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No.30
A3!
いつかの夜に攫って(万紬)
その日は、朝から寮全体が賑やかだった。監督はカレーの仕込みに気合いを入れていたし、臣くんもキッチンに入り浸りで、手伝いをするという太一くんと一緒になってパーティで出すメインディッシュからデザートまでのフルコースについてあれこれと相談をしていた。夏組の子たちは部屋の飾りつけに一生懸命になっていたし、春組メンバーもそれを手伝いつつ、各々渡すプレゼントの話を交換しあっていた。冬組は買い出しに駆りだされ、丞の車で街なかのデパートまで良質な食材や飾りつけに必要な品の購入に奔走していた。
これだけ人員がいれば、パーティの準備は着々と進む。本番はちょうど土曜日ということもあり、朝いちばんにクラッカーを鳴らすという段取りはもう決めてある。計画を立て、団員全員が協力をしあって作り上げるパーティというイベントそのものに、みんなが浮き足立ち、楽しんでいるようだった。
「紬、買い出しはさっきので最後か?」
部屋に飾る花を摘むために中庭に出ていた俺の背中に、丞が声をかけた。
「ああ、だいたい揃ったって幸ちゃんからお赦しを頂いたよ」
「そうか。……ずいぶん、色々凝ってるな」
「椋くんの時もそうだったじゃない。丞の誕生日も、期待していいんじゃない?」
俺が笑うと、丞は苦笑して、「そうだな」と言った。こういう行事にはあまり積極的でない丞も、この空気にあてられてどこか楽しそうだ。俺にはそれがとても嬉しく思った。
――あしたは、万里くんの誕生日だ。
ぷつ、と、鋏でコスモスの花を切り取って、陽に花びらを透かしてみる。赤紫の花びらが陽差しを透かして、うつくしいグラデーションをつくる。万里くんを想う時、どういうわけか自然とコスモスの花を思いだすのだった。時期的にそうだからというだけではない、秋桜という名前を持つこの花そのものが、万里くんに似ている気がした。つつましやかで、けれど華やかで、秋を代表する花。誰の目をも奪い、きれいだ、うつくしいな、秋が来たんだと思わせるこの花を、俺は万里くんに出逢ってからよりすきになった。万里くんに似ているから、見ていると、いつでも万里くんを思いだせるから。
切り花だから日持ちはしない。きっとあすいっぱいでだめになってしまう儚い花を、丁寧に抱えて俺は立ち上がる。首筋を秋風が通り抜け、俺はその匂いを嗅ぐために、すん、と鼻を鳴らした。
「サプライズとかいう概念ガン無視かよ」
帰宅した万里くんは、談話室に入ってくるなりそう言った。そこここにパーティの雰囲気が醸し出されている談話室には、お祝いを隠すという気配はまるでなく、それでもあくまでふだん通りを装って夕食の席に万里くんを促した。
「七時まで帰ってくんなっつーから出てったのに、意味なくねこれ。本番はあしただろ?」
「だって万ちゃん、あしたは朝イチからお祝いっスからね! 今のうちに色々準備しとかないとなんスよ!」
「ばか太一、シッ!」
太一くんのくちを綴くんが慌てて抑えるも、時すでに遅い。朝イチ、とくちの中で反芻させて、万里くんはへっと笑った。
「何、何してくれんの?」
「いやいや、なんでもないぞ。よし、飯にしよう!」
臣くんが温めたミネストローネをスープ皿によそいながら、誤魔化しきれていない誤魔化しをするので、あす朝のサプライズ――あくまで、サプライズだ――はますますぐだぐだになった。
どれだけ隠そうとしても、万里くんは聡いから、団員たちが何かを計画していることなんてずいぶん前から知っていた。あいつらなんかこそこそやってんだよなー、と、以前、俺に笑いながら言い、俺も俺で、万里くんがすべてに気づいていることを知っていたから、「万里くんの誕生日パーティの計画だよ」と洩らしたのだった。ぐだぐだの一因は、だから、俺にもある。
その話をした時、俺たちはホテルのベッドの上にいた。
紬さん紬さん、と子どものようになんども名前を呼ばれ、手を伸ばされてからだのあちこちを触られて、たくさんのキスをされたあと、彼は熱を孕んだからだをベッドのシーツに横たえて、そう言ったのだった。
寝転がった万里くんはねむそうで、いくどか欠伸を洩らしながら、それでも俺のからだに巻きつけた腕はほどかずに、額をすり寄せてきた。その様子がほんとうにただの子どもといった態で、あまりにも可愛らしかったので、彼のくちから誕生日という単語が出た時、ばくぜんと、ああそうか、この子は、一つ年をとるのか、という当たり前の事実に軽い眩暈をおぼえた。目のまえの子どもが、一つ年を重ねて大人になるということが、どうにも信じられないような、そんな気がしたのだった。
「万里くん、十八歳になるんだね」
万里くんの頭を撫でながら言えば、そーっすよ、と彼は呟く。
「大人の階段を上がるわけだ」
「……十八とか、あんたにしたらまだまだガキでしょ」
どこか不貞腐れたように言う万里くんの額に指を滑らせる。彼のコンプレックスは、七歳という俺との年齢差だ。彼はそこにこだわっているようで、いつも、何かといえばそれをくちにする。そのたびに俺は、だいじょうぶなのに、と、先を導く大人としては最低なことを思うのだった。
薄暗いホテルの天井を仰いで、俺は、誕生日プレゼントをまだ用意していないことを思いだす。用意していないというより、何をあげれば万里くんが満足するのかさっぱりわからず、かといって本人に訊くのも躊躇われて、今までずるずると抱えていた。
パーティについてバラしてしまった勢いで、俺は問うた。
「ねぇ、何か欲しいものある?」
万里くんは、んん、と呻いて、身を俺に寄せた。
「紬さん」
「そういうのじゃなくて」
彼がそう言うだろうことは予想していたので、すこしおかしく思いながら俺は万里くんの髪を梳く。
「そうじゃなくてさ。誕生日プレゼント」
「だから、紬さんがいいって」
「それはなしで」
だって、そうしたら俺も得しちゃうでしょ。俺がそう言えば、万里くんは息を洩らして、
「思い浮かばねぇんだけど」
「何でもいいよ。万里くんのお願い、何でもきくよ。俺以外で、具体的に」
「具体的て……、」
じゃあ、と万里くんは言った。
「また一緒に茶ァしに行きません? それが俺へのプレゼント」
「え?」
俺の目がまるくなるのを見て、万里くんはちいさく吹き出した。
「何、その反応」
「いや……、だって、それだけ? それだけでいいの?」
勝手に物質的なもの――ブランド物の財布とか、バッグとか、靴とか、――をくちにするかと思っていた俺は驚いてそう問えば、「俺どんだけ強欲だと思われてんだよ」と笑いながら唇を尖らせる。その仕草がおさなくて可愛くて、俺もまた笑った。
