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No.38
誰も知らない(新岡)
いつものようにふたり分のコーヒーを手に部屋に戻ると、岡田はソファベッドにからだを預け、舟を漕いでいた。かくん、と垂れたこうべを目にした瞬間、ふいに自分を取り囲んでいるすべてのものが色を失い、現実味を失くしてゆく薄ら寒さをおぼえた。
暖房は疾うにセットされているし、練習後の疲労が此処に来て一気に溢れ出たのだろう。背筋に走った悪寒が消えるよりはやく新庄は、コーヒーの入ったカップを机に置き、そうっと岡田の顔を覘き込んだ。微かな呼吸音、上下する胸板を確認し、ようやく、彼が死んでしまったわけではないのだとわかった。無論、そう簡単に死ねるほど人間のからだはやわではないと頭では理解しているのだが、新庄は滅多に見ない彼の無防備な寝姿に、リアルさを感ぜられなかったのだ。
暖房の風向きを少しばかり変え、新庄は自分のカップを片手に、岡田の側に坐った。片脚を投げ出し、もう片方の膝を立て岡田は眠っている。コーヒーのにおいは届いているだろうか、汗で流れ落ち僅かばかりになった香水の薫は――?
コーヒーを啜って吐息をつくと、頭の濁りがようよう沈んでいった。そして気づく。目を綴じた岡田の、現実味を感ぜられなかった一瞬間の理由に。
節の目立つ指の関節がぼやけた影をシーツに拵え、指先から手首、シャツに隠されている肘、二の腕、肩と目で追っていけば、首筋の――新庄には名前のわからない細い骨が一本、線を引いている。
瘠せていると思うのはこの時ばかりではなかった。練習で筋肉は必然的に付くが、部の仲間うちで彼は“細いほう”だといえるだろう。身長があるぶん、瘠せぎすなからだは特に際立った。そのことを当人に言うことなど無論なかったが、岡田はおそらく、自覚している。
視線をカップを持っている自身の腕に移すと、その差は歴然だった。元々喧嘩で鍛えられたからだに練習のメニューが加えられ、さらに強固になった腕や足腰、背中、肩。
触れていいんだろうか? 同じ男に対して想うことではないとわかってはいるし、岡田もまたおずおずと差し出される手を前にいつも困ったように笑う。そして念を押すように、言う。
「一応、俺も男だからな」
指先を軽く握る。岡田の両目は薄い瞼で蓋われたまま、動かない。呼吸音だけがする、静かな夜だ。指先から甲を隠すように手を滑らせ、手首へと辿ってゆく。手のひらにすっぽりと収まってしまった手首の下で打つ脈動が、肌越しに伝った。
「……しんじょう」
ぴくっ、と触れている肌が震え、新庄は咄嗟に手を、離した。温かさの透き間を刹那の冷気が横切って去った。
起こしてしまったのかと顔を見やるが、両目は閉ざされたままだ。短く生え揃った睫毛が微動している。
――寝言、か?
