだった。きょうもうちで飯食ってけよ、と誘った柄崎に、丑嶋は逡巡したのち、「なあ。うち、来るか?」と提案したのだ。
鰐戸三蔵の一件が起こる前、柄崎はいちどだけ丑嶋の家に行ったことがあった。荒廃――ということばの似合う家で、丑嶋は父親を甲斐甲斐しく介護していた。「飯、俺が作るしかねーけど」。そうつづけた丑嶋に、柄崎は嬉しそうな顔で頷いて、ふたりは肩を並べて帰路をともにしたのだった。
丑嶋の家は、はじめて訪れた時と比べて何も変わってはいなかったけれど、はじめての時よりもショックを受けなかったのは、丑嶋が当り前に食事の支度をし、当り前に笑っていたからだった。こんな糞みてーな親父との生活、俺だったら堪えられねぇわ。心中で思ったことばはくちには出さず、でも、どんなに糞みてーでも、こいつにとっちゃ親父なんだよな。そう思いなおす。
「……狭ェけど、俺のへや、行くか」
すこしばかりの沈黙ののち、丑嶋はそう言った。へや? 柄崎が復唱するよりはやく、丑嶋は居間を通り抜けて、へやの片隅に備えつけられた木製のドアを押しあけた。
丑嶋の“へや”は、へやというより物置の様相を呈していた。広さは四畳半ほどだろうか、ベニヤの壁には透き間が目立ち、全体的に湿っぽく、灯りはない。段ボール箱ほどの大きさのちいさな机のようなものに、中学校で支給された教科書類が平積みにされている。それを開いた様子は窺えないけれど、教科書なんて柄崎もまた手に取った記憶はないから、お互い様である。
「狭ェだろ」
むきだしのつめたい床に腰を下ろした丑嶋が、ドアの前でつっ立ったままの柄崎を見あげてくちの端を持ち上げた。笑ってはいるけれど、それはけっして自嘲の笑みではなく、狭くって悪いな、という単純な苦笑いであることに柄崎も気づいていた。丑嶋は自らの境遇を自嘲したり、卑屈に思ったりするような人間ではない。現実をただただみつめて、そういうものとして受け容れている。
「ここ、おまえのへやなのか?」
柄崎はへやに足を踏み入れて、言った。
「使ってねェから、勝手にそうしてるだけ」
「狭いな」
「狭ェだろ」
そうして、ふっと笑う。照明のないへやの中はドアを開け放しても薄暗く、その表情は上手くは読みとれない。柄崎は上下左右を見廻して、へえ、とか、ほー、とか、感嘆の息を洩らした。
「ここで寝たりしてる。ジィさんといっしょには寝たくねェ」
「そうか」
カサッと音がして目をやると、“へや”の隅にはケージが置かれており、その中でうさぎが一羽、鼻をひくひくさせて突然の来訪者に怯えているようだった。
うーたん、と、丑嶋はケージの扉を開けて、うさぎを抱きかかえた。「かあさんが飼ってたうさぎ」。胡坐を掻いた膝の上に載せ、顎の下を撫でる。うーたんはほそい鳴き声を上げながら、丑嶋にゆったりと身を任せているようだった。
「おまえに懐いてンのな」
触っていいか? と、手を伸ばした柄崎に、丑嶋は、「だめ」と身を引いた。
「なンでだよ!」
「うさぎは怖がりなンだよ」
「ちょっとくれーいいだろが、ケチくせー」
「だめだっつの」
そう言う丑嶋の声はどこか弾んでいる。柄崎がこれまで聞いたことのない声だった。いつもは緊張で張りつめている丑嶋の雰囲気が、今は微かにゆるんでいる。自宅に友達を招く、という、年齢相応のことを、単純に楽しんでいるかのような彼の様子に、柄崎は胸の高鳴るのを感じた。
おそらく、丑嶋のこの“へや”に足を踏み入れたのは、自分がはじめてだ。そう思うと、多少なりとも丑嶋が自分に気を赦してくれているのだという歓びが胸に湧き、優越感でいっぱいになった。
まだ中学生とはいえ、そこそこに体格のよいふたりがへやに入れば、寝転がることもできないほどの狭さとなる。互いに胡坐を掻けば、肩の触れあう距離に丑嶋がいる。その肩に、柄崎の指先がふ、と、触れる。
「なンだよ」
うさぎを抱いたまま、視線を持ち上げた丑嶋の目は、とうめいで、ひどくきれいだった。薄暗さに慣れた目がはっきりとそれを捉え、我慢ができずに唇を寄せていた。びくんっと丑嶋の体が跳ねるのを察したけれど、やめようとは思えなかった。そのくらいには、この距離は近すぎたし、丑嶋の瞳はあまりにもうつくしかった。
触れあわせた唇は、互いにかさついていて、けれどじゅうぶんに熱を帯びており、柄崎は体の内側がカッと熱くなるのを感じた。