そうか、お茶か。ついこの前も万里くんが見つけてきたカフェにふたりで行ったばかりだったけれど、そうか、そういうのでいいのか。そういうのもプレゼントになるのか。俺は万里くんの心根にどこかホッとして、そうして、くちもとを緩めた。
「じゃあ、雰囲気のいいカフェ探しておくね」
「ん。楽しみにしてるわ」
けっきょく、ただデートの約束をしたようなかたちになってしまったけれど、万里くんが満足そうにふにゃりと笑うので、これでいいのか、と俺は思った。
年下の恋人は、俺の背中に腕を廻して、髪の毛に鼻を埋めると、やがてすう、と寝息を立て始めた。抱きしめてくる腕のつよさが嬉しくて、抱きしめかえすように俺も彼のからだに手を伸ばす。指のひらが滑る肌の湿度が、温度が、泣きたいくらいに心地好かった。
パーティについての言及は、夕食の席では禁止になった。それぞれ、敢えてその話題を避けつつ、ふだん通りに他愛のない会話をしながら賑やかに食事を終え、臣くんの淹れてくれた食後のお茶を飲み、やがて席を立っていく。
俺は時計を見あげ、さて、と心の中で呟いた。時間は夜の八時近く、きょうは稽古もなく、みんなはこれから風呂に入り、金曜日夜の自由時間を満喫しようとしている。幸ちゃんだけがまだ何かを考えている様子で、夏組を招集していた。
ソファに坐って携帯を弄っている万里くんに声を掛けようとして、やめた。その代わり、俺は自室に戻って、携帯を取りだす。LIME画面を呼び出して万里くんのアイコンをタップし、たどたどしい運びで文字を打っていく。
『ばんりくん、』
変換を忘れて送ってしまったけれど、返信はすぐに来た。
『はいー』
液晶に表示されたデータ越しの文字さえ愛おしくて、自然とくちもとが綻んだ。俺は指を滑らせる。
『ちょっと今から、外に出れない?』
『いーっすよ、コンビニ?』
そうじゃないよ、と俺は心の中で呟く。そうして、違うよ、あの約束おぼえてる? と返信した。
すこししてから返信があった。
『カフェ?』
『そう。今から行けないかな?』
『今からっすか? やってんの?』
だいじょうぶ、と打って、俺は万里くんに先に玄関で待っている旨を伝えた。準備ができたらおいで。そう返信をして。
いつものロングTシャツに軽めのジャケットを羽織り、財布と携帯だけを入れた鞄を持って俺は部屋を出た。
「あれ、紬さん、コンビニですか」
廊下ですれ違った臣くんに笑われたけれど、俺は曖昧に首を振るだけで、答えなかった。ごめんね、秘密なんだ、と、心中で謝りつつ。
玄関で待っていると万里くんはすぐにやって来た。すこし怪訝そうな顔をして、けれどどこか浮き浮きしているのを表情に忍ばせて、「この時間からカフェとか、なんかテンション上がるわ」などと笑う。
「うん、すごくいいところ見つけたんだ」
ドアをそっと開けて外に出ると、すっかり秋のそれに変わった空気が俺たちを包んだ。中庭のほうから虫の声が聞こえ、うっわ、めっちゃ秋、と隣で万里くんが言う。
「夏、あっという間だったね」
「なんか、ことしの夏は濃かったわ」
「それは、楽しかったってこと?」
俺が言えば、万里くんは髪の毛を掻きながら、あー、まあ、ともごもごと言った。すなおに楽しかった、と言わないところが万里くんらしいと思った。
鼻先を掠めていく匂いを吸いこむと、秋で肺がいっぱいになった。道路に出、駅のほうに向かって歩きだす俺を、万里くんは何も言わずにおとなしくついてくる。どこまで行くのかとか、どういうカフェなのかとか、そんなことも訊かない。俺も、だから特に何も言わずに、ゆっくりとしたペースで歩いていく。
道路を走る車も、仕事帰りらしい通行人も、この時間帯にはすっかりすくなくなっていた。それでもたまに通り過ぎていくそれらは、みんな足早で、忙しそうだった。呑気そうに歩く俺たちとはまるで違う。
ふっと指先にあたたかさを感じて、視線を落とせば、万里くんの指が俺の手を握っていた。ほそくしなやかな指が俺の指に絡み、手の甲を撫で、優しく包む。あたたかい、と思った。それで、そうくちにすれば、「紬さんが体温低いんだよ」と万里くんは笑った。
手を繋いだり、キスをしたり、セックスをしたりといった行為が、万里くんとのあいだで当たり前になったのは、夏の始まるすこし前だ。はじめて手を繋いで歩いた時、往来は湿気でじめじめとしていて、互いの肌も僅かに汗で湿っていて、俺は彼が気持ち悪いと思わないかひやひやしていた。彼は、けれど何も言わず、つよく俺の手を握って離さないでいてくれた。じんわりとあたためられていく手が、ありがたくて、心地好くて、嬉しかった。
「今、何時かわかる?」
万里くんはポケットに入れた携帯を一瞥し、「十時、ちょい前」と言った。
「そこのカフェね、開店が十九時で、閉店が夜中の三時なんだ」
「それ、カフェっつーかスナック的な?」
「万里くん、スナックなんてことば知ってるんだ」
俺は笑った。そして、首を振る。
「ライブラリーカフェ。夜限定のね。古書がたくさん置いてあって、仕事帰りの人とか、学生とかの常連さんがけっこういて、でもすごく静かですてきなカフェなんだ」
「へー、すげぇな」
万里くんをつれていくのならそこだと、約束をした時から考えていた。すこし前に一人で入った時、出された深淹りのコーヒーを飲みながら古い戯曲を読んでいたら、あっという間に時間が過ぎ、気がつけば二十三時を過ぎていた。
秋のはいりくちのこんな夜に、万里くんと行くことができたら、と、約束をしたあの夜に考えて、それだけで胸が騒いだ。
「ちょっと距離あるけど、歩ける?」
「よゆ〜っすよ。紬さんこそ、だいじょうぶなんすか」
「俺だってへいき、このくらい」
そうして笑いあう、この時間があまりにも尊かった。あと二時間ほどですこし大人になる彼と歩く今という時間は、もう二度と来ない。それを思うと、心臓がきゅっと音を立てた。
「……嘘」
ゆっくりとしたペースで歩き、辿り着いた目的の店の前で、俺は茫然と立ち竦んだ。唇から自然とこぼれ落ちた声に、堪えきれずに万里くんが吹き出して大笑いしている。ぜんぜん笑いごとじゃないのに。ずっと繋いでいた手を離して、よろよろとドアに近づく。“臨時休業 9/9〜9/14”の貼り紙は、俺が近づいたところで何も変わることはなく、じっと暗闇の中に佇んでいた。
「臨時休業……? そんなの、ぜんぜん告知してなかったのに……」
ひとりごちる俺の隣で、万里くんはお腹を抱えて笑いこける。息をするのもくるしそうに、ひいひいと。
「うけっ、ウケる……っ! やべぇ紬さん……っ!」
「もう! 笑いごとじゃないよ?!」
俺の声が、夜の更けた道路に虚しく響いた。
