No.52

東京卍リベンジャーズ

こぼれてしまうよ(ふゆとら)

22軸/ペットショップで働く一虎と千冬が、ゆっくり恋をしてゆくお話です。
(2024年9月15〜16日開催webオンリーにて展示させていただきました。ありがとうございました。)

こぼれてしまうよ ; YUKI






prologue


 暗い夜空の下に立っていると、ムショにいた時のことを思いだす。なにか問題を起こすと放りこまれたまっ暗な独居房の中で、壁を四角に切り抜いた味気ない窓をぽかんと見つめていたあの時のこと。
 窓の向こうの夜空は黒色の絵の具をべったりと塗りたくったように重たかった。季節や時間によっては月や星が見えることがあって、消灯時間を過ぎても一向に眠くならない夜を、ささやかすぎるその光だけを救いと思って生きていた。
 ムショに収容されている他のガキ連中に比べてずい分おとなしくしていたせいか、オレはしばしば目をつけられて喧嘩を吹っ掛けられた。睨みやがっただの肩がぶつかったのにシカトしただの。理由はいろいろだったけれど要するにオレの存在そのものが気に食わなかったのだ。いくら髪を黒くしてもポロシャツを着てボタンをぴっちり留めても、くびすじに刻んだタトゥーは隠しきれなかったし、オレが東京卍會との抗争に加わった人間であることは所内にはとっくに知れ渡っていた。
 売られた喧嘩は買わなかった。散々ボコられた挙句先に手を上げたと濡れ衣を着せられて、独居房に入れられるのは毎回オレの役目だった。ガキ共のストレス解消と都合の良いサンドバッグにされる日々は、でもオレを安らかにさせた。殴られるたび一歩ずつ、死に近づける気がした。
 死のうと積極的に思っていたのは最初のうちだけだった。収容される直前、面会に来てくれたドラケンに釘を刺されたあとは、死を渇望する気持ちはするすると萎んだ。けれど日々を生きるあいだに何度か、それは訪れた。トイレで用を足している時や慌ただしくシャワーを浴びている時。死の気配はふいにやって来て、オレの背中を押そうとした。驚いてふり返ってみてもそこには何もなくて、何もないことが、むしろ絶望だった。
 独居房の窓を見上げて過ごす眠れない夜、オレを押し潰そうとする不安や焦燥や死の手招きを、星と月の光が慰めた。ぽつんと佇むかすかな光が、あんなにちっぽけなくせにまぶしくて不思議だった。
 一度だけ、柵越しの夜空にひとすじの流れ星を見たことがある。固いベッドに横たわったオレの見つめる先で、それはあっというまに流れて視界から消えた。
 流れ星に願い事をすれば叶う。そんなオカルトを信じたくなるくらい、その時のオレはすべてを諦めていたのだと思う。諦めていて、かなしくて、やりきれなくて、さみしかった。
 口の中で願い事をつぶやいた。声には出さなかった。流れ星はとっくに跡形もなく消えてしまって、そうでなくとも、オレの願いは絶対に叶わないことを最初から知っていた。


01.流れ星


 日中の日ざしはまだ充分にあたたかいのに、夜になると急激に冷えこむようになった。サンダルを履いた足の裏がつめたい。キッチンでたばこを吸おうとすると千冬が「部屋の壁に匂いがつく」と言っていやがるので、オレはひんやりとした風の吹く中渋々ベランダで喫煙している。
 ときどきもらいたばこをするくせに、どの口がそんな文句を言うのか意味がわからない。反論したい気持ちを、でもひとまずぜんぶ飲みこんで、オレはおとなしく外に出るのだった。
 煙を細く吐き出して、空を見上げる。大人になった今はもう、視界は四角形に切り抜かれてはいなくて、夜空も柵越しではない。東京の街の明かりがずっと遠くに見えて、世界は正しく、どこまでも広かった。
 檻の外に出るのはおそろしかった。でも千冬がいたから、そっと声をかけてくれたから、オレはまだ生き延びることを選んだのだった。
「寒くないっスか」
 リビングとベランダを隔てる窓が開いてふり返ると、千冬が肩にフリースのブランケットを羽織った姿で目の前に立っていた。
「寒ぃよ」
 オレは煙と言葉を同時に吐いた。わざとらしくて顔を顰めて。「オマエが意地悪するから、おかげでめちゃくちゃ寒い」
「意地悪じゃねぇでしょ」
 千冬ははだしの足でベランダに出てきた。足、つめたそ。オレが言うと、つめてーっス、と千冬は笑った。
「賃貸だと、部屋ん中でたばこ吸うと退去ん時面倒なんで」
「へえ。じゃあ、マイホームでも買う?」
「アンタってマジでバカっスね?」
 オレの冗談に、千冬は本気らしく返した。オレはへらへらと笑う。
「夢は持ってたほうがいいじゃん」
「途方もない夢よりも、目の前の業務にしっかり向き合ってください」
 ちりり、とたばこの先端が赤く燃える。燃え尽きた灰がこぼれて、ベランダの床に落ちた。儚い赤い灯に、昔見た流れ星の姿を重ねた。
 流れ星も、ほんとうのところは星が燃え尽きる際の一瞬に過ぎない。死ぬ瞬間を見せつけられているだけで、さらには願い事をすれば叶うなんてカルトなことまで託されて、星屑にとってはさぞ迷惑だろうと思う。
 少年時代の記憶――それは不思議と鮮明だった――をたぐり寄せながら、なあ、とオレは千冬に問いかけた。
「千冬は流れ星に願い事したことある?」
 千冬は首を傾げた。なんスか急に、と、怪訝な表情をこしらえて、けれどすぐに真剣な声で言った。顎に指を添えて、そうっスねぇと唸る。
「どうだろ。いや、見たこともないかも、流れ星は。初詣のお参りはあるけど」
「見たこともねーの?」千冬の答えに、オレはびっくりしてしまう。「っていうか初詣とはぜんぜん違げーよ」
「一虎くんはあるんスか? 流れ星、見たこと」
「ある」と、オレは言った。「昔な、ガキのころだけど」
 へえ、と千冬は興味深そうにオレの顔を覗きこんだ。
「願い事、した?」
「した」
「なに、願ったんスか」
 たばこをひと口吸う。舌に苦い味が広がった。煙を細く吐き出し、言葉を継いだ。
「うまれてくる前に戻してくれ、って」
 千冬の表情が途端に曇って、しまった、とオレはため息を吐いた。暗い話などするつもりはなかったのに、どうしても言葉がこぼれてしまう。誰にも言ったことのない話を、でも千冬に、聞いてほしいと思ってしまったのだ。
「いやさ、そもそもオレがうまれてこなかったら、ぜんぶうまくいってたのかなーって思ってさ」
 極力あかるい声で言ったけれど、発した言葉の重みはオレがよくわかっていた。夜風が頬を撫で、髪の毛とピアスが同時に揺れる。りん、りん、と鈴がかすかな音を立てた。
 千冬は目を細めて、肩に掛けたブランケットを胸もとで合わせた。
「……そんなん、わかんないじゃねぇっスか。実際うまれてこないと」
「そう」オレは頷いた。「だから、すげえ残酷だよな、って」
 うまれて、生きてみないとわからないことが多すぎて、オレはずっと苦しくてしかたがなかった。
 正方形に近い四角の窓から見た流れ星は、オレの眼前をあっさりと過ぎ去ってどこかで燃え尽きた。オレの願いなど少しも聞いちゃいないとでもいうように。
 手摺りに置いていた手に、千冬がてのひらを重ねた。あたたかい手。ずっと触れていたくて、さわっていてほしくて、体温を掴んでいたくて、輪郭をたしかめていたくて。――でも、オレはやんわりとその手をほどく。千冬はオレの手を追ってはこなかった。オレが握っていた部分の手摺りをおとなしく掴んで、顔を上げた。
「一虎くんの手ぇ、つめたい」
 こちらを見つめる千冬のまなざしはまっすぐに、オレを射抜いた。オマエが外に追い出したから冷えたんだよ、と喉もとまで出た文句を、飲みこむ。代わりに小さく笑いながら、短くなったたばこを足もとに落とした。サンダルで踏みつけて、火種を消した。
「……今も」
「ん?」
 千冬はふいに目を伏せた。視線から解放されると、オレは途端に心細くなる。見ていてほしい、いや、見ないでほしい。さわってほしい、ううん、さわらないでほしい。千冬への願望は、いつも頭の中でこんがらがっていて、オレ自身どうしたら始末をつけられるのかわからないでいた。
「今も、そんなこと願ってるんスか?」
 オレは無言で俯いた。つめたい空気が体中にまといつく。一瞬だけ千冬にさわられた手はまだかすかにあたたかくて、オレは千冬の体温を欲しいと、心から思った。
「……千冬にどう思われたんだろ。ちょっと怖ぇな」
 引いた? 答えずに、逆に問いかけてみた。引かない、と千冬は首をふった。
「でももうそんなこと、願わないでほしい」
 顔を歪めて、かなしそうな顔をする。そうだ、とオレは思った。
 その顔だけでじゅうぶんなんだよなあ。そういう顔を、してくれるだけで。千冬のかなしい顔を見たいわけではなかったけれど、オレのためにそんな顔をしてくれる千冬がたまらなくいとおしかった。今にも泣き出しそうなのを堪えているような。くちびるをきゅっと結んで、少し不貞腐れているような。
 それ以上、オレは何も望めないし、欲しがれない。オレは千冬に、何も求められない。
「……帰るワ」
 手摺りに背中を向けると、オレは千冬に向かって笑いかけた。千冬は、驚いて目をまるくさせる。まんまるの、青い目。
「泊まってくんじゃないの」
「そのつもりだったけど、やっぱ、いいや」
 千冬は不安そうに眉を顰めた。
「……オレ、なんかしちまいました?」
 オレのためにそんな、不安にならなくっていいのに。そう思いながら、吸い殻を摘み上げてプラスチックの携帯灰皿に押しこんだ。
「なんにもねぇよ」
「……」
「でも今日はちょっと、ウチで寝る」
 納得のいっていない顔で、千冬はくちびるを尖らせる。表情をころころ変える千冬はまるで体だけ大人になっちまったガキみたいで、可愛らしかった。
「それじゃ、また明日、店で」
 おー、とオレは返事をした。サンダルのソールがアスファルトの床を擦る、固い音が夜の闇に響いた。窓を開ける。リビングは照明のおかげで煌々と明るく、ほのあたたかかった。