ん、と、咽奥で、声が洩れる。それが耳を刺激し、下半身が反応する。そンな、無防備な声、出すンじゃねーよ。ゆるく勃起した下半身を丑嶋のせいにする自分を矮小に思う。
顔を離すと、薄闇にもわかるほどに丑嶋の顔はまっ赤に染まり、驚きで目がまるくなっている。
「柄崎、テメ、」
何すンだ、と言いかけるくちを再度塞ぎ、舌で唇を舐めると、固く閉ざされていた唇は呆気なくひらき、口腔が舌を招き入れた。触れるだけではない、おとながするような深いくちづけは、丑嶋にとってはもちろん、柄崎にとってもはじめてのものだった。奥へ奥へと忍ばせれば、いつしか丑嶋の手が柄崎の二の腕を掴み、ぎゅうとちからがこめられる。それが、拒絶なのか強請りなのかはわからない。いずれにせよ、普段は感じられない丑嶋の唇の感触に昂奮を煽られていることだけはたしかだった。
唇を離す、至近距離に丑嶋の顔がある、生ぬるい吐息が頬を撫でる、丑嶋、と、掠れた声が咽の奥からこぼれる。
「……悪ィ」
「は?」
丑嶋の両肩を掴み、柄崎は顔を俯けた。なンで俺なんかをうちに招んだンだよ。こーいうことされるって、思わなかったのかよ。心中で渦まくことばと欲が、とまらない。丑嶋の腕の中にいるうさぎが、怯えた目で柄崎を見ていた。まるで責められているかのようで、柄崎は丑嶋から手を、離した。
ため息を一つ、吐き出す。
「何をしねぇつもりだったのに」
悪ィ、丑嶋。そう言って、くるしげに顔を歪める。
「なんかおまえ見てたら、やっぱ、だめだわ」
何もせずにはいられない、と、柄崎は欲と罪悪感とが入り混じる胸のうちから、ことばを吐き出す。
伝えた想いは、友情を疾うに越えた、恋慕からのものだった。すくなくとも、柄崎にとってはそうだった。こいつに一生を捧げたいと心から思った。それから、自分のものにしたい、と。
その時、丑嶋からのこたえはなかったけれど、今、こうして想い人が目の前にいる事実を柄崎は単純に歓び、自分を避けずにいてくれている丑嶋にたいして、真っすぐな愛情を伝えたかった。そのつもりだった。
「柄崎おまえ、俺とセックスしてぇの」
「え?!」
丑嶋があくまで平らかな口調で問うため、柄崎は驚いて顔を上げた。真っすぐにこちらを見やるまなざしは、情欲のかけらもなく、変わらずにきれいで、ああ、きれいだな、と、柄崎は沸騰している頭の片隅で、思う。
丑嶋は、きれいだ。心のそこからそう思う。彼が柄崎と加納を庇って鑑別所へ行くことになった時も、彼はその事実から目を背けることはせず、ただありのままの現実を睨みつけ、受け容れて、ただ一人罰を受けた。その心根のうつくしさに、柄崎は惚れたのだ。
「……や、てゆーか、なんか」
「なンだよ」
きゅう、と、丑嶋の腕の中でうさぎが鳴く。うさぎってきゅうきゅうって鳴くんだな、などとどうでもよいことを考えるのは、現実逃避をしたい時の柄崎の癖である。真っすぐに見つめてくる丑嶋にたいし、伝えたい気持ちを上手くことばにできず、現実逃避をする自分が、恥ずかしい存在に思える。柄崎はいちど、つよく目を瞑り、そうして、彼の瞳を見つめかえした。
「なんか、おまえ見てっと、おまえのために何かしてやりてーって、思うンだよ」
キスやセックスが、丑嶋のやすらぎになるのなら、いくらでもしてやりたかった。今、それをしてしまうのは、しかしけっして丑嶋のためではなく、柄崎本人の欲を満たしたいがためのもので、柄崎にはその自覚があった。だから、してーけど、しねぇ。できねぇ。
「……なンだ、それ」
鼻で笑い、丑嶋は唇を斜めにする。納得のいかないといいたげな、柄崎を小ばかにしているような、曖昧な表情だった。
「ってゆーか、丑嶋は、俺とヤりてぇの?」
「ヤりたくねぇな」
「即答かよ……」
わかっていたことではあるけれど、さすがにショックだった。柄崎は肩を下げ、丑嶋の腕に抱かれるうさぎに視線を落とした。こいつは丑嶋に抱かれて、いいよなあ。
その時、ふ、と右手の先が何かあたたかいものに触れ、柄崎はハッとして目を凝らした。丑嶋の右手が、柄崎の指先を掴んでいる。彼は視線を柄崎に向けたまま、緩慢な動きで指を絡めてきた。節ばった指だ、女のものとはまるでちがう。女と手を繋いだ経験などあまりないにも関わらず、靄のかかった頭でそんなことを思う。固い、つめたく湿った指が、そろそろと肌を這う、その感触が、ひどく気持ちよい。萎えることのない下半身が再び硬度を増す。