こんなことになるとは、まさか、思ってもいなかった。一駅分ほどを歩き、商店街をずいぶんと逸れたところに店はあった。狭い路地のあいまにひっそりと建つ家屋風の店は、一見すればカフェとは気づかないほどのつつましやかさでそこに存在している。ふつうの家のような佇まいは、うっかりすれば通り過ぎてしまいそうだ。俺も、はじめてこの店を見つけた時は、家なのか店なのかわからず、けれど“open”と書かれた看板が揺れていたために入ることができた。今夜は、その看板がない。ドアの磨り硝子に貼られた紙に、店主の書いたと思われる“臨時休業”の文字が躍っているだけで、店は、店として機能していなかった。
頭の中がすうっと冷えていく感覚に陥り、俺は軽いパニックを起こしかけていた。
どうしよう、せっかくここまで歩いてきたのに。万里くんを連れて来たかったのに。万里くんとここで、コーヒーを飲んで他愛のない話をしたかったのに。約束をしたのに。
ぐるぐると頭を駆け巡ることばに足もとがふらつく。その時、ようやく笑いが引っこんだ万里くんがぎゅ、と手を握った。紬さん、と、彼は言った。
「ごめん……」
何とかそれだけをくちにした俺の声は、みっともなく震えていて、動揺を隠しきれていない。万里くんを心配させると思うけれど、取り繕う余裕もなく、黙って彼から目を逸らした。
「悪い、笑いすぎた。すんません」
万里くんの声音は落ち着いていて、俺を宥めるような響きを孕んでいた。俺はため息をつき、
「ううん、それはいいんだ、いや、よくないけど……よくないっていうか、なんていうか、」
ああ、と咽の奥から声があふれる。やってしまった、失敗した、どうしよう。歩かせておいて、こんな。しかもさっきっから上手くしゃべれていないし、恰好悪いにもほどがある。
あしたは万里くんの誕生日なのに。
「はーっ、笑った」万里くんは笑いの残滓を吐き出しながら、貼り紙を指先でつつく。「しかしこーゆーことまじであんだな、久々にこんな笑ったわ」
「……ほんとうに申し訳ない……」
「謝んないでくださいよ、ウケたし。ま、こんなこともあるってことで」
俺の肘をつついて笑う万里くんの顔が、夜闇に慣れた目が捉える。眉を下げて、いつもと変わらない調子でへらへらと笑う彼は、何とかこの場を、というか、俺を、立て直そうとしてくれているようだった。俺は深いため息をひとつ、ついて、「どうしよう」と呟いた。
「どーしようもこうしようも、やってねんなら帰るしかなくね?」
「そうなんだけど、プレゼント、が……」
「そんなん、いーって。今度開いてる日にまた連れてってよ」
万里くんの言うとおりだった。きょうのところは帰るしかない。考えてみても、この時間にやっている店なんて、それこそスナックとか、居酒屋しかない。仕方ないか、とまたこうべを垂れかけた俺の腕を、にわかに万里くんが掴んだ。
「万里くん?」
「帰る前にちょっとコンビニ寄ってかね? 休憩したいわ」
携帯で時間を見ると、もう夜の二十三時を廻っている。歩きつづけた疲れが今さらのように訪れて、俺は頷いた。
来た道を引きかえしながら、コンビニを探した。深くなっていく夜に、町は静まりかえり、歩いているのは俺たちだけだった。来た時とは逆に、万里くんが俺を連れていくようなかたちで歩いていると、自然と繋いだ手にちからが入り、万里くんのからだに自分のからだを添わせるかたちになる。歩きにくいかな、と思いからだを離そうとすれば、「いいから」と万里くんが腕を引っ張ったので、そのままにしておいた。
路地を抜け、商店の並ぶアーケードを歩いていく。どこもシャッターが下り、けれどどこかから笑い声も聞こえてくるので、お酒の飲める店がここからは見えない場所にあるのだろうとわかる。俺はあまりお酒が得意ではないから、そういう店についてはあかるくない。
ふと、万里くんがはたちになったら、と考えた。
彼がお酒を飲めるようになったら、その時、自分は彼の隣にいるのだろうか。今のように、手を繋いで歩いたり、キスをしたり、セックスをしたりすることができているのだろうか、と。
万里くんがはたちになる日。二年後の、あした。
「なに考えてんの?」
ふっと頭上から声がかかり、俺は視線をあげた。斜め上には万里くんの顔があり、唇があり、鼻があり、目があり、眉毛がある。この子はほんとうに、きれいな顔をしているな。見つめるたびにそう思う顔が、当たり前に今夜も、目のまえにある。
俺は、うん、と咽を鳴らして、
「万里くんがはたちになった時のこと」
すなおにそう答えた。
「ハタチ?」
「そう。二年後の、あしたのこと」
未来のことなど、考えたところでどうしようもない。万里くんはきっとそう言う気がした。彼は、けれど低い声で、ハタチねぇ、と呟いただけだった。
「あんまり、実感ないかな」
自分はどうだったろうと思いかえして、あまり記憶がないことに気がついた。大学で、丞と一緒に芝居に熱中していた記憶しかなくて、はたちになった時のことを、詳細に憶えていなかった。
「実感ないっつーか、どうでもいい、っつーか」
「あはは、言うと思った」
「はたちになっても、俺と紬さんの歳の差は変わんねーし」
また年齢の差についてくちに出した万里くんは、前方を向き直り、そして、「ああ、ほらコンビニ」と指を差す。示す先に、煌々とあかるいコンビニの光が見え、俺はホッとして息をつく。
完璧に漂白された光に導かれるように店内の自動ドアを潜り、品物を物色した。万里くんがショーケースに並んだファストフードに目を奪われていたので、「食べたいなら、奢らせて」と言うと、彼は、じゃあアメリカンドッグで、と笑った。
アメリカンドッグとホットコーヒーを二つ注文し、機械的な動きで会計をする店員から商品を受けとる。
店内には若い男が一人いるだけで、他にお客はいない。俺たちが店を出ると、レジの中で店員が退屈そうに欠伸をこぼしている姿が見えた。
「紬さん、あざっす」
手渡したアメリカンドッグに齧りつきながら、万里くんは言った。
「きょうはごめんね、ほんとうに」
申し訳なさが胸に湧き、再び謝ると、万里くんは首を振った。
「それはもういいって!」
「でも、」
「それよりコーヒー、冷めちゃいますよ」
促されて、コーヒーを啜る。店で出される味に引けをとらない、美味しいコーヒーだ。
「……美味しい」
思わず呟けば、万里くんもひとくち啜った。
「さいきんのコンビニのコーヒー、あなどれないっすよね」
「うん、ちゃんと挽いた豆を使ってるところがすごいよね」
「これで百円とか」
自動ドアからすこし離れた場所で、しばらくふたりで黙ってコーヒーを飲んだ。万里くんはその場にしゃがみこみ、その様はいかにもヤンキー、といった風情で、すこしおかしかった。
「なに笑ってんすか」
「ううん……、なんでも」
「深夜のコンビニ、似合ってるとか?」
「えっ、なんでわかったの」
「紬さんの考えてることなんてわかるっつーの」
へっと笑う万里くんの横顔は、コンビニから洩れる光に照らされて、いつもより白っぽく見える。俺も、彼からはそう見えるのだろうか。立っているのが恥ずかしくなって、俺も隣に坐りこめば、「紬さんもヤンキーじゃん」と万里くんは笑った。