 千冬の住むアパートからオレの部屋までは徒歩で十分ほどで、だから帰るのが億劫な時はたびたび、どちらかがどちらかの部屋に泊まって翌日一緒に出勤していた。千冬の家にはオレの下着や歯ブラシが置いてあるし、オレの家にも千冬の私物がいくつか、あった。
 ――泊まるのは、平気なのに。
 夜風に髪の毛を遊ばれながら、オレは平たい道路をとろとろ歩く。千冬にさわられた手は、もうオレの体温だけになってジーンズのポケットの中に押しこまれていた。
 一瞬、だった。それこそ星が灰になるくらいの一瞬。千冬はオレに触れた。あたたかな手で、オレに触れた。オレはそれとなく千冬を拒絶した。――オレが逃げたことを、千冬はかなしく思っただろうか。訊いてみるつもりはなかったけれど、もし他人の心が読めるのなら、千冬の心を読みたいと思った。アイツはすなおだからすぐ顔に出るし、わかりやすい。けれど、「ほんとうのところ」を察する能力がオレにはないから、千冬の思っている「ほんとうのところ」が、わからなかったのだ。
 ――すき、なのになあ。
 なんでかなあ。こんなに、さわるのもさわられんのも怖ぇのは。
 千冬にさわられるとオレはたやすく幸せになっちまうから、だからこんなに、怖ぇんだろうなあ。
「すき……なのにな」
 ぽつん、と声がこぼれ落ちる。吐息と混ざってそれは呆気なく空気に溶けていく。顔を上げると、夜空は高い場所にあった。街路の枝のあいだから見える真っ黒の空に、今夜は月も星も見えなかった。
 いくら視界が広がっても、見えねぇものは見えねぇんだな。そんな詩人みたいなことを胸の中でつぶやいて、我ながら、ばかげていると思った。
 やがて見慣れた茶色の建物が、街灯にぼんやりと浮かび上がった。なんだかんだで二年のあいだくらしているアパートは、古くて狭くて、家賃の安さだけが取り柄みたいな建物だったけれど、オレはわりあい気にいっていた。契約更新もする気でいて、きっとこの先まだまだ世話になる。
 昔ながらの鍵を鍵穴に差しこんで、錆びついたドアノブを回す。玄関横のスイッチを押して電気をつけると、がらんとした殺風景な部屋がオレを出迎えた。台所を隔てた一間にベッドを置いてあるだけの、かんたんな部屋。持ちこんだものは少なくて、部屋のようすはここに越して二年の時間を経た今もほとんど変化していなかった。
 靴箱の上に鍵を置いて部屋に入ると、ベッドに体を放り投げた。ぎしりとスプリングが軋んだ。ドラケンから譲られた簡易ベッドだった。そのほかに、三ツ谷が使っていた全身鏡、パーちんの実家にあったというローテーブル――無駄に厳かな模様が描かれている――があった。テーブルの上には、空のペットボトルが卒塔婆のように何本も立っていた。
 オレが出所した時、東卍の創設メンバーたちが協力してかき集めてくれた家具で部屋はできていて、体はそこにすぐに馴染んだ。
 うれしかった。オレを忘れないでいてくれたことが。十年の時間がオレの存在を溶かしてしまうのはかんたんなはずだっただろうに、みんなオレのことを憶えていて、受け入れてくれた。
 東卍がなくなって、マイキーが消えて、世界は変わっちまった。でも、ムショの中で背中を押した「死」から、オレはやっと遠ざかることができたと思った。
 枕に顔を沈めて、深く呼吸をする。染みついたたばこの匂い。いくら洗濯しても取れない匂いだ。
「……たしかに、賃貸でたばこ吸うのはよくねーかもな」
 千冬の嫌がる気持ちが理解できた。……オレも少しは大人になれたんだろうか。


02.朝


 ムショの外で千冬と再会した時、オレは咄嗟に、殺されるんだ、と思った。千冬はパーカーにジーンズというラフな恰好で立っていて、トートバッグを肩に提げていた。キャンバス地の白いトートバッグの中にはナイフが入っていて、それを取り出してオレの心臓に切先を向ける――そんな妄想をしているオレをよそに、千冬は「一虎くん」と笑いかけた。やわらかなほほ笑みだった。
「おかえりなさい」
 と、千冬は言った。まるで買い物から帰ってきた人間に挨拶するみたいな気やすさだった。
 背後に寄り添っていた刑務官が離れて、檻の中に戻っていく。ガ――チャン。重たい音を立ててドアが閉まった。おそらくまた、しばらくのあいだは開くことのゆるされない扉。
 ひゅっ、と。喉の奥で呼吸が絡まった。吸おうとして吸いきれなかった息が、くちびるのすきまから細くもれ出た。いき、とオレは思った。息。ひゅっ。ふっ。ひぅ。酸素を求めれば求めるほどそれは遠ざかり、手を伸ばして掴もうとするとこちらを小馬鹿にするように逃げてゆく。喉を抑えた。体が傾いてゆく。視野が狭まる。指の先が痺れる。息が、できない。
「一虎くん?!」
 くずおれたオレに走り寄って、千冬はオレの肩に、背中に触れた。
「落ちついて。ゆっくり、ゆっくり、息吸って、吐いて」
 背中をさする千冬の手のぬくもりを感じた。癇癪を起こしたガキをあやすような優しい動作。
「過呼吸はね、ゆっくり、落ちついて、息すればなおります」
 次第に酸素が肺に取りこまれ、満ちてゆくのがわかった。ふう、ふう、と大きく肩で息をするオレを、千冬は弱い力で、遠慮がちに抱きしめた。
「ごめんなさい、驚かせちまいましたね」
「……な、んで……?」
 呼吸のあいまに、問う。息ができるようになっても心臓は早鐘を打ち続けていて、オレを抱く千冬の体温にも、どう反応するのが正しいのかわからなかった。
「なんで、オマエ……」
 混乱する頭で、目の前の現実を整理しようと必死だった。千冬の目を見ると、透きとおった湖のような深い色をしていた。困ったように眉を下げて、笑う。
「一虎くんがそろそろ出所するころだってドラケンくんたちから聞いて。っていうか、みんなと連絡取れてたんスね」
「……ドラケンとは、手紙、で、」
 うん、と千冬は頷いた。
「そのへんはドラケンくんから聞きました」
 十年前、面会に来てくれたドラケンとは、その後は手紙のやりとりで近況報告をしていた。身内以外の面会はできなかったけれど、オレの家族が面会に来ることはとうとうなかったから、ドラケンとの手紙がオレと檻の外とを繋ぐ唯一の糸だった。
「……オマエ、オレを殺しに来たの」
 くちびるからこぼれた言葉は、しばらくのあいだ空中に留まっていた。オレの言葉が千冬の耳に届いたのは、声を発してから数秒後だった。千冬は目をまんまるにさせて、ぽかんと口を開けた。
「殺す? なんで?」
 千冬はオレとまるでおんなじ反応をした。は、とオレは息をもらした。
「なんでって、ふつう、そう考えるだろ」
 オレは――、続けようとしたオレを、千冬が遮った。
「今さらっスよ」
「……」
「アンタを殺したって場地さんは帰ってこねぇ」
 その名前を聞いた瞬間、体が強張った。オレらを取り囲む空気が一瞬にして張り詰める。千冬の目は浅く伏せられて、オレを抱く自分の手を見ていた。
 十年前にオレの目の前で死んでいった男――場地圭介を、もはや悼むことしかできないのだと、その事実を十年のあいだに何度も突きつけられた。いや、悼む資格すらオレにはないのかもしれない。だからと言って、死んで詫びることもゆるされない。
 何もかも、すべてが遠かった。
「……だよな」
 オレは心のどこかで期待をかけていた自分に気づいた。自死がゆるされないのだったら、殺されたいと願っていた。オレは卑怯者だから、そうして罪を誰かになすりつけてこの世とオサラバする、安楽な未来を望んでいた。
「バカだ、オレ」
 両手で顔を覆った。小さく丸めた体を、でも千冬がしっかりと抱きしめてくれていた。人間の持つ体温がなつかしかった。昔、ほんとうにほんとうのガキのころ、母親にこうして抱きしめてもらったっけ。そんなことも、あったんだっけ。
 母親ほどやわらかくはない大人の男の腕の中に、この歳になって包まれている不思議を思った。
「バカですよ、アンタは」
 今ごろ気づいたんスか、と千冬が耳もとで囁いた。うん、とオレは頷いた。目のふちから熱い水の塊があふれて、あ、と思うまもなく頬を伝った。
「ああ、あ……っ、うああぁっ」
 ムショの高い高い塀の前で、千冬に抱かれながらオレは声を上げて泣いた。ガキのように、気がふれたみたいに、わんわん泣いた。
「ごめんなあ」
 嗚咽をもらしながらオレは何度も何度も謝った。涙と洟水とよだれでぐちゃぐちゃになった顔を千冬の胸に押しつけた。誰にたいする謝罪なのかわからない。でも声は「ごめん」という言葉にしかかたちをなさなかった。ごめん。ごめんなあ。ごめんなさい。
 千冬はオレを殺すことはおろか、殴ることすらしなかった。オレの体を抱きしめて、ひとしきり泣き喚くのにつきあってくれた。それだけだった。