丑嶋は無言を貫いている。それを、ずるい、と、柄崎は思う。せめて、何事かを言ってほしかった。薄暗がりの中、探るようにして手を繋ぎ、これではまるでほんとうの恋人同士みたいだ。勃起させたていで矛盾しているけれど、顔が熱くてたまらない。見れば、丑嶋の耳の先もほんのりと赤く染まっている。
丑嶋の体が動き、うさぎを抱えたまま、彼は膝を立てるかたちに坐りなおした。立てた膝に額を載せ、顔が、柄崎の視線から逃れるように背けられる。
おい、ずりィよ、と、柄崎はふたたび、思った。どうしろってンだよ、俺は。このまま、おっ勃てたまま、どーしろってンだ。
繋いだ手を外すことは、しかし柄崎にはできなかった。逃げてトイレに駆けこむことも、おそらく丑嶋は赦してはくれない。
「……おい。俺、勃ってンだけど」
「きもい」
言いつつも、丑嶋もまた手を離すわけでもなく、薄く開いた瞼ごしに柄崎を睨みつけた。丑嶋の行動とことばが伴っていないことへの苛立ちをおぼえたけれど、だからといって何かが変わるわけでもなく、ふたりは手を繋いだまま、薄暗いへやの中で押し黙るしかなかった。
居間からは相変わらず、丑嶋の父親の汚い罵りの文句が漂い、腐敗臭は、ドアからにじり寄ってきていた。ドアを閉めたら――柄崎は思い、けれどそんなことをしたらいよいよもって自分が何をするかわかったものではなく、できなかった。
うしじま、と、柄崎はからからに渇いたくちを開いた。
「キスしちまって、ごめんな」
言いたかったことばを、吐き出す。
「やっぱり俺、おまえに何かしてやりたかったンだよ」
キスが、今の柄崎にでき得る唯一の愛情表現だった。それ以上のことは、もう、求められない。でもせめてキスだけ、それでおまえが癒されるなんて思っちゃいねぇけど。でも、殴らなかったのは、うさぎを抱いてるからってだけじゃなくて、そんなに、厭じゃなかったから、なんだって、思っていいか? そのくれー自惚れても、いいか? 今だってこうして、手を繋いでくれて、きもいとか言いながら、触れるのを赦してくれて。俺のこと、避けてはいないって思って、いいよな。
「べつに、なンも要らねェーよ」
丑嶋は感情のこもっていない調子でそう言い、柄崎の手を握る右手にちからをこめた。丑嶋のほうからこうして触れてきたのは、はじめてのことだ。柄崎は握られた手にちからをこめかえし、指先で遠慮がちに皮膚を撫でた。こちらを向こうとしない丑嶋の、赤くなった耳の先を見つめて、ああもう、何も要らねェ、と、柄崎は思った。
#柄丑
2010年頃からの作品保管庫です。
【目次】
東京卍リベンジャーズ
リプライズ(ばじふゆ)
no title(ベンワカ)
うれしくてここまで/tiny tiny(ふゆとら/ばじとら)かげろう(千冬と場地と一虎)
かげふみ(とらふゆ)甘くない(とらふゆ)
Merci mille fois(ふゆとら)こぼれてしまうよ(ふゆとら)
こりないやつ(カクイザ)
名残の朝(カクイザ)くちなし咲いた(カクイザ)
ハイキュー!!
日向と研磨(研日)
先へ(影菅)さよなら、ブルー(影菅)甘く咬んで、召しませ(影菅)
うばら(影菅)あたためてやるよ(影菅)
影菅の日2018(影菅)
闇金ウシジマくん
これでよかったね(戌丑)夏のせいにしといてください(戌丑)
フィクション≒ノンフィクション(柄丑*R-18)
ありがとさよならあまい夢(柄丑)いくつかの朝(柄丑)
ことばなんていらない(柄丑)幸せになるってこと(柄丑*R-18)
群青(柄丑)
A3!
パンとチーズと目玉焼き(万紬)神さまより優しい(万紬)いつかの夜に攫って(万紬)
わたしの尊きすべてのもの(瑠璃川幸)
落乱
在りし日のうた(きり丸と乱太郎)雨の檻(土井先生と利吉さん)幼い心(きり丸と土井先生)
サイボーグ009
ガーネット(ジョーとジェット)everlasting is(not) over(ハインリヒとジョー)
ROOKIES
いまこんなにも切ないのに(新岡)誰も知らない(新岡)
JOGIO
安全地帯(フーナラ)
その他
あらしの夜に(ときメモGS3/桜井琉夏(桜井兄弟))
#目次