「っていうか深夜にコンビニ徘徊してる人のほうがよっぽどヤンキーじゃね」
「成人男性にヤンキーなんてことば使わないよ」
「ヤンキーって未成年専用なの?」
「さあ……わからないけれど」
たしかに、俺が深夜にコンビニをうろついていたところで、誰も何も言わない。俺がもう二十四歳の大人だからだ。けれど、たとえば万里くんや十座くんが夜中にコンビニにたまっていたら、きっと店員が警察に連絡するだろう。たとえ何も悪いことはしていなくとも。
俺たちの差、というのは、つまりはそういうことなのだ。
ぼうっと空を見あげると、薄い雲に覆われた夜空がそこにはあった。今夜はあいにく、月も星も見えない空模様だ。あしたの天気はどうだったか。天気予報では、秋晴れとは言えないものの、雨が降るという予報はしていなかったように記憶している。
「……紬さん、さあ」
とうとつに、万里くんがくちを開いて、俺は彼を見やった。膝を開いた、いわゆるヤンキー坐りをした態で、彼は両腕を膝の頭に載せ、俺を下から覗くように見つめていた。
「なぁに、万里くん」
すこしだけ首を傾げて応えると、万里くんは何かを考えるように目を眇め、ことばを選びながら、唇を動かした。
「さっき、俺がはたちになったら、とか、言ってたじゃん」
「……ん? うん」
「あれ、どうでもいいとか言ったけど、そんなどうでもよく思ってるわけじゃなくて。ほんとは、」
うん、と俺は頷いた。
「カンパニーで芝居やって、それがどんどん面白くなってきて、しょうじきこんだけハマるとか思ってなくて」
ひとりごとのような口調で、万里くんは話をする。俺はコーヒーの入った紙カップにくちをつけながら、彼の声に耳を傾けた。
「たぶんハタチんなっても俺、芝居はやってんだと思う。っていうか、やっててぇって思う」
「うん」
「二年後だろーが十年後だろーが、ずっと芝居つづけてさ。今の連中といっしょに」
彼の演劇にたいする情熱が日増しにつよくなっていっていることに、俺も、監督も、他のメンバーも気づいていた。一つひとつの稽古が、きのうよりきょう、きょうよりあした、丁寧に、繊細に、慎重に、けれど大胆になっていき、あの左京さんですら目を見張る時がある。まるでそんなことはない、という顔をして、演劇を心から楽しみ、愛してくれていることが、俺はとても嬉しかったし、彼の成長に心臓が高鳴るのだった。
「ハタチんなった俺、とか、まあ考えたってしょうがねぇってのはあるけど、すくなくとも紬さんの隣には立ってんだろーなとは思うし」
「え?」
彼のことばに驚いて目を見開くと、万里くんは俺の顔を見て、「なんだよ、その反応」とくちの端を持ち上げた。
「俺が隣にいたら、だめ?」
「そっ、そんなわけないよ!」
心を見透かされたかと思った。頬が熱くなっていくのを自覚して俯けば、万里くんの手が俺の肩に廻り、にわかにからだを抱き寄せられた。
万里くんの匂いがする。いつもの、香水の匂い。
ねぇ紬さん。声が耳をくすぐってこそばゆい。
「きょうプレゼントもらい損ねた分、お願いしていい?」
語尾を持ち上げて、あまったるい声音を作る。おねだりをする時、彼はよくよくこの声を使った。この声で頼まれると俺が断れないと知りながら、敢えて訊いてくる彼をずるいと思う。ずるくて、愛おしくて、たまらない。
俺が頷くのを見て、万里くんはいちど息を吸い、それから言った。
「“俺とずっといっしょにいてください”」
肩に廻された手に触れると、ひどく熱かった。万里くんの顔を見やれば、コンビニの光を斜めに受けたその表情はせつなそうに笑っていて、おさなさと、可愛らしさと、そしてすこしだけ、大人の色を帯びていた。
――ああ、大人になっていく、
あたたかさと同時に微かな痛みが胸にあふれる。それを悟られぬよう、ふだん通りを繕って、俺は頷いた。表情が崩れ、へらりとほほ笑んだ万里くんは、からだを離してジーンズのポケットから携帯を取り出した。
「……日付け変わった」
つよい光を飛ばす液晶が、“9/9”を表示している。きょうは、十八年前に万里くんが生まれた日だ。
「万里くん」
俺は携帯を持つ彼の手に触れ、やわく包んだ。視線が噛みあい、俺は万里くんの瞳を見つめる。鏡のように俺の姿がそこに映りこむのが見える。
一日いちにち、変わっていく彼を、ずっと側で見ていたいと思った。二年後も、十年後も、その先の未来も、ずっと変わらず隣に存在していたい。
「俺のほうこそ」
俺がこんなことを言うのは、あるいは、罪かもしれなかった。若い彼の時間をいたずらに奪っている――そんな罪悪が、俺の胸の底に澱のように溜まって、ふいに首をもたげる。見まいとしていても無視しきれない、その程度には俺は大人で、そして彼はまだ十代の“子ども”だった。
「……俺のほうこそ、ずっといっしょにいてください」
「ははっ、紬さんがお願いしちゃだめじゃん」
そうだけど。そうなんだけど。でも。俺は額を万里くんの鎖骨に押し宛てて、心の中でごめんねと、呟く。
俺はきみを後悔させるだけの存在になるかもしれない、そんな恐怖がないわけではなかったけれど、今さら引きかえすこともできずに、ぐずぐずと彼という存在に凭れ掛かっている。もう、彼という存在がなければ、俺はまっすぐに立っていられる自信がなかった。
コンビニの前の道路を一台の軽自動車が走り去り、その音が遠ざかっていくのをじっと聞いていた。排気ガスの音に混ざって、万里くんの心臓の音が聞こえる。この音は、十八年間止まることなく、この摂津万里という男の子を動かしつづけてくれた。そしてこれからも、この先の何十年かも、ずっと働きつづける。
万里くん、と俺は唇を動かした。万里くん、万里くん、万里くん。
「なんすか」
頭に降る声は優しく俺をならす。本人にはそのつもりはないのかもしれないけれど、俺は、彼の声に心から救われているのだった。
「お誕生日、おめでとう」
生まれてきてくれて、ありがとう。
絞り出すようにしてそう告げると、万里くんはじっと俺を見つめて、
「なんか、改めて言われると恥ずいな」
横柄に前髪を掻き上げた。
「こんな、コンビニの前で言うことになるなんて思わなかった。ごめんね」
「はは、まあ、いいじゃん」
目のまえがふいに暗くなったと思ったら、万里くんの唇が俺の唇に軽く触れていた。啄ばむようなささやかなキスだった。あまりに一瞬の出来事に目が見開く。彼はまなじりを下げて、
「ここのコーヒー、美味いけど、もうちょい苦くてもいいな」
唇を舌で舐めながら、そう言った。
深い夜に包まれたコンビニの駐車場でするキスは、まるでロマンチックではなかった。けれど、胸の奥のほうからあふれてくるあたたかさが全身を巡り、咄嗟に万里くんを抱きしめた。万里くんの匂いに混ざって夜と、秋のはじまりの香りが鼻先をくすぐり、俺は深く深く息を吸いこんだ。
#万紬