 :
 
 
 朝のひかりが瞼をなぞって、くすぐったさに目をさました。促されるまま借りた千冬のベッドはしっかりとした白いマットレスが敷かれていて、当たり前だけれどムショのそれとはまるで違った。オレこっちで寝ますからと言って千冬はソファに横たわった。本来ならばオレがそっちで寝るべきなのに、千冬はしつこくオレにベッドを使うよう勧めた。
 カーテンのすきまからもれた朝日が、オレの体をまっすぐに横断して睫毛を撫でた。数回、瞬きをした。眩しさに目を細める。膝を抱えて眠る姿勢はガキのころからの癖で、だから朝起きるときはいつも背中がきゅっと丸まっている。背中を丸め、膝を抱えたままマットレスに体を沈めてゆくと、まだまだ眠れてしまいそうだった。眠気が、波のようにゆっくりと寄せては引いてゆく。布団からも枕からも、千冬の匂いがした。まるで千冬に包まれて眠っているような気持ちになった。
 昨夜は深く、とてもふかく眠った。せっかくだから外食でもしたいとこだけど、一虎くん疲れてるだろうから。そんな気遣いにより、コンビニで弁当と缶ビールを買って千冬の家に向かった。前を歩く千冬に、オレは阿呆のようにくっついていった。迷いのない足取りに、オレは却って戸惑った。千冬が何を考えているのか、まるでわからなかった。
 繁華な駅前を通りアーケードを潜り抜けた場所にある千冬のアパートは、意外にもさっぱりと片づいていた。
 大きな家具といえばシンプルなかたちのソファとベッド、本棚があるだけの広めのワンルーム。ベランダへと続く窓からは、茜と藍の混ざり合った複雑な色の空が見えた。
 ローテーブルに買ってきた弁当と飲み物を広げて、向かい合って食べた。コンビニでの支払いはすべて千冬持ちで、あとでちゃんと返すよ、とオレは弱々しく言ったのだけれど叶えられる自信はまるでなかった。ムショから出たばかりのオレに、外で働き、自立して生活する姿はとうてい想像できなかったのだ。
 シャワーを借りて髪と体を清潔にし、ベッドに横たわるとオレはすぐに眠りに落ちてしまった。
 千冬がオレを迎えにきたこと、自分の家に連れてきて、食事とシャワーとあたたかい寝床を与えてくれたこと。――なんで? と、心底思った。あまりにも千冬がわからなかった。なんで、オレにここまでするのか。なんで、手を差し伸べるのか。
 でも、思考するまもなく瞼は落ちた。気がつけば朝になっていた。
「ちふゆ」
 枕を抱きしめながら、そっと名前を呼んだ。昨日再会してから、オレはまだ千冬の名前を呼んでいなかった。千冬はオレを、ちゃんと名前で呼んでくれたのに。
 ちふゆ。自分にしか聞こえない小さな声を出すオレはひどく臆病で怖がりで、情けなかった。
 洟を啜って、ふたたび枕に顔を沈めた。
 
 
 目がさめたのは、コーヒーのこうばしい匂いが鼻先を掠めたせいだった。身動ぎをして目をひらく。カウンターキッチンに、パジャマ姿の千冬が立っているのが見えた。
「……ちふゆ」
 寝ぼけまなこをこすりながら声をかけると、千冬は顔を上げた。湯気の立つマグカップを両手で包み持っていた。
「おはようございます」
 律儀に挨拶をする千冬に、おはよ、と短く返す。喉がからからに渇いていた。千冬はゆっくりとオレに近づいて、「座っていいですか? ここ」とベッドの縁を視線でしめした。オレは頷いた。
「一虎くん、ぐっすり寝てましたね」
 ベッドに腰をおろして千冬はくちびるの端を持ち上げた。マグカップをローテーブルの上に置く。
「……一回起きた、けど」
 二度寝した、とオレは不必要な弁明をした。
「起こしてくれりゃあ、よかったのに」
「あんなにすやすや眠ってるとこ起こせるほど、オレは鬼じゃねぇっスよ」
 しし、と笑う千冬の表情は穏やかで、オレの記憶の中を生きる十三歳だったころの松野千冬と、咄嗟には一致しなかった。
「オマエ、変わった? なんか」
 布団にくるまった状態で、オレはつぶやいた。ええ、そうっスかねぇ、と千冬は首を傾げた。
「でも十年、経ちますもん」
 心臓が、ごとりと鳴った。オレとコイツは、十年前の時間を共有している。オレの目の前で場地の体が崩れた、その向こう側にいた千冬の姿をオレは見たのだ。
 そして十年前、死んだ場地を抱きしめた時と同じ手で、千冬は昨日、オレに触れた。
「……壊すことしかできないのにさ」
「え?」
 十年前の十月三十一日の抗争で、オレは千冬のたいせつなものを壊した。壊してしまったものが帰ってくることは二度とない。だというのに、コイツは。
「オレには壊すことしかできなかったのに」
「……一虎くん?」
 なのになんで。コイツは。
「ごめん」
 大粒の涙があふれて、頬を、顎を、伝い流れた。声がふるえて、どうしようもない恐怖がオレを包んだ。ちふゆ、とオレはふるえる声で千冬を見上げた。
「ころして」
「ちょっ、ちょっと?!」
 千冬の両手首を掴んで、オレは懇願していた。千冬のてのひらを首に添わせて、訴えた。ころして。しめて。くび。このまま。ころして。
「バカっ、やめろって!」
 思いきり手を振りほどかれて、肩をベッドに押しつけられた。途方にくれるオレを、千冬はつよいまなざしで睨みつけた。
「バカな真似すんな!」
 オレを押し倒すかたちで覆い被さり、千冬は低い声を放った。大人の、男の声。体がふるえた。
「そんなことしたって、オレはアンタを殺さない」
「……でも、」
「なんべん頼まれても、……土下座されたって、絶対に殺さない」
 はくはくと息がもれるオレは死にかけの魚みたいだった。涙があふれて、こぼれて、止まらない。
 頬を伝う涙が枕カバーとシーツを濡らした。肩を抑えつけていた千冬の手が離れて、体がふっと軽くなった。
「すんません」
 カッとなっちまって、と唇を尖らせて、千冬はバツの悪そうに顔を顰める。
「……なんでオマエが謝んだよ」
 悪いのは完全にこっちなのに。居た堪れない心地で、上体を起こした。伸びた前髪がぱらぱらと顔にかかって、うっとうしい。
 髪の毛を掻き上げながら千冬の隣に膝を抱えて座った。頬は涙で濡れていたけれど、さんざんな姿を見せた今さら、隠そうという気はまるで起きなかった。
「オレ、生きていていいのかな」
 つぶやく。それは何度も思考に飛来してきた問いかけだった。自問して、答えを求めてさ迷ってる。ずっと。
 千冬はそれには答えず、オレの顔を見つめてそっと手を伸ばした。
「髪の毛、伸びましたね」
 額に波打つ髪をゆびの先で払い、オレの目を見つめる。ん、と喉の奥で返事をした。
「いっそのこと伸ばそうかな」
「いいんじゃないっスか、イメチェン。今の一虎くん、ちょっと陰キャっぽいし」
「うるせーよ」
 千冬は無邪気にわらって伸ばした手を引いた。髪の毛をさわられただけなのに、心臓が痛いくらいに鳴っていた。
 千冬の体温を感じると、体が勝手に身構えてしまう。怖い、と怯んでしまう。それは殺されるかもしれないという気持ちとは無関係な、まったくべつの場所から発生するふしぎな感情だった。
「朝メシにしましょ」
 そう言って千冬は立ち上がる。オーバーサイズのパジャマは丈がやや長いようで、裾をわずかに引きずっていた。
 斜め上から笑みを向ける千冬には、ガキだったころの面影がきれいに宿っている。