仲間達のなかでは常識人で、現実主義、それゆえの冷淡さが吐かれる言葉には滲み、時に場の空気をひやりとさせる彼の、いままで見たことのない姿は新鮮で、何かいけない遊びをしている高揚感を新庄の胸に抱かせた。こんな姿をほかの人間には見せたくない、それが仲間うちの誰かであっても、自分一人だけのものにしたい。
カップを机に置き、両手をソファベッドのシーツに押しつけて上体を屈めた。吐息が頬を掠めたのを触角したのと同時に、唇に唇を重ねた。
キスは岡田から強請られることが多かった。もしかしたら自分からしたのはこれがはじめてかもしれない。自覚してしまうと、たったいま自分のしてしまったことが信じられず、途端にカッと顔じゅうが熱くなった。
「……悪ぃ」
低く呟いて、かさついた肌から離れようとしたその時、手の甲を渇いた感触に捉えれ新庄はぎょっとした。
「なにが?」
翳になっていた目が持ち上げられ、新庄の瞳を覘き込む。震える睫毛の先が生理的な涙で湿っている。
「おか――、」
起きてたのか、と言おうとするのを遮り、「途中まではホントに寝てた」と岡田はあくび混じりに言った。
「途中まで……」
途中とはいつまでだろう。放心している新庄を意地悪そうな眼差しで見つめ、
「ンな固まんなよ」
吐息とともに笑う。戻って来た、と新庄は目を逸らせないまま思った。いつもの、普段見ている岡田だ。学校で、行き帰りの通学路で、部活で、数えきれないほどこの顔を見てきた。どちらも同じ岡田なのに、切り刻まれた写真を目の前にしている気がした。ばらばらにしたのは自分だというのに、元に戻せないで途方に暮れている。
「……変な真似はやめろ」
気持ちの整理のつかないまま、新庄は視線を逸らし、ベッドに坐り直した。すぐ側で岡田の笑う気配がする。手を伸ばせば届く距離に、いつもの渇いた肌の感触が在る。けれど、と新庄は、浅い眠りから引き揚げられた時のように澄んだ頭で、先程までの数分を反芻させた。
普通の男女の恋人同士と比べれば、ふたりのあいだにある日常のスキンシップはそう多いほうではない。それでも付き合い出した頃とは比較にならないほど距離は縮まったように思えるし、岡田の、どちらかといえばドライな性格も少しずつわかりかけてきた。そう、思っていたのに。
「新庄?」
無言でいる新庄に、からかいすぎたと思ったのか、岡田はそうっと手を伸ばしてきた。右耳の、リングピアスに指先が触れる。それがまるでスウィッチか何かのように、ふっと目の前で光が弾け、気づいた時には岡田の上半身をベッドに縫いつけていた。真下になった岡田の目が一瞬だけ見開かれ、濡れた瞳が鏡のように新庄の金髪を映す。
声を発そうとする唇を強引に塞ぎ、ふいに湧いた不安をその膚になすりつけた。これまでこんなに乱暴なキスをしたことなどなかった。ひゅっ、酸素の求める音が空気を震わせ、耳に届いたが、唇を離すことはできなかった。
「ちょっ、……新庄ッ!」
ドン、と胸板を叩かれ、僅かな透き間から岡田の声が滑り出た。途端に全身からちからが脱け、自身の翳に蔽われている岡田の顔が視界に入り込む。互いの唾液で濡れた唇を軽くあけ、短い呼吸を繰り返す岡田の表情は驚きに塗れており、心臓がナイフに刺されたような痛みを訴えた。
「どうしたんだよ」
岡田の指が髪に触れる。咄嗟にその手を躱しかけ、逃れ切れずに新庄はちからの脱けたからだを岡田に預けた。
「悪かった、からかいすぎたよ」
やわらかい声音にすべてがほどけてしまいそうだった。違う、とくちを動かしてみるが、声にはならない。――違う、そんなことじゃない。
「なんでお前が謝んだ」
低い唸り声で言い、髪に触れる指を手のひらで包んだ。伝えたいことを言葉にできないもどかしさが、苛立ちを募らせる。いつものことなのに、いつまで経っても岡田に導かれないと、俺はなにもくちにできない。
関節を親指でなぞり、繋ぎ合わせたい言葉を捜しながら岡田の両の目を凝視めた。岡田はくちを噤み、その表情にあった驚きは疾うに消えていた。
「……悪い」
かろうじてそれだけを言うと、岡田は一時、真顔になったが、すぐに薄い笑みを浮かべた。
「お前が、いつもと違うからよ……」
「興奮したとか?」
「ちげーよ」新庄は強い調子で放つ。岡田は笑っている、わかってるって、とでも言いたそうな顔だ。
「お前そこまでケダモノじゃねーもんな」
でも、と岡田は少しばかり声を低めて、
「新庄からキスされたのはじめてだよな。なんか、嬉しかった」
くしゃりとすべての表情を崩れ落とし、笑った。
既視感に囚われる。この笑顔と数分前に感じた独占欲を煽る無防備な姿が重なり、新庄は額を岡田の鎖骨に押しつけた。縋りついているように見えても構わない、誰に笑われても否定しない。事実、俺はこいつに縋っている。みっともないほどに。
岡田の指が髪を梳いてゆくのを感じながら、目を綴じる。
次に顔を上げた時、それでも岡田はいつも見せる顔をしてるんだろう。学校で、行き帰りの通学路で、部活で、何度も見てきた顔をしてるんだろう、きっと。
(12.0216)
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ROOKIES
2025.1.11
No.38
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暖房は疾うにセットされているし、練習後の疲労が此処に来て一気に溢れ出たのだろう。背筋に走った悪寒が消えるよりはやく新庄は、コーヒーの入ったカップを机に置き、そうっと岡田の顔を覘き込んだ。微かな呼吸音、上下する胸板を確認し、ようやく、彼が死んでしまったわけではないのだとわかった。無論、そう簡単に死ねるほど人間のからだはやわではないと頭では理解しているのだが、新庄は滅多に見ない彼の無防備な寝姿に、リアルさを感ぜられなかったのだ。
暖房の風向きを少しばかり変え、新庄は自分のカップを片手に、岡田の側に坐った。片脚を投げ出し、もう片方の膝を立て岡田は眠っている。コーヒーのにおいは届いているだろうか、汗で流れ落ち僅かばかりになった香水の薫は――?