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2025.1.6
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その日は、朝から寮全体が賑やかだった。監督はカレーの仕込みに気合いを入れていたし、臣くんもキッチンに入り浸りで、手伝いをするという太一くんと一緒になってパーティで出すメインディッシュからデザートまでのフルコースについてあれこれと相談をしていた。夏組の子たちは部屋の飾りつけに一生懸命になっていたし、春組メンバーもそれを手伝いつつ、各々渡すプレゼントの話を交換しあっていた。冬組は買い出しに駆りだされ、丞の車で街なかのデパートまで良質な食材や飾りつけに必要な品の購入に奔走していた。
これだけ人員がいれば、パーティの準備は着々と進む。本番はちょうど土曜日ということもあり、朝いちばんにクラッカーを鳴らすという段取りはもう決めてある。計画を立て、団員全員が協力をしあって作り上げるパーティというイベントそのものに、みんなが浮き足立ち、楽しんでいるようだった。
「紬、買い出しはさっきので最後か?」
部屋に飾る花を摘むために中庭に出ていた俺の背中に、丞が声をかけた。
「ああ、だいたい揃ったって幸ちゃんからお赦しを頂いたよ」
「そうか。……ずいぶん、色々凝ってるな」
「椋くんの時もそうだったじゃない。丞の誕生日も、期待していいんじゃない?」
俺が笑うと、丞は苦笑して、「そうだな」と言った。こういう行事にはあまり積極的でない丞も、この空気にあてられてどこか楽しそうだ。俺にはそれがとても嬉しく思った。
――あしたは、万里くんの誕生日だ。
ぷつ、と、鋏でコスモスの花を切り取って、陽に花びらを透かしてみる。赤紫の花びらが陽差しを透かして、うつくしいグラデーションをつくる。万里くんを想う時、どういうわけか自然とコスモスの花を思いだすのだった。時期的にそうだからというだけではない、秋桜という名前を持つこの花そのものが、万里くんに似ている気がした。つつましやかで、けれど華やかで、秋を代表する花。誰の目をも奪い、きれいだ、うつくしいな、秋が来たんだと思わせるこの花を、俺は万里くんに出逢ってからよりすきになった。万里くんに似ているから、見ていると、いつでも万里くんを思いだせるから。
切り花だから日持ちはしない。きっとあすいっぱいでだめになってしまう儚い花を、丁寧に抱えて俺は立ち上がる。首筋を秋風が通り抜け、俺はその匂いを嗅ぐために、すん、と鼻を鳴らした。
「サプライズとかいう概念ガン無視かよ」
帰宅した万里くんは、談話室に入ってくるなりそう言った。そこここにパーティの雰囲気が醸し出されている談話室には、お祝いを隠すという気配はまるでなく、それでもあくまでふだん通りを装って夕食の席に万里くんを促した。
「七時まで帰ってくんなっつーから出てったのに、意味なくねこれ。本番はあしただろ?」
「だって万ちゃん、あしたは朝イチからお祝いっスからね! 今のうちに色々準備しとかないとなんスよ!」
「ばか太一、シッ!」
太一くんのくちを綴くんが慌てて抑えるも、時すでに遅い。朝イチ、とくちの中で反芻させて、万里くんはへっと笑った。
「何、何してくれんの?」
「いやいや、なんでもないぞ。よし、飯にしよう!」
臣くんが温めたミネストローネをスープ皿によそいながら、誤魔化しきれていない誤魔化しをするので、あす朝のサプライズ――あくまで、サプライズだ――はますますぐだぐだになった。
どれだけ隠そうとしても、万里くんは聡いから、団員たちが何かを計画していることなんてずいぶん前から知っていた。あいつらなんかこそこそやってんだよなー、と、以前、俺に笑いながら言い、俺も俺で、万里くんがすべてに気づいていることを知っていたから、「万里くんの誕生日パーティの計画だよ」と洩らしたのだった。ぐだぐだの一因は、だから、俺にもある。
その話をした時、俺たちはホテルのベッドの上にいた。
紬さん紬さん、と子どものようになんども名前を呼ばれ、手を伸ばされてからだのあちこちを触られて、たくさんのキスをされたあと、彼は熱を孕んだからだをベッドのシーツに横たえて、そう言ったのだった。
寝転がった万里くんはねむそうで、いくどか欠伸を洩らしながら、それでも俺のからだに巻きつけた腕はほどかずに、額をすり寄せてきた。その様子がほんとうにただの子どもといった態で、あまりにも可愛らしかったので、彼のくちから誕生日という単語が出た時、ばくぜんと、ああそうか、この子は、一つ年をとるのか、という当たり前の事実に軽い眩暈をおぼえた。目のまえの子どもが、一つ年を重ねて大人になるということが、どうにも信じられないような、そんな気がしたのだった。
「万里くん、十八歳になるんだね」
万里くんの頭を撫でながら言えば、そーっすよ、と彼は呟く。
「大人の階段を上がるわけだ」
「……十八とか、あんたにしたらまだまだガキでしょ」
どこか不貞腐れたように言う万里くんの額に指を滑らせる。彼のコンプレックスは、七歳という俺との年齢差だ。彼はそこにこだわっているようで、いつも、何かといえばそれをくちにする。そのたびに俺は、だいじょうぶなのに、と、先を導く大人としては最低なことを思うのだった。
薄暗いホテルの天井を仰いで、俺は、誕生日プレゼントをまだ用意していないことを思いだす。用意していないというより、何をあげれば万里くんが満足するのかさっぱりわからず、かといって本人に訊くのも躊躇われて、今までずるずると抱えていた。
パーティについてバラしてしまった勢いで、俺は問うた。
「ねぇ、何か欲しいものある?」
万里くんは、んん、と呻いて、身を俺に寄せた。
「紬さん」
「そういうのじゃなくて」
彼がそう言うだろうことは予想していたので、すこしおかしく思いながら俺は万里くんの髪を梳く。
「そうじゃなくてさ。誕生日プレゼント」
「だから、紬さんがいいって」
「それはなしで」
だって、そうしたら俺も得しちゃうでしょ。俺がそう言えば、万里くんは息を洩らして、
「思い浮かばねぇんだけど」
「何でもいいよ。万里くんのお願い、何でもきくよ。俺以外で、具体的に」
「具体的て……、」
じゃあ、と万里くんは言った。
「また一緒に茶ァしに行きません? それが俺へのプレゼント」
「え?」
俺の目がまるくなるのを見て、万里くんはちいさく吹き出した。
「何、その反応」
「いや……、だって、それだけ? それだけでいいの?」
勝手に物質的なもの――ブランド物の財布とか、バッグとか、靴とか、――をくちにするかと思っていた俺は驚いてそう問えば、「俺どんだけ強欲だと思われてんだよ」と笑いながら唇を尖らせる。その仕草がおさなくて可愛くて、俺もまた笑った。