03.みずうみ


 まるいまなこがオレをじっと見つめていた。深い森の奥にひっそりと佇む、湖のような澄んだ瞳だった。そこに映りこんだ自分の顔を、オレはじっと見つめかえす。ハイネックの薄手のセーターに隠されて、首の刺青は今は見えない。
「かわいいでしょう」
 背後に立った千冬の声はどこか誇らしげだった。腕には体重測定を終えた仔犬を抱えている。
 毎朝出勤するとまずはあつかっている動物たちの健康管理から始まる。検温、体重測定。必要ならば爪のケアも。休暇明けに店に来ると、見覚えのない黒猫が真新しいケージでおとなしくしていた。
「きょうからウチの家族っス」
 仔犬をケージにそっと戻してやりながら、千冬はオレの隣にしゃがみこんだ。
 ちいさなケージの中で、その黒猫は身動きひとつせずにオレを見ていた。毛並みはととのっておらずボサボサで、顔つきも生意気そうだけれど、青色の目はどこまでも深く透きとおっていた。誰かに似てる、と思った。そうして、すぐに合点がいった。隣に座る千冬の顔を見やると、オレの視線に気づいて千冬は首を傾けた。
「なんスか?」
「いや、コイツ千冬に似てんなって思って」
「ええ?! 似てないでしょ!」
「似てる。目の色とか特に」
 黒色の毛がボサボサだったり、生意気そうな顔だったり。あとに続けようとした言葉は飲みこんで、オレは猫に手を伸ばした。ゆびを近づけるともの珍しそうな顔で匂いをかいでくる。かすかなあたたかさを感じた。いきものの持つ、あたたかな体温。
「オレはペケJに似てるって思ったんスよ」
「ペケ?」
 ガキのころ、千冬が可愛がっていたという猫のことを思いだす。名前をペケJと言って、店の名前はその猫からもらった。元々の名前はエクスカリバーだったらしいけれど、その猫に懐かれていた場地がペケJと名づけたので、千冬もそれに倣ったそうだ。
 いいのかよ命名権場地に譲って。ずっと前にペケの話をはじめてされたとき、オレが問うと千冬は「場地さんがペケJっていうんならそいつはペケJなんっスよ」とわらっていた。
「じゃあ、コイツはペケの生まれ変わりかな」
 ペケはある日突然いなくなったそうだ。いくら名前を呼んでも現れなかった。時間は流れて季節もどんどん過ぎていった。とうとう帰ってこなかったペケは、たぶん死んだのだろうと千冬は話してくれた。猫は死期を察すると人の元を離れて自分だけの死場所にいくんですって。そこでひとりっきりで死ぬんだってききました。
 寿命を考えれば、猫だって少なくとも十年は生きるはずだから、生きていてもおかしくはなかった。たとえ生きていたとしても、ペケは自分で自分の居場所を見つけたんスよ。そう言った千冬の顔はさみしそうだったけれど、すべてを理解し納得しているように見えた。
 オレの匂いをたしかめるように鼻を動かす猫――千冬いわくペケJは、やがてざらついた舌でゆびをペロリと舐めた。そのやわらかく生ぬるい感触に、思わず「ぎゃっ」と声を上げてしまった。
「ああ、お腹すいたんスね。ごはんの時間だ」
「噛まれそう、怖い、千冬たすけて」
「ちょっとそのまま動かないでいてください。びっくりしちゃうんで」
「千冬うう」
 まだ動物の扱いに慣れていないオレをその場に置いて立ち上がり、千冬はいそいそと給餌の準備を始める。オレは動くことを禁じられ、ペケにゆびを舐められつづけた。
 目線を送るとオレのゆびになにか味でもついているのだろうか、ペケは無心で舌を動かしていた。ひどくくすぐったかった。
 こんなに小さないきものでも、生きるためにものを食おうとしていることが、妙にオレの心に響いた。
「えらいな、オマエ」
 かたほうの手で、ペケの頭を軽く撫でた。そのときだ、ペケが勢いよくゆびに食らいついたのは。
「いっでええええっ!」
「一虎くん?!」
 オレの悲鳴に千冬が慌てて駆け寄ってくる。甘噛みなんてかわいいもんじゃあない、マジ噛みだった。なのにペケは平然とした表情で、オレを見上げていた。
「か、噛まれた……」
「あー、びっくりしちゃったんスね」
 かわいそうに、と言う千冬はあきらかにペケの心配しかしていなくて、オレはくちびるを尖らせた。
「オレのことも心配してくれよ」
「なにを今さら。昔さんざん喧嘩してきたじゃあないっスか」
 ちょっと噛まれたくらいで大袈裟な。千冬は呆れたようにため息をついた。コイツの言っていることはもっともで、昔してきた喧嘩の怪我とは比べものにならないくらいの些細な痛みと傷だった。痛い、と言うのも憚られるくらい。
「そりゃあ、そうだけど」
「でも、一虎くんは優しいっスね」
 ペケを抱え上げて腕に抱くと、千冬はオレを見てわらった。
「は? なんで」
「だってコイツがゆびを吸ってるあいだ、ちゃんと動かずにいてくれたじゃあないっスか」
「……オマエが、動くなっつったから」
 オレは噛まれたゆびに視線を落としてつぶやく。千冬は首をふって、
「アンタは優しいから、この仕事向いてますよ」
 ペケは千冬の胸に抱かれて、満足そうに目をほそめている。どうやら早くも千冬に懐いているらしかった。
 千冬に言われた言葉が頭の芯を叩き、反響した。向いてる、なんて、今まで誰からも言われたことがなかった。千冬は、学歴もない、職歴もないどころか、前科持ちのオレに働く場所を与えてくれた。接客業なんてとうてい無理だと思っていたから、最初はバックヤードでの在庫管理や、掃除の仕事をおもに任された。そのうちにあつかっているさまざまないきものたちの世話も見るようになって、今は店頭に立って接客までしている。「生きているもの」を相手に仕事ができる、なんて。十年前のオレには、無理だった。でも、今はできている。震えが止まらない夜をいくつも越えた場所に、今、オレは立っているのだった。
「コイツのごはん終わったら、開店準備するんで」
 ペケをケージに戻して、千冬は皿に盛った仔猫用のペットフードを置いた。待ってましたとばかりに餌にがっつくペケを見て、いきものの持つ力強さをやはり感じた。
「……ゆび、どーしたらいい?」
 生体に噛まれたり、引っ掻かれたりしても絶対に傷を舐めたりはしてはいけないときつく言われていた。千冬はようやく気づいたように、立ち上がってオレの手をとった。千冬の手がオレの手に触れ、噛まれたゆび先を検分する。オレより少し低い位置にある頭。目。鼻。ツン、と尖っているくちびるの先。
「血は出てないんで、消毒だけでよさそうっスね」
 ひさしぶりに、千冬の顔をまじまじと見つめることができた。家にいるときは千冬がそばに来るとすぐ逃げ出したくなってしまうというのに、ここが職場だからか、噛まれたことで気が動転してしまっているからなのか、とにかくオレは目を逸らさずにいられたのだ。
「……一虎くん?」
 気がつけば、オレは千冬の右手を両手で握りしめていた。
 千冬の体温がオレの手をじわりとあたためていく。その心地好さに、さっきまでの動悸がおさまってくる。これが、たぶん、安心、というものなのだろう。ほんとうは千冬に触れてほしくて、さわっていてほしくてたまらなかったのだ。触れてくれたら、オレは安心できたから。
 ぎゅ、と力をこめるオレの手のその上に、千冬は手を重ねた。そうして、優しく包みこむ。
「痛い?」
 千冬は問うた。上司という立場を抜きにした口調で。まるで家にいるときみたいな穏やかな発声で。
「も、大丈夫」
 オレの声はか細かったけれど、誤魔化そうとする気は、なかった。千冬ははらりとわらった。
「そっか。よかったです」
 消毒します、とオレの手を離し、救急箱を取りにレジ台へと向かう。エプロンをつけた後ろ姿を視線で追った。腰のあたりで結んだ紐が、動物の尻尾みたいに揺れていた。


 :