コーヒーを啜って吐息をつくと、頭の濁りがようよう沈んでいった。そして気づく。目を綴じた岡田の、現実味を感ぜられなかった一瞬間の理由に。
節の目立つ指の関節がぼやけた影をシーツに拵え、指先から手首、シャツに隠されている肘、二の腕、肩と目で追っていけば、首筋の――新庄には名前のわからない細い骨が一本、線を引いている。
瘠せていると思うのはこの時ばかりではなかった。練習で筋肉は必然的に付くが、部の仲間うちで彼は“細いほう”だといえるだろう。身長があるぶん、瘠せぎすなからだは特に際立った。そのことを当人に言うことなど無論なかったが、岡田はおそらく、自覚している。
視線をカップを持っている自身の腕に移すと、その差は歴然だった。元々喧嘩で鍛えられたからだに練習のメニューが加えられ、さらに強固になった腕や足腰、背中、肩。
触れていいんだろうか? 同じ男に対して想うことではないとわかってはいるし、岡田もまたおずおずと差し出される手を前にいつも困ったように笑う。そして念を押すように、言う。
「一応、俺も男だからな」
指先を軽く握る。岡田の両目は薄い瞼で蓋われたまま、動かない。呼吸音だけがする、静かな夜だ。指先から甲を隠すように手を滑らせ、手首へと辿ってゆく。手のひらにすっぽりと収まってしまった手首の下で打つ脈動が、肌越しに伝った。
「……しんじょう」
ぴくっ、と触れている肌が震え、新庄は咄嗟に手を、離した。温かさの透き間を刹那の冷気が横切って去った。
起こしてしまったのかと顔を見やるが、両目は閉ざされたままだ。短く生え揃った睫毛が微動している。
――寝言、か?
仲間達のなかでは常識人で、現実主義、それゆえの冷淡さが吐かれる言葉には滲み、時に場の空気をひやりとさせる彼の、いままで見たことのない姿は新鮮で、何かいけない遊びをしている高揚感を新庄の胸に抱かせた。こんな姿をほかの人間には見せたくない、それが仲間うちの誰かであっても、自分一人だけのものにしたい。
カップを机に置き、両手をソファベッドのシーツに押しつけて上体を屈めた。吐息が頬を掠めたのを触角したのと同時に、唇に唇を重ねた。
キスは岡田から強請られることが多かった。もしかしたら自分からしたのはこれがはじめてかもしれない。自覚してしまうと、たったいま自分のしてしまったことが信じられず、途端にカッと顔じゅうが熱くなった。
「……悪ぃ」
低く呟いて、かさついた肌から離れようとしたその時、手の甲を渇いた感触に捉えれ新庄はぎょっとした。
「なにが?」
翳になっていた目が持ち上げられ、新庄の瞳を覘き込む。震える睫毛の先が生理的な涙で湿っている。
「おか――、」
起きてたのか、と言おうとするのを遮り、「途中まではホントに寝てた」と岡田はあくび混じりに言った。
「途中まで……」
途中とはいつまでだろう。放心している新庄を意地悪そうな眼差しで見つめ、
「ンな固まんなよ」
吐息とともに笑う。戻って来た、と新庄は目を逸らせないまま思った。いつもの、普段見ている岡田だ。学校で、行き帰りの通学路で、部活で、数えきれないほどこの顔を見てきた。どちらも同じ岡田なのに、切り刻まれた写真を目の前にしている気がした。ばらばらにしたのは自分だというのに、元に戻せないで途方に暮れている。
「……変な真似はやめろ」