そうか、お茶か。ついこの前も万里くんが見つけてきたカフェにふたりで行ったばかりだったけれど、そうか、そういうのでいいのか。そういうのもプレゼントになるのか。俺は万里くんの心根にどこかホッとして、そうして、くちもとを緩めた。
「じゃあ、雰囲気のいいカフェ探しておくね」
「ん。楽しみにしてるわ」
けっきょく、ただデートの約束をしたようなかたちになってしまったけれど、万里くんが満足そうにふにゃりと笑うので、これでいいのか、と俺は思った。
年下の恋人は、俺の背中に腕を廻して、髪の毛に鼻を埋めると、やがてすう、と寝息を立て始めた。抱きしめてくる腕のつよさが嬉しくて、抱きしめかえすように俺も彼のからだに手を伸ばす。指のひらが滑る肌の湿度が、温度が、泣きたいくらいに心地好かった。
パーティについての言及は、夕食の席では禁止になった。それぞれ、敢えてその話題を避けつつ、ふだん通りに他愛のない会話をしながら賑やかに食事を終え、臣くんの淹れてくれた食後のお茶を飲み、やがて席を立っていく。
俺は時計を見あげ、さて、と心の中で呟いた。時間は夜の八時近く、きょうは稽古もなく、みんなはこれから風呂に入り、金曜日夜の自由時間を満喫しようとしている。幸ちゃんだけがまだ何かを考えている様子で、夏組を招集していた。
ソファに坐って携帯を弄っている万里くんに声を掛けようとして、やめた。その代わり、俺は自室に戻って、携帯を取りだす。LIME画面を呼び出して万里くんのアイコンをタップし、たどたどしい運びで文字を打っていく。
『ばんりくん、』
変換を忘れて送ってしまったけれど、返信はすぐに来た。
『はいー』
液晶に表示されたデータ越しの文字さえ愛おしくて、自然とくちもとが綻んだ。俺は指を滑らせる。
『ちょっと今から、外に出れない?』
『いーっすよ、コンビニ?』
そうじゃないよ、と俺は心の中で呟く。そうして、違うよ、あの約束おぼえてる? と返信した。
すこししてから返信があった。
『カフェ?』
『そう。今から行けないかな?』
『今からっすか? やってんの?』
だいじょうぶ、と打って、俺は万里くんに先に玄関で待っている旨を伝えた。準備ができたらおいで。そう返信をして。
いつものロングTシャツに軽めのジャケットを羽織り、財布と携帯だけを入れた鞄を持って俺は部屋を出た。
「あれ、紬さん、コンビニですか」
廊下ですれ違った臣くんに笑われたけれど、俺は曖昧に首を振るだけで、答えなかった。ごめんね、秘密なんだ、と、心中で謝りつつ。
玄関で待っていると万里くんはすぐにやって来た。すこし怪訝そうな顔をして、けれどどこか浮き浮きしているのを表情に忍ばせて、「この時間からカフェとか、なんかテンション上がるわ」などと笑う。
「うん、すごくいいところ見つけたんだ」
ドアをそっと開けて外に出ると、すっかり秋のそれに変わった空気が俺たちを包んだ。中庭のほうから虫の声が聞こえ、うっわ、めっちゃ秋、と隣で万里くんが言う。
「夏、あっという間だったね」
「なんか、ことしの夏は濃かったわ」
「それは、楽しかったってこと?」
俺が言えば、万里くんは髪の毛を掻きながら、あー、まあ、ともごもごと言った。すなおに楽しかった、と言わないところが万里くんらしいと思った。
鼻先を掠めていく匂いを吸いこむと、秋で肺がいっぱいになった。道路に出、駅のほうに向かって歩きだす俺を、万里くんは何も言わずにおとなしくついてくる。どこまで行くのかとか、どういうカフェなのかとか、そんなことも訊かない。俺も、だから特に何も言わずに、ゆっくりとしたペースで歩いていく。
道路を走る車も、仕事帰りらしい通行人も、この時間帯にはすっかりすくなくなっていた。それでもたまに通り過ぎていくそれらは、みんな足早で、忙しそうだった。呑気そうに歩く俺たちとはまるで違う。
ふっと指先にあたたかさを感じて、視線を落とせば、万里くんの指が俺の手を握っていた。ほそくしなやかな指が俺の指に絡み、手の甲を撫で、優しく包む。あたたかい、と思った。それで、そうくちにすれば、「紬さんが体温低いんだよ」と万里くんは笑った。
手を繋いだり、キスをしたり、セックスをしたりといった行為が、万里くんとのあいだで当たり前になったのは、夏の始まるすこし前だ。はじめて手を繋いで歩いた時、往来は湿気でじめじめとしていて、互いの肌も僅かに汗で湿っていて、俺は彼が気持ち悪いと思わないかひやひやしていた。彼は、けれど何も言わず、つよく俺の手を握って離さないでいてくれた。じんわりとあたためられていく手が、ありがたくて、心地好くて、嬉しかった。
「今、何時かわかる?」
万里くんはポケットに入れた携帯を一瞥し、「十時、ちょい前」と言った。
「そこのカフェね、開店が十九時で、閉店が夜中の三時なんだ」
「それ、カフェっつーかスナック的な?」
「万里くん、スナックなんてことば知ってるんだ」
俺は笑った。そして、首を振る。
「ライブラリーカフェ。夜限定のね。古書がたくさん置いてあって、仕事帰りの人とか、学生とかの常連さんがけっこういて、でもすごく静かですてきなカフェなんだ」
「へー、すげぇな」
万里くんをつれていくのならそこだと、約束をした時から考えていた。すこし前に一人で入った時、出された深淹りのコーヒーを飲みながら古い戯曲を読んでいたら、あっという間に時間が過ぎ、気がつけば二十三時を過ぎていた。
秋のはいりくちのこんな夜に、万里くんと行くことができたら、と、約束をしたあの夜に考えて、それだけで胸が騒いだ。
「ちょっと距離あるけど、歩ける?」
「よゆ〜っすよ。紬さんこそ、だいじょうぶなんすか」
「俺だってへいき、このくらい」
そうして笑いあう、この時間があまりにも尊かった。あと二時間ほどですこし大人になる彼と歩く今という時間は、もう二度と来ない。それを思うと、心臓がきゅっと音を立てた。
「……嘘」
ゆっくりとしたペースで歩き、辿り着いた目的の店の前で、俺は茫然と立ち竦んだ。唇から自然とこぼれ落ちた声に、堪えきれずに万里くんが吹き出して大笑いしている。ぜんぜん笑いごとじゃないのに。ずっと繋いでいた手を離して、よろよろとドアに近づく。“臨時休業 9/9〜9/14”の貼り紙は、俺が近づいたところで何も変わることはなく、じっと暗闇の中に佇んでいた。
「臨時休業……? そんなの、ぜんぜん告知してなかったのに……」
ひとりごちる俺の隣で、万里くんはお腹を抱えて笑いこける。息をするのもくるしそうに、ひいひいと。
「うけっ、ウケる……っ! やべぇ紬さん……っ!」
「もう! 笑いごとじゃないよ?!」
俺の声が、夜の更けた道路に虚しく響いた。