 気がつけば窓の向こうは夜の闇にとっぷりと覆われていた。壁掛け時計が十九時を示し、ドアの鍵はもう施錠されている。動物たちのかすかな鳴き声――眠っているヤツらの寝息も含めて――が響く店内はレジ周りだけにあかりが灯されていて、全体的にうす暗かった。
 掃除用のモップを片づけると、残った仕事がないか店を見渡す。バックヤードにも周り、在庫を数えた。いきものたちのケージを一つひとつ見て、餌と水に過不足がないかを確認する。小さな店だからあつかっている生体は少ないけれど、いかんせん従業員がオレと店長兼経営者の千冬のふたりだけなので、一人当たりの業務量はかなり多い。それでも不思議と、苦痛は感じなかった。いきものの、生命の気配を浴びながらの仕事だからか。とても信じられないけど、やっぱりオレはこの仕事に向いているのかな、なんてことを思ってしまう。
「テンチョー、掃除とかいろいろ終わったけど。あとなんかない?」
 レジ締めをしている千冬に声をかける。千冬は顔を上げてオレと、時計を交互に見た。
「あ、すんません、時間過ぎてましたね」
 売上管理があまり得意ではない千冬は、レジ締めの作業になると集中力をすべてそちらに傾ける。もともと、さほど勉強ができたわけではないから当然なのだけれど、それでも必死こいて経営について学んで、結果こうして立派に店を構えているのだから大したものだと思う。
「ありがとうございます。上がってください」
「はあい」
 エプロンの紐を外しながら、窓の外を見やる。すっかり暗くなった商店街は人通りもまばらで、あかりのついている店も僅かだ。夜の闇にほんの少しだけ、こころぼそい気持ちになった。
 なあ、とオレはレジのそばに寄った。千冬がふたたび顔を上げてオレを見た。
「きょうさ、オマエんち、行っていい?」
 飯、つくって待ってるから。そうつづけると、千冬の表情がぱあっと輝いた。
「え、つくってくれるんスか?」
 珍しー、と千冬の目がまんまるになる。
「あんま期待すんなよ、簡単なもんしかつくれねーぜ」
「ぜんぜんいっスよ! じゃあこれそっこー終わらせて帰るんで!」
 互いの家を頻繁に行き来するようになってだいぶ経つけれど、オレが率先して飯をつくることは滅多になかった。料理の経験なんて皆無だからレパートリーもないし、味の保証もできない。ネットで調べてつくってもなぜかおかしなことになるのが常だったから、料理は極力避けてきたのだ。でも今夜はなんとなく、千冬に自分がつくった飯を食わせたいと思ったのだ。日中、手を握ったときに伝わってきた体温が体の奥に残っていて、いちにちかけても消えなかった。それとどう関係があるのかはわからなかったけれど、千冬になにかしてやりたいという気持ちがあるのは、たしかだった。
「そんじゃ、とりあえず先帰るな」
「鍵、ちゃんと持ってます?」
「持ってる、持ってる」
 オレはポケットから合鍵を取り出す。出所後しばらくしてひとり暮らしをはじめたオレに、なにかなくてもいつでも来てくださいと手渡された合鍵だった。ぶら下げているのは、ガチャガチャで取ったチープなキーホルダーで、千冬と色違いだ。
「じゃあ、待ってるな」
 片手を挙げて、裏口から店を出た。ドアを押しあけた途端にひゅうっと風が吹きぬけて、薄手のパーカーの裾をはためかせた。秋が終わりつつあった。街路の枝は日に日に葉を落としていき、風をうけて寒そうにしている。いつのまにか見知ったものになっていた商店街を、出口に向かって歩く。仕事終わりは遅くなるから、買い物をするときは駅前のスーパーに行くことにしていた。
 歩いて15分程度の場所にある24時間営業のスーパーは、いつ行っても混雑している。スマホの画面を見ると、二十時半に差し掛かろうとしていた。なにをつくろうか、っていうか、なにをつくれるんだ? オレは。ネットをひらいて「料理 初心者」「レシピ 簡単」「時短 うまい」などで検索をかける。けれど出てくるのは複数の食材と、小麦粉や片栗粉や塩や胡椒や唐辛子などの調味料をあれこれ組み合わせてつくる料理ばかりで、ちっとも参考にならなかった。すぐにつくれて腹を満たせるうまいメシだよ! 苛々しながらとりあえずカゴを持って店内をうろつく。千冬が何時に帰ってくるかわからないけれど、とにかく工程がシンプルで失敗しない味つけのもの、オレでもつくれるようなもの――結局、「カレー・シチュー・スパイス」と書かれた陳列棚の中からCMでいちばん名前をきくメーカーのカレールーを選び、野菜コーナーに戻ってじゃがいもと玉ねぎとにんじんをカゴに入れる。最後に肉を選び、会計を済ませてスーパーを出た。カレーならルーを入れるだけで味つけしないで済むから、オレでもたぶん大丈夫なはずだ。
 ほんとうはもっと手の込んだものをつくりたかったけれど、それはカレーを成功させてから考えよう。
 頬を撫でていく夜風がひんやりとつめたくて、気持ちがよかった。気がつけば顔じゅうが紅潮し、ほてっていた。スーパーのビニール袋を提げたまま、片ほうの手で頬に触れる。皮ふは、ひどくひどく熱かった。


04.指


「ただいまあ。あー、めーっちゃいい匂いする」
 玄関のドアがひらいて、千冬は部屋に入るなり鼻をひくつかせた。
「おかえり」
「カレー? うまそ」
 ワンルームの部屋は玄関の隣がすぐに簡易キッチンで、千冬は靴を脱ぎながらオレの手もとを覗きこんだ。
「一虎くん、カレーつくれたんスね」
 千冬は感心したように言った。
「カレーなんてルー入れるだけじゃん」
「いや、野菜とか切れたんだなって」
「それは、……頑張った」
「あはは」
 風呂場で手を洗った千冬が、オレの隣に立つ。カレーはかんたんだ、なんていうのは、普段料理をしないオレには通用しない幻想であると知った。まず、野菜を切るところから躓いた。皮剥きが特に関門で、そこを乗り越えるのにかなりの時間を要した。カレーふたり分にたいして、じゃがいも二個とにんじん一本、玉ねぎ一個。それだけの材料に苦戦しながらなんとか切り終え、肉を炒めていると今度は鍋の底に肉がくっついて剥がれなくなった。せっかく買った肉は破けてボロボロになり、なんとかかたちを留めている数個は貴重だった。味つけだけはまちがいがないはずだ。市販のルーを入れたのだから。
「野菜、ごろごろしてる」
 千冬がボソリとつぶやく。
「……悪かったな。うまく切れなかったんだよ」
 くちびるを尖らせるオレに、千冬はにっこりとわらった。
「いや、野菜大きめにごろって入ってるヤツすきっス。おふくろもそうだったんで」
「え、なにオマエ、マザコン?」
「ちがいますよ!」
 頬を膨らませて否定する千冬が、つぎの瞬間「あっ」と声を上げて鍋の取っ手に添えたオレの左手首を掴んだ。その瞬間心臓がごとり、と動く。
「なに」
 オレはわずかに身を引いた。素早い動作に、少しだけ怯えた。千冬はオレの左手を顔の前に持ち上げて、
「どしたんスかこれ。血ぃ出てる」
「え? うそ」
 見ると、たしかにゆび先に血が滲んでいた。痛みもなかったから、まるで気づかなかった。
「あー。皮剥きのときかな」
「擦っちゃったんスか? 痛そ」
「痛くねーよ。なんならペケに噛まれたときのが痛かったよ」
 冗談半分、本気半分でオレはいう。ペケに噛まれたときはこんなふうに反応してくれなかったくせに、店と家とで態度が変わりすぎる千冬がおかしかった。
「だってあれは出血もしてなかったし……、たいしたことないと思って」
「べつにこれだってたいしたことねーよ」
 カレーはくつくつと煮え、華やかなスパイスの匂いが部屋いっぱいに満ちていく。
 かちり、と音がしてコンロの火が消えた。見ると、千冬がスウィッチのつまみを捻ったところだった。え、と思ったときには、人差しゆびは千冬の口の中に吸いこまれていた。
 第一関節のところまでぱくんと食べられ、咥内のあたたかさを皮ふの面積いっぱいに感じた。動揺のあまり、オレの思考と体は完全にフリーズした。
 え、なんで――、なんで? 疑問符がぽこぽこと浮かんだけれど、それを口にすることができない。千冬は舌を器用に動かしてゆびを舐め、吸った。
「へ、ぇ、」
 オレの口からなんの意味もない声がもれる。それはどうしようもなく情けないもので、千冬にはあまりきかれたくないものだった。
「……あ、止まった」
 ひとしきり吸われたあと、ゆびが解放される。千冬は平然としていた。オレだけが混乱の極みにいて、なんだか惨めな気持ちにさえなる。
「な、にが」
「血」
 ああ、とオレはゆび先を見た。滲んでいた血は拭われ、本来あるべき肌色が姿をあらわしている。
「ってか、傷口に口つけたりしちゃ、だめじゃん」
 研修のときからしつこく言われていたことだ。だからペケに噛まれたときも、おとなしく消毒を待った。千冬はくちびるを舐めて、
「生体に噛まれた傷じゃないから、いいんスよ」
 飄々と、言った。
「……なに、それ」
 都合いいなあ、とオレは思った。思ったけれど、声には出さなかった。千冬に吸われたゆびが、まだ熱を持っていた。千冬の体温をそっくりそのまま移されたような。咥内のぬめってあたたかな舌の感触とか、少しだけぶつかった歯の硬さとか――そういうのが、じんわりとゆびに残って、胸が苦しくなった。
 火を止められても、余熱がカレーをあたためていた。しかし次第に鍋が奏でる音は遠のいていく。煮えた野菜たちはきっとくたくたで、じゃがいもは溶けてしまっているかもしれない。それはそれで美味いのかも、だけど。冷めないうちに、ごはんよそって食いたい。はやく、皿を用意しなきゃ。せっかくつくったんだから、美味いうちに食べてほしい。さまざまな考えが頭を駆け巡っていくのに、体が動かなかった。立ち竦んでいるオレに、千冬の手が伸びてくる。頬に、触れる。一虎くん、と千冬のくちびるが、動く。
「キス、していい?」
「え」
 オレを見上げて、千冬は言った。瞳を見下ろすと、ペケに似ている青い目の奥、湖のようなそこにオレの顔がうつっていた。オレは目をまるくさせて、完全に千冬に怯えていた。強張った表情。下がった眉尻。近づいて、千冬の息がかすかに頬にかかった。オレはぎゅっと目を瞑った。
「――ごめん」
 声がしたと同時に、体温が離れていく。オレは目をあけて、喉の奥で声をもらした。
 千冬は頬をまっ赤にして俯き、口もとをてのひらで覆っていた。
「ごめんなさい。忘れてください」
 そうして千冬はオレの横を通り過ぎ、おもむろに流しの上の棚をあけると、カレー皿を二枚とコップをふたつ取り出して、作業台に並べた。
「せっかくつくってくれたカレー、冷めちまいますね」
 食べましょ、と千冬は言った。突っ立っていたオレの体はその一言でようやく動きだした。それでも、心臓の音は鳴り止まない。近づいた千冬の体温と息の感触が、体にねっとりとまとわりついてしまったみたいだった。何事もなかったように振る舞う千冬を、ずるいを思った。オレはこんなに動揺して混乱してるってのに、コイツは。
 炊飯器からごはんをよそう千冬の横顔を、オレは見つめた。頬がほんのりと赤かったけれど、やがてその赤色も見えなくなってしまった。