気持ちの整理のつかないまま、新庄は視線を逸らし、ベッドに坐り直した。すぐ側で岡田の笑う気配がする。手を伸ばせば届く距離に、いつもの渇いた肌の感触が在る。けれど、と新庄は、浅い眠りから引き揚げられた時のように澄んだ頭で、先程までの数分を反芻させた。
普通の男女の恋人同士と比べれば、ふたりのあいだにある日常のスキンシップはそう多いほうではない。それでも付き合い出した頃とは比較にならないほど距離は縮まったように思えるし、岡田の、どちらかといえばドライな性格も少しずつわかりかけてきた。そう、思っていたのに。
「新庄?」
無言でいる新庄に、からかいすぎたと思ったのか、岡田はそうっと手を伸ばしてきた。右耳の、リングピアスに指先が触れる。それがまるでスウィッチか何かのように、ふっと目の前で光が弾け、気づいた時には岡田の上半身をベッドに縫いつけていた。真下になった岡田の目が一瞬だけ見開かれ、濡れた瞳が鏡のように新庄の金髪を映す。
声を発そうとする唇を強引に塞ぎ、ふいに湧いた不安をその膚になすりつけた。これまでこんなに乱暴なキスをしたことなどなかった。ひゅっ、酸素の求める音が空気を震わせ、耳に届いたが、唇を離すことはできなかった。
「ちょっ、……新庄ッ!」
ドン、と胸板を叩かれ、僅かな透き間から岡田の声が滑り出た。途端に全身からちからが脱け、自身の翳に蔽われている岡田の顔が視界に入り込む。互いの唾液で濡れた唇を軽くあけ、短い呼吸を繰り返す岡田の表情は驚きに塗れており、心臓がナイフに刺されたような痛みを訴えた。
「どうしたんだよ」
岡田の指が髪に触れる。咄嗟にその手を躱しかけ、逃れ切れずに新庄はちからの脱けたからだを岡田に預けた。
「悪かった、からかいすぎたよ」
やわらかい声音にすべてがほどけてしまいそうだった。違う、とくちを動かしてみるが、声にはならない。――違う、そんなことじゃない。
「なんでお前が謝んだ」
低い唸り声で言い、髪に触れる指を手のひらで包んだ。伝えたいことを言葉にできないもどかしさが、苛立ちを募らせる。いつものことなのに、いつまで経っても岡田に導かれないと、俺はなにもくちにできない。
関節を親指でなぞり、繋ぎ合わせたい言葉を捜しながら岡田の両の目を凝視めた。岡田はくちを噤み、その表情にあった驚きは疾うに消えていた。
「……悪い」
かろうじてそれだけを言うと、岡田は一時、真顔になったが、すぐに薄い笑みを浮かべた。
「お前が、いつもと違うからよ……」
「興奮したとか?」
「ちげーよ」新庄は強い調子で放つ。岡田は笑っている、わかってるって、とでも言いたそうな顔だ。
「お前そこまでケダモノじゃねーもんな」
でも、と岡田は少しばかり声を低めて、
「新庄からキスされたのはじめてだよな。なんか、嬉しかった」
くしゃりとすべての表情を崩れ落とし、笑った。
既視感に囚われる。この笑顔と数分前に感じた独占欲を煽る無防備な姿が重なり、新庄は額を岡田の鎖骨に押しつけた。縋りついているように見えても構わない、誰に笑われても否定しない。事実、俺はこいつに縋っている。みっともないほどに。
岡田の指が髪を梳いてゆくのを感じながら、目を綴じる。
次に顔を上げた時、それでも岡田はいつも見せる顔をしてるんだろう。学校で、行き帰りの通学路で、部活で、何度も見てきた顔をしてるんだろう、きっと。
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