こんなことになるとは、まさか、思ってもいなかった。一駅分ほどを歩き、商店街をずいぶんと逸れたところに店はあった。狭い路地のあいまにひっそりと建つ家屋風の店は、一見すればカフェとは気づかないほどのつつましやかさでそこに存在している。ふつうの家のような佇まいは、うっかりすれば通り過ぎてしまいそうだ。俺も、はじめてこの店を見つけた時は、家なのか店なのかわからず、けれど“open”と書かれた看板が揺れていたために入ることができた。今夜は、その看板がない。ドアの磨り硝子に貼られた紙に、店主の書いたと思われる“臨時休業”の文字が躍っているだけで、店は、店として機能していなかった。
頭の中がすうっと冷えていく感覚に陥り、俺は軽いパニックを起こしかけていた。
どうしよう、せっかくここまで歩いてきたのに。万里くんを連れて来たかったのに。万里くんとここで、コーヒーを飲んで他愛のない話をしたかったのに。約束をしたのに。
ぐるぐると頭を駆け巡ることばに足もとがふらつく。その時、ようやく笑いが引っこんだ万里くんがぎゅ、と手を握った。紬さん、と、彼は言った。
「ごめん……」
何とかそれだけをくちにした俺の声は、みっともなく震えていて、動揺を隠しきれていない。万里くんを心配させると思うけれど、取り繕う余裕もなく、黙って彼から目を逸らした。
「悪い、笑いすぎた。すんません」
万里くんの声音は落ち着いていて、俺を宥めるような響きを孕んでいた。俺はため息をつき、
「ううん、それはいいんだ、いや、よくないけど……よくないっていうか、なんていうか、」
ああ、と咽の奥から声があふれる。やってしまった、失敗した、どうしよう。歩かせておいて、こんな。しかもさっきっから上手くしゃべれていないし、恰好悪いにもほどがある。
あしたは万里くんの誕生日なのに。
「はーっ、笑った」万里くんは笑いの残滓を吐き出しながら、貼り紙を指先でつつく。「しかしこーゆーことまじであんだな、久々にこんな笑ったわ」
「……ほんとうに申し訳ない……」
「謝んないでくださいよ、ウケたし。ま、こんなこともあるってことで」
俺の肘をつついて笑う万里くんの顔が、夜闇に慣れた目が捉える。眉を下げて、いつもと変わらない調子でへらへらと笑う彼は、何とかこの場を、というか、俺を、立て直そうとしてくれているようだった。俺は深いため息をひとつ、ついて、「どうしよう」と呟いた。
「どーしようもこうしようも、やってねんなら帰るしかなくね?」
「そうなんだけど、プレゼント、が……」
「そんなん、いーって。今度開いてる日にまた連れてってよ」
万里くんの言うとおりだった。きょうのところは帰るしかない。考えてみても、この時間にやっている店なんて、それこそスナックとか、居酒屋しかない。仕方ないか、とまたこうべを垂れかけた俺の腕を、にわかに万里くんが掴んだ。
「万里くん?」
「帰る前にちょっとコンビニ寄ってかね? 休憩したいわ」
携帯で時間を見ると、もう夜の二十三時を廻っている。歩きつづけた疲れが今さらのように訪れて、俺は頷いた。
来た道を引きかえしながら、コンビニを探した。深くなっていく夜に、町は静まりかえり、歩いているのは俺たちだけだった。来た時とは逆に、万里くんが俺を連れていくようなかたちで歩いていると、自然と繋いだ手にちからが入り、万里くんのからだに自分のからだを添わせるかたちになる。歩きにくいかな、と思いからだを離そうとすれば、「いいから」と万里くんが腕を引っ張ったので、そのままにしておいた。
路地を抜け、商店の並ぶアーケードを歩いていく。どこもシャッターが下り、けれどどこかから笑い声も聞こえてくるので、お酒の飲める店がここからは見えない場所にあるのだろうとわかる。俺はあまりお酒が得意ではないから、そういう店についてはあかるくない。
ふと、万里くんがはたちになったら、と考えた。
彼がお酒を飲めるようになったら、その時、自分は彼の隣にいるのだろうか。今のように、手を繋いで歩いたり、キスをしたり、セックスをしたりすることができているのだろうか、と。
万里くんがはたちになる日。二年後の、あした。
「なに考えてんの?」
ふっと頭上から声がかかり、俺は視線をあげた。斜め上には万里くんの顔があり、唇があり、鼻があり、目があり、眉毛がある。この子はほんとうに、きれいな顔をしているな。見つめるたびにそう思う顔が、当たり前に今夜も、目のまえにある。
俺は、うん、と咽を鳴らして、
「万里くんがはたちになった時のこと」
すなおにそう答えた。
「ハタチ?」
「そう。二年後の、あしたのこと」
未来のことなど、考えたところでどうしようもない。万里くんはきっとそう言う気がした。彼は、けれど低い声で、ハタチねぇ、と呟いただけだった。
「あんまり、実感ないかな」
自分はどうだったろうと思いかえして、あまり記憶がないことに気がついた。大学で、丞と一緒に芝居に熱中していた記憶しかなくて、はたちになった時のことを、詳細に憶えていなかった。
「実感ないっつーか、どうでもいい、っつーか」
「あはは、言うと思った」
「はたちになっても、俺と紬さんの歳の差は変わんねーし」
また年齢の差についてくちに出した万里くんは、前方を向き直り、そして、「ああ、ほらコンビニ」と指を差す。示す先に、煌々とあかるいコンビニの光が見え、俺はホッとして息をつく。
完璧に漂白された光に導かれるように店内の自動ドアを潜り、品物を物色した。万里くんがショーケースに並んだファストフードに目を奪われていたので、「食べたいなら、奢らせて」と言うと、彼は、じゃあアメリカンドッグで、と笑った。
アメリカンドッグとホットコーヒーを二つ注文し、機械的な動きで会計をする店員から商品を受けとる。
店内には若い男が一人いるだけで、他にお客はいない。俺たちが店を出ると、レジの中で店員が退屈そうに欠伸をこぼしている姿が見えた。
「紬さん、あざっす」
手渡したアメリカンドッグに齧りつきながら、万里くんは言った。
「きょうはごめんね、ほんとうに」
申し訳なさが胸に湧き、再び謝ると、万里くんは首を振った。
「それはもういいって!」
「でも、」
「それよりコーヒー、冷めちゃいますよ」
促されて、コーヒーを啜る。店で出される味に引けをとらない、美味しいコーヒーだ。
「……美味しい」
思わず呟けば、万里くんもひとくち啜った。
「さいきんのコンビニのコーヒー、あなどれないっすよね」
「うん、ちゃんと挽いた豆を使ってるところがすごいよね」
「これで百円とか」
自動ドアからすこし離れた場所で、しばらくふたりで黙ってコーヒーを飲んだ。万里くんはその場にしゃがみこみ、その様はいかにもヤンキー、といった風情で、すこしおかしかった。
「なに笑ってんすか」
「ううん……、なんでも」
「深夜のコンビニ、似合ってるとか?」
「えっ、なんでわかったの」
「紬さんの考えてることなんてわかるっつーの」
へっと笑う万里くんの横顔は、コンビニから洩れる光に照らされて、いつもより白っぽく見える。俺も、彼からはそう見えるのだろうか。立っているのが恥ずかしくなって、俺も隣に坐りこめば、「紬さんもヤンキーじゃん」と万里くんは笑った。