 オレらは恋人どうしなんかじゃあなかったけれど、もしかしたら千冬は、オレが好意を抱いていることを早いうちから知っていたのかもしれない。
 バスタブのあたたかい湯に体を浸しながら、千冬に吸われた人差しゆびを見つめた。皮がめくれているものの、出血のあとはどこにもなかった。痛みもない。なのに、いつまでもそこになにかが残っていた。
 ――すき、なのにな。
 拒絶してしまうのは、これで何度めになるだろうか。
 千冬から唐突にキスを仕掛けられて、まず感じたのは恐怖だった。こんなことがあってはいけない、と思った。たくさん触れたいし、触れてほしいのに、他人の体温が怖くてたまらなかった。誰かの体温であたためてもらうなんて、オレには一生ゆるされないから。
 口もとまでを湯に沈める。ちゃぽ、と水面が跳ねて垂れた前髪を濡らした。
 千冬のことがすきだった。でも、それは想うだけでよかった。千冬とどうにかなりたいなんてことを考えると体が竦んでしまうから、アイツのそばにいられるだけでよかった。
 膝を抱えて俯くと、水面に自分の顔がうつった。乳白色の入浴剤を入れた湯にうつるオレは、腑抜けたような表情をしていた。
 千冬のキスを受け入れていたら、今ごろ、オレらの関係はどう変わっていたんだろうか。ちゃんと恋人になれていた? それとも、ただのいたずらだってわらわれて、終わってた? そもそも、オレは千冬とどうなりたいんだろう。
 深いため息をつくと、あぶくがぼこっと立ち上がった。目のふちが熱くなってきて、気がついたときには涙がこぼれ落ちていた。涙はぽとぽとと落ちて水面にいくつもの波紋を拡げていく。
 幸せになんかなれない。そう覚悟していたはずなのに、こんなにも胸が痛くて苦しい。心の奥底で、ほんとうは、ずっと誰かを待っていた。さみしくてさみしくて、まっ暗なその場所はつめたくて体はどんどん冷えていって、誰かにあたためてもらいたかった。――それが千冬であればいいと、思っていたのだ。
「……幸せになんか、なれねぇよ」
 低くつぶやいて、バスタブから体を引き上げる。涙は止まることなく流れ続けて、頬を、顎を伝い落ちてぱらぱらと散った。

 タオルを肩に引っ掛けてリビングに戻る。千冬はソファに座ってテレビを眺めていた。オレに気づくとふり返って、「ドライヤー、つかってくださいね」と言った。
 ガチャガチャと騒がしいバラエティ番組が、CMに切り替わる。ビールを旨そうに飲む男のタレントが、満面の笑みを浮かべているCM。
「あー、ビール飲みたい」
 千冬がひとりごちた。
「飲んだら? なんか冷蔵庫に入ってたけど」
 たしか冷蔵庫の奥のほうに、CMとおなじ銘柄の缶ビールが冷えていたはずだった。チェストからドライヤーを取り出しながら、オレはいった。千冬はソファの上で体育座りをして、「うーん」と唸った。
「あしたもあるし、やめときます。もう遅いし」
「……ふうん」
 時刻は十二時半を過ぎたところで、先に風呂に入った千冬の頬はまだほんのりとほてっていた。
 泊まるつもりはなかったのに、食事の後片付けをしているうちに夜はどんどん深まり、いつのまにか深夜になっていた。泊まっていっていいっスよ、と千冬がいうのに、オレはあいまいな返事をした。うん、とも、ううん、とも取れない、どっちつかずの返答。千冬もまた、それ以上しつこく追って来なかったのは、食事前の出来事を考えていたからかもしれない。
 ふたりで食器を片付けたあと、千冬が沸かしてくれた風呂に入った。そのあいだオレは、帰るべきかどうか、ずっと迷っていた。泊まったところでなにも変わらないけれど――そう思いつつも、淡い期待を込めている自分の存在に気づいていた。
 姿見の前にあぐらを掻いて、ドライヤーの温風を髪に当てた。このアパートには独立した洗面台というものがないから、泊まるときはいつもこうしてリビングで髪を乾かす。千冬に背中を向けるかたちで座り、乱暴に髪の毛をかき混ぜていると、金色に染めた前髪が視界に幕のようにおりてくる。
「一虎くん」
 ふいに声がきこえて、ふり返るより先に背中になにかが押しつけられた。それが千冬の額だと気づいて、心臓が跳ね上がった。ドライヤーのスウィッチを切って、鏡越しに背後を見た。オレの体に隠されて千冬の姿はよく見えなかったけれど、ガキがいじけるみたいに、膝を抱えて頭をオレの背中に凭れていた。いつのまにかテレビは消えている。音のなくなった部屋に、ふたり分の呼吸音だけが静かに流れた。
「ちふ、」
 ちふゆ、と言いかけて、鏡の中の千冬の目と視線が絡んだ。青い目は、ペケにそっくりだった。
「さっきは、ごめんなさい」
 ドライヤーを片手に持ったまま、千冬の声に耳を傾けた。
「なんか、いろいろ堪えられなくなっちまって。困らせるだけだってわかってたんスけど……」
「……ん」
「一生懸命な一虎くん見てたら、ほんとうに、オレこの人のことがすげぇすきだな、って思って」
 キス、したいなって思ったんスよ。千冬はぼそぼそと続けた。その顔が赤くなっているのが、鏡越しにもわかった。
「オレのこと、すきなの、オマエ」
 声が震えていた。ききたいような、ききたくないような気持ちで、問うた。うん、と千冬は頷いた。
「すきですよ」
「なんで」
 なんで、こんなヤツのこと、わざわざ。オマエならもっと他にいっぱい、いいヤツいるだろが。
「……わざわざオレなんか、相手にすんなよ」
 前科モンだぞ、とオレは自嘲した。オマエのたいせつな男を殺した。オマエにひどい思いしかさせなかった。そんなオレをすきになる理由、ひとっつもねぇだろ。
「なんで一虎くんが泣いてんスか」
 言われて、オレはようやく自分が涙を流していることに気がついた。息が苦しくなって、何度も嗚咽をもらす。肩を上下に激しく震わせる。その肩を、千冬が遠慮がちに抱いた。
「我慢してたのに、オマエのせいで台無しじゃん……」
「え?」
 息継ぎのあいまに言葉をこぼす。
 我慢していた。すきだなんてぜったいに口にしないように。口にしたらオレは、たやすく幸せになってしまうから。
「オレがっ、幸せになっていいわけねぇもん……っ」
 千冬は力をこめて肩を抱く。オレは顔を千冬の胸に埋めて、まるでガキみたいにわんわん泣いた。いい年をした男でもこんなふうに泣けるのかよと、自分でも驚くくらいの泣きっぷりだった。
 千冬は引くことなくオレを抱きしめていてくれた。背中をさすってくれる手があたたかくて、よりいっそう涙が出た。


05.正夢


 ラグの上に体を倒し、ふたりして寝転がった。ラグは毛足が短くてうすいから、フローリングの硬さがじかに伝わる。それでもお互いに、ベッドに行こうとは提案しなかった。泣き腫らしたまぶたが、眠気に従って今にも落ちてきてしまいそうだ。目の前で千冬はオレの目を見つめている。手が伸びてきて、オレの頬をするりと撫でた。
「千冬は、オレとなにしてぇの」
 オレはすなおに問うた。恋人どうしならば当然それなりのことをするんだろうと、恋愛経験がないなりに想像だけはできたから、目を逸らさずにきいた。千冬は首をわずかに傾けて、
「なに、って?」
 と、かえした。不思議そうに目をまるくさせて。
「べつになにも、しない」
 なにかしなきゃないってのも、おかしいでしょ。千冬は口の端を持ち上げた。
「一虎くんがしたくないなら、それでいいんス」
 そんなことがあるのか、とオレは驚いていた。だいたい――それもすべて想像のものだけれど――恋愛というのは性愛が隠れていて、必ず、セックスがついてくるものだろうと思っていたから。
「千冬は? オレとしたくねぇの?」
 それで、そうきいた。千冬はこそばゆそうに表情を崩した。そしてもう一度オレの頬に手を当てて、「べつにセックスが目的じゃねぇんで」と言った。
「でも、そーいうかたちで一虎くんを満たしたいって思ってるのは、まあ、そうです」
「やっぱ、してぇんじゃん」
 うん、と千冬は頷いて、オレの頭を抱きしめた。オレとおなじボディソープの匂いがした。
「いろいろ、してやりてーんです。アンタに、いろいろ」
「……いろいろ」
「キスとか。あとそう……なんか、いろいろ」
 そっか、とオレは言った。そっス、と千冬は言って、オレの頭を深く胸に抱いた。
 体が、千冬の体温で満たされていく。それは信じられないほどの幸福をオレに与えた。
「幸せになっちまうよ」
 オレは千冬の腕の中でつぶやく。このままじゃあオレ、幸せになるよ、と。
「千冬にさわられんのは、すきだ。気もちいい」
 もっとさわってほしいって、思う。抑えていたことばたちが、澱みなく口から溢れ出る。
「アンタそれは、オレのことがすきってことですよ」
 千冬の声が耳もとをくすぐる。また、涙が滲みそうになった。
「人のことすきになったって、いいじゃないっスか」
 誰かをすきになって、それで幸せになったって。
 ん、とオレは頷いた。
 床に散らばった髪が、ラグの上で波打っていた。まだ湿っている髪の毛を、でももう乾かそうという気にはなれなかった。まぶたがひどく重たかった。眠い、寝そう。つぶやいたオレに、千冬は「寝てください」と言った。ついでみたいに頭を撫でて。
 目を瞑る。途端に暗闇が視界を覆う。体は千冬に抱かれてあたたかい。ふと、額にやわらかく湿ったなにかがふれた。それが千冬のくちびるだと気づいたのは、夢に落ちるまぎわの、わずかな一瞬のことだった。あ、と思うより早く、オレはするすると眠りに落ちていった。


 
 目がさめたとき、目の前に千冬の寝顔があった。のんきで健やかな寝顔をしばらくぼうっと見つめる。固い床に寝たせいで、体のあちこちが痛かった。いい年こいて変な場所で寝るもんじゃねぇな、とつくづく思った。
 体を横向きにして、オレに顔を見せて眠る千冬の表情はほんとうにアラサーかと疑いたくなるほど幼いものだった。もともとの童顔がいっそうあどけなく見える。重たげな前髪を額に散らして、すやすやと寝息を立てる千冬を見ているうち、体が勝手に動いていた。近づけた顔に、千冬の息がかかる。構わず鼻の頭をくっつけると、オレはハッとして身を引いた。自分の行動に自分で驚く、なんて、バカみたいだ。千冬はかすかに呻き声を上げたけれど、目をさますようすはない。
 鼻と鼻を触れあわせるだけのスキンシップは動物じみていた。人間も動物だからな、とわれながら意味のわからない言い訳をして、そっと体を起こす。寝たあとに千冬がかけてくれたのだろうタオルケットを、千冬を包むようにかけて直してやる。
 窓辺に近づいてカーテンを細くあける。外を見ると、ぴかぴかに晴れた青空が見えた。高い場所に雲が浮かんでいる。すっかり秋の空だった。
 ううん、と声がしてふりかえると、千冬がオレの寝ていた場所をてのひらで探っていた。まだそこにある体温を頼りに、オレを探しているようだった。戻っていって、そばにしゃがみこむ。千冬、と名前を呼ぶ。千冬はうすく目をあけて、オレを見上げた。
「かずとらくん」
「はよ」
「はやいっすね……めずらしい」
 寝起きで、まだ舌の回っていない千冬は目をこすりながら体を起こし、大きなあくびをした。
「……ってか、体、痛ぇ」
「はは。オレも」
「こんなとこで寝るもんじゃあねぇっスね」
 オレとおなじことを言ってる。おかしくて、喉を鳴らしてわらった。
「朝メシ、なんかつくる」
「え、大丈夫? つくれる?」
「バカにすんな」
「ねえ」
 立ち上がりかけたオレのパジャマの裾を、千冬は引っ張った。促されて屈むと、両頬をてのひらで包みこまれ、ぐいっと顔が近づいた。オレは目を見開いた。
「夢、見た」
 ぬるい吐息が頬を滑った。
「夢」
 どんな、と問うと、千冬は目を細めて、
「一虎くんとキスする夢」
 と、言った。
「……そう」
「ねえ、正夢にしてもいい?」
 まっすぐにオレを見つめる。青い目。深い湖のようなそれに、オレがうつっている。水鏡の向こうでオレはくしゃりとわらって、千冬のくちびるに自分のくちびるを重ねた。一瞬のことだったけれど感触と温度はしっかりと伝わった。それは千冬もおなじだったようだ。顔を離したとき、千冬がきょとんとした顔をしていたのがおかしかった。
「ほら、正夢になったろ」
 勝ち誇った気持ちで、オレは言った。
「……ちょっ、ずりぃ! オレからしたかったのに!」
「どっちからでも変わんねぇって、べつに」
 したかったから、しただけ。そういって、オレはふたたび立ち上がる。かんたんな朝食をつくろうと思った。トーストに、卵とベーコンを焼くだけならオレにでもできるはずだから。
 背後では千冬がまだぶうぶうと文句を垂れていた。ほんとうに負けず嫌いなヤツだ。

 焦げたトーストはほろ苦く、バターとジャムで中和しながら食べた。目玉焼きは白身がフライパンに張りついてしまったのを無理やりこそげ落としたせいで無惨に千切れているし、ベーコンもおなじだった。それでも千冬は文句を言わずに食べてくれた。
 ダイニング・テーブルに向かい合ってオレのつくった朝食を食べているあいだ、オレらは無言だった。テレビもついていない部屋で黙々と食事を咀嚼する。窓から差しこむ光が少しずつその質量を増してきていた。明るくなっていくごとに千冬の顔がはっきりと輪郭を定めてくる。パンを噛みしめながら顔を見ていると、はたと視線がぶつかった。
 なんスか、と軽く首を傾ける千冬に、オレはうっすらとわらって応えた。なんでもない。無言の中に、そう言葉をこめた。
 ついさっきキスをしたことなどなかったかのような自然な時間だった。今までとこれからはなにも変わらない気がした。千冬はコーヒーを啜っている。朝日が頬にぶつかって、白っぽく反射していた。
 ふいに、脛を蹴られた。つま先で、ごく軽く。千冬はオレの足に足を絡ませて、上目遣いでオレを見た。
「なんだよ」
 思わず、固い声が出た。はだしの足がすりすりと脛を、ふくらはぎを撫でてくすぐったかった。
「なーんか一虎くん、シケた顔してるんで」
「そんなことねぇだろ」
「なに考えてるのか知りませんけど、そんな不安になんなくっても、大丈夫っスよ」
 図星を指されて、どきりとした。千冬はマグカップをテーブルに置いた。
「……不安、とかじゃ、ない」
「嘘。顔にぜんぶ書いてある」
 千冬は無遠慮にオレの顔を指さした。そうして目を細めてオレを見つめた。つま先でオレの足の甲をさすりながら。
「ほんとにアンタってわかりやすいっスね」
 自覚はなかったけれど、千冬がそう言うのならそうなのかもしれなかった。俯いてパン屑のついたゆび先を見下ろす。そんなオレの耳に千冬の声が静かに降ってくる。
「オレは逃げませんから」
 だから、安心してください。千冬はそう言って、オレの足を解放した。体温が離れると急に心もとなくなったけれど、千冬の目は真っすぐにオレを見つめてくれていた。
 うん、ありがと、とオレはつぶやいた。ほんの少しだけ、声が掠れた。


 :


 出勤してすぐ、動物たちのようすを確認する。ケージでおとなしくしているいきものは皆、昨日となにも変わりがないようだった。
 千冬とふたりがかりで、検温と体重測定をする。それからそれぞれに給餌をして、店内の清掃に入る。一連のルーティンはすっかり体に染みついて、滞りなく流れていった。
 土曜日ということもあり、客は立て続けにやってきて、オレも千冬もその対応に追われた。アメリカンショートヘアのケージを覗きこんだカップルを相手に、ああでもないこうでもないとやり取りをしているオレを、隣のケージから見つめている目があった。ペケJだった。青い目が真っすぐにオレを見ていた。ペケは昨日のうちにしっかりとケアされていたから、初対面のときより小綺麗になっていたけれど、客からの人気はあまりないようだった。みんなペケを一瞥するだけで、すぐにべつのケージを見にいく。
 「やっぱまた今度にする」とカップルの若い女が言って、オレはようやく解放された。カップルが店を出ると同時に千冬も会計の対応が終わったらしい。人が捌けて、店内は唐突にいきものたちの立てる音と気配だけに満ちた。
 はぁーっとため息をついて、オレは前髪を掻き上げた。千冬が労るようなまなざしを向ける。
「お疲れさまです。対応ありがとうございます」
「……ああ、うん」
 接客が不得手なオレのことを、千冬はいつも気遣ってくれる。できるだけ頑張って慣れようとしているのだけれど、人とのコミュニケーションは一朝一夕ではいかないから、毎回とんでもなくエネルギーをつかうのだ。
「大丈夫ですか?」
 客の置いていったレシートを帳簿に挟んで、千冬はオレの目の前に立った。不安そうな表情で顔を覗きこむ。
「だいじょぶ」
「ほんとに?」
 千冬は肩に手を置いて、じっとオレの目を見た。ペケとおなじ、青い目。そんなきれいな目でオレを見てくれることがうれしくて、照れくさいようなくすぐったいような気持ちで、オレは視線を逸らすと口をもごもごと動かした。
「……ほんとは、けっこう、きつかった」
 白状すると、ほら、と千冬はわらった。
「お客もいないし、ちょっとだけ休憩しましょう。コーヒー飲みます?」
「ん。のむ」
 千冬のあとについて、休憩室に向かう。店を完全に空けるわけにはいかないから、千冬はすぐに仕事に戻るのだろう。動物たちに昼メシも与えなきゃならない。
 インスタントコーヒーを入れるための湯を、ケトルで沸かす。こぽこぽと水の沸騰する音が響く休憩室は、窓からさしこむ日でしらじらとまぶしかった。光は千冬の黒い髪を透かして、横顔のラインをなぞる。顎、頬、鼻の頭。
 パイプ椅子に座って見つめていると、今朝の出来事が鮮やかに蘇ってきて恥ずかしくなった。自分からしておいて、今さら、キスをした事実をなかったことにしたかった。
 でも、もうしてしまった。事実は覆らない。
「はい」
 コーヒーの入った紙コップが、目の前に置かれた。ありがと、とオレは言ってコップを手に取る。
「一虎くん、頑張ってますね」
「え?」
 千冬が立ったまま急に言ったので、オレは驚いて目を上げた。青い瞳に視線がぶつかる。
「迎えに行ったときは、こんなに元気になるなんて思わなかった」
「そんなに元気なかった? オレ」
 はい、と千冬は頷いた。オレは苦笑した。
「そりゃあ、出所してすぐ元気なヤツなんていねぇだろ」
「そうっスかねぇ」
 まあ、わかんねぇか、そんなこと。世の中いろんな人間がいるし。晴れ晴れとした気持ちで出てくるヤツも中にはいるだろう。
 でも、千冬と再会したときのオレはたしかに憔悴しきっていて、疲弊していて、どうしようもなく頼りなかった。千冬、とオレは紙コップをテーブルに置いてたずねた。
「あのさ。なんでオレに構う?」
 構うどころか、千冬はオレの更生のために奔走してくれた。部屋探しを手伝ってくれ、職を与えてくれて、さんざん世話を焼かせてしまった。
「オレは、オマエに報いたいって思うよ」
 恩返しなんて柄じゃあないけれど、償いさえもできないのなら、せめて。
 千冬はしばらく黙ってオレを見つめていた。そうして、やがて浅く息を吐いた。
「オレは、一虎くんがこれからもオレのそばにいてくれたらいいなって思ってますよ」
 視線を持ち上げて、千冬と目を合わせる。千冬はやわらかな表情を浮かべていた。
「オレは一虎くんがすきなんで」
 アンタがどうかは知らないけれど。そう付け足しながら、千冬はオレに背中を向けた。腰で蝶々結びをしたエプロンの紐が、やはり尻尾のようにゆらゆらと揺れた。
「先に戻ってますね」
 休憩室のドアが静かに閉まって、ひとり取り残される。千冬の声が、言葉が、耳の奥に響いていた。さらりと、オレをすきだと千冬は言った。パイプ椅子の背もたれに寄りかかって、オレはため息をついた。
 オレが千冬をすきなことなんて、とっくに見透かされていたのだ。それどころか、あっさりと向こうから告白までされてしまって、咄嗟に反応できなかった。頬が熱を持っていた。顔じゅうが熱かった。横に置いてある姿見を見たらきっとまっ赤な顔をした自分がいるはずで、恥ずかしさのあまり見ることができない。
「オレも、オマエがすきだよ」
 オレ以外に誰もいない休憩室で、ぼそりとつぶやく。口もとがにやけてしまったので、慌てて、てのひらで覆い隠した。


06.こぼれてしまうよ


 秋の夜空はめまいがするほど広く澄み渡っていた。チカチカと瞬く星を見上げ、あしたも晴れかな、なんて、どうでもいい他愛のない話をする。
 退勤後、二組の足は自然に千冬の家へと向かっていた。帰路をとろとろと辿りながら、オレは千冬と肩を並べて歩いている不思議を思った。
 好意を伝えあった事実以前に、千冬はオレという人間を最初っから受け入れてくれた。千冬につらい思いをさせたのはオレなのに、それを承知したうえでオレを拒絶しないでいてくれた。オレは殺されてもいいはずだったのに、千冬はそれをしなかったし、望むことさえなかった。
 ああ、とオレは空を眺めながらため息をついた。ようやくわかった――気がした。
「なんか言いました?」
 隣で千冬がたずねるのに、オレは頷いた。そうしてゆっくりと言葉を吐いた。
「千冬はさ――当たり前なんだけど、やっぱりオレをゆるせねぇんだなって。今やっとわかったよ」
 千冬は神妙な顔で自身のつま先を見つめた。ハイカットのスニーカーはずい分と履き古していて、ボロボロだった。
「オレを勝手に死なせないためだったんだろ? 出所の時、保護したのは」
「……だって」
 千冬は、オレに呪いをかけていた。絶対に死なせない、という呪いを。それは無垢な呪いとなってオレを縛り、この世に縫い留めた。千冬のいる世界に、きつく。
「だって、それ以外にどうしようもなかったから」
「わかってる」
 右手を動かして、千冬の手を握る。そして、「ごめん」と言った。
「オレずっと、ほんとうにずっと、千冬にしんどい思いばっかさせてんな」
 千冬の手はあたたかで、ゆるい力で握ると、おなじくらい弱々しい力で握りかえされた。ささやかな抵抗――オレへの反抗――を、心からいとおしく思う。
「ごめんな」
 くりかえす謝罪に、千冬は首を左右にふる。でも、俯いた顔は上げなかった。
 髪の毛に隠れて表情は見えなかったけれど、きっとくるしみに歪んだ顔をしてるんだろうと思った。そんな顔をさせたくはなかった。でも、千冬は最初っから苦しかったのだから、ぜんぶ、なにもかも今さらだ。
「ごめんとか、いらねぇっス」
 車道を走る車の音のすきまを縫って、千冬が言った。
「オレら、もう、キスした仲じゃあないっスか」
 唇にはまだ今朝の感触が残っていて、恋愛経験がないって大変だな、とオレはつくづく思い知った。大概が十代のうちに通り過ぎているだろう「すきなヤツとのキス」に、オレはこの年にしてようやっと辿り着いたのだ。
「千冬って、ファーストキスいつ?」
 興味本位でたずねれば、千冬はギョッと目をまるくさせた。
「なんスか、中坊みてぇなこと言って」
「オレの心はちゅーぼーのままだよ」
「体は立派なアラサーでしょ」
 いいから教えろよ、と迫る。千冬は逃げるようにそっぽを向いた。
「……教えねー」
「まさか、千冬もアレがはじめて? とか?」
「なっ、……ンなわけねぇでしょ!」
「ほんとかぁ?」
 さらさらと流れてくる風がオレと千冬の髪の毛に絡んだ。秋の終わってゆく匂いを含んだ、気持ちのいい風だった。
 深い紺青の空のあちこちに星が散らばった静かな夜には、オレらの足音だけが聞こえていた。商店街を抜けたらすぐに狭い道に入る。千冬の家までもうまもなくだった。
「オマエんち、行っていいの?」
 こんなところまで来て、今さらだったけれど一応訊いた。千冬は「今ここで言います?」とわらった。
「もう着くのに、ダメっつったらどうすんスか」
「え、……自分ち帰る」
「すなおか!」
 ケタケタと腹を抱えて千冬はわらう。ああ、そんな顔を見られるだけでじゅうぶんなんだよな、とオレは思う。オレはたくさんのひどいことをしてきて、誰かをわらわせてやれる自信なんてすっかり失くしていて、なのに千冬はいつも隣でころころとわらってくれる。
「はあーっ、ウケたウケた」
 息継ぎをしながら空を見上げた千冬が、ふいに「あっ」と声を上げて立ち止まった。半歩遅れてオレも止まる。千冬は空の一点をゆびさした。
「今、見えたっ? 流れ星!」
「え?」
 千冬のゆび先を辿った場所で、一瞬、光が流れた。
「ねぇ見えた? 一瞬だったけど!」
 興奮したようすで千冬はオレの顔を見た。
「見た。見えた」
 と、オレは言った。
「なんか願いました?」
「あんな一瞬で、なんも願えねぇよ」
 そうだ、流れ星に願いをかけるなんて、ほんとうはばかげている。けれど、十代のオレは願わずにいられなかった。どんなに阿呆らしいとわかっていても、願うことがオレの救済だった。
 独居房の四角い窓から見えた星と月と、ときおり過ぎっていった流れ星のことを今でもずっと忘れられない。あれはたしかに希望の光で、でも願いを叶えてくれる魔法ではなくて、オレはとうとう今日まで生き永らえてしまった。
「千冬はなんか、願ったん?」
 ガキの会話みたいだと思いながら問うと千冬は頷いて、
「商売繁盛」
 ドヤ顔で、そう言った。
「うわ、現実的」
「だってそれなりに繁盛してくんねぇと、そのうち一虎くんの働き口もなくなっちまいますよ?」
「そりゃ困るわーマジで」
 でしょ? と千冬は言って、オレの手をぎゅ、と握った。
「一虎くんにはずっと店にいてほしいんで」
 視線の先に、煉瓦を模した壁が見えてくる。千冬のくらすアパートだ。庭に植っている名前のわからないデカい樹が、風に葉っぱを揺らしている。
「一虎くんは、どうっスか」