「っていうか深夜にコンビニ徘徊してる人のほうがよっぽどヤンキーじゃね」
「成人男性にヤンキーなんてことば使わないよ」
「ヤンキーって未成年専用なの?」
「さあ……わからないけれど」
たしかに、俺が深夜にコンビニをうろついていたところで、誰も何も言わない。俺がもう二十四歳の大人だからだ。けれど、たとえば万里くんや十座くんが夜中にコンビニにたまっていたら、きっと店員が警察に連絡するだろう。たとえ何も悪いことはしていなくとも。
俺たちの差、というのは、つまりはそういうことなのだ。
ぼうっと空を見あげると、薄い雲に覆われた夜空がそこにはあった。今夜はあいにく、月も星も見えない空模様だ。あしたの天気はどうだったか。天気予報では、秋晴れとは言えないものの、雨が降るという予報はしていなかったように記憶している。
「……紬さん、さあ」
とうとつに、万里くんがくちを開いて、俺は彼を見やった。膝を開いた、いわゆるヤンキー坐りをした態で、彼は両腕を膝の頭に載せ、俺を下から覗くように見つめていた。
「なぁに、万里くん」
すこしだけ首を傾げて応えると、万里くんは何かを考えるように目を眇め、ことばを選びながら、唇を動かした。
「さっき、俺がはたちになったら、とか、言ってたじゃん」
「……ん? うん」
「あれ、どうでもいいとか言ったけど、そんなどうでもよく思ってるわけじゃなくて。ほんとは、」
うん、と俺は頷いた。
「カンパニーで芝居やって、それがどんどん面白くなってきて、しょうじきこんだけハマるとか思ってなくて」
ひとりごとのような口調で、万里くんは話をする。俺はコーヒーの入った紙カップにくちをつけながら、彼の声に耳を傾けた。
「たぶんハタチんなっても俺、芝居はやってんだと思う。っていうか、やっててぇって思う」
「うん」
「二年後だろーが十年後だろーが、ずっと芝居つづけてさ。今の連中といっしょに」
彼の演劇にたいする情熱が日増しにつよくなっていっていることに、俺も、監督も、他のメンバーも気づいていた。一つひとつの稽古が、きのうよりきょう、きょうよりあした、丁寧に、繊細に、慎重に、けれど大胆になっていき、あの左京さんですら目を見張る時がある。まるでそんなことはない、という顔をして、演劇を心から楽しみ、愛してくれていることが、俺はとても嬉しかったし、彼の成長に心臓が高鳴るのだった。
「ハタチんなった俺、とか、まあ考えたってしょうがねぇってのはあるけど、すくなくとも紬さんの隣には立ってんだろーなとは思うし」
「え?」
彼のことばに驚いて目を見開くと、万里くんは俺の顔を見て、「なんだよ、その反応」とくちの端を持ち上げた。
「俺が隣にいたら、だめ?」
「そっ、そんなわけないよ!」
心を見透かされたかと思った。頬が熱くなっていくのを自覚して俯けば、万里くんの手が俺の肩に廻り、にわかにからだを抱き寄せられた。
万里くんの匂いがする。いつもの、香水の匂い。
ねぇ紬さん。声が耳をくすぐってこそばゆい。
「きょうプレゼントもらい損ねた分、お願いしていい?」
語尾を持ち上げて、あまったるい声音を作る。おねだりをする時、彼はよくよくこの声を使った。この声で頼まれると俺が断れないと知りながら、敢えて訊いてくる彼をずるいと思う。ずるくて、愛おしくて、たまらない。
俺が頷くのを見て、万里くんはいちど息を吸い、それから言った。
「“俺とずっといっしょにいてください”」
肩に廻された手に触れると、ひどく熱かった。万里くんの顔を見やれば、コンビニの光を斜めに受けたその表情はせつなそうに笑っていて、おさなさと、可愛らしさと、そしてすこしだけ、大人の色を帯びていた。
――ああ、大人になっていく、
あたたかさと同時に微かな痛みが胸にあふれる。それを悟られぬよう、ふだん通りを繕って、俺は頷いた。表情が崩れ、へらりとほほ笑んだ万里くんは、からだを離してジーンズのポケットから携帯を取り出した。
「……日付け変わった」
つよい光を飛ばす液晶が、“9/9”を表示している。きょうは、十八年前に万里くんが生まれた日だ。
「万里くん」
俺は携帯を持つ彼の手に触れ、やわく包んだ。視線が噛みあい、俺は万里くんの瞳を見つめる。鏡のように俺の姿がそこに映りこむのが見える。
一日いちにち、変わっていく彼を、ずっと側で見ていたいと思った。二年後も、十年後も、その先の未来も、ずっと変わらず隣に存在していたい。
「俺のほうこそ」
俺がこんなことを言うのは、あるいは、罪かもしれなかった。若い彼の時間をいたずらに奪っている――そんな罪悪が、俺の胸の底に澱のように溜まって、ふいに首をもたげる。見まいとしていても無視しきれない、その程度には俺は大人で、そして彼はまだ十代の“子ども”だった。
「……俺のほうこそ、ずっといっしょにいてください」
「ははっ、紬さんがお願いしちゃだめじゃん」
そうだけど。そうなんだけど。でも。俺は額を万里くんの鎖骨に押し宛てて、心の中でごめんねと、呟く。
俺はきみを後悔させるだけの存在になるかもしれない、そんな恐怖がないわけではなかったけれど、今さら引きかえすこともできずに、ぐずぐずと彼という存在に凭れ掛かっている。もう、彼という存在がなければ、俺はまっすぐに立っていられる自信がなかった。
コンビニの前の道路を一台の軽自動車が走り去り、その音が遠ざかっていくのをじっと聞いていた。排気ガスの音に混ざって、万里くんの心臓の音が聞こえる。この音は、十八年間止まることなく、この摂津万里という男の子を動かしつづけてくれた。そしてこれからも、この先の何十年かも、ずっと働きつづける。
万里くん、と俺は唇を動かした。万里くん、万里くん、万里くん。
「なんすか」
頭に降る声は優しく俺をならす。本人にはそのつもりはないのかもしれないけれど、俺は、彼の声に心から救われているのだった。
「お誕生日、おめでとう」
生まれてきてくれて、ありがとう。
絞り出すようにしてそう告げると、万里くんはじっと俺を見つめて、
「なんか、改めて言われると恥ずいな」
横柄に前髪を掻き上げた。
「こんな、コンビニの前で言うことになるなんて思わなかった。ごめんね」
「はは、まあ、いいじゃん」
目のまえがふいに暗くなったと思ったら、万里くんの唇が俺の唇に軽く触れていた。啄ばむようなささやかなキスだった。あまりに一瞬の出来事に目が見開く。彼はまなじりを下げて、
「ここのコーヒー、美味いけど、もうちょい苦くてもいいな」
唇を舌で舐めながら、そう言った。
深い夜に包まれたコンビニの駐車場でするキスは、まるでロマンチックではなかった。けれど、胸の奥のほうからあふれてくるあたたかさが全身を巡り、咄嗟に万里くんを抱きしめた。万里くんの匂いに混ざって夜と、秋のはじまりの香りが鼻先をくすぐり、俺は深く深く息を吸いこんだ。
#万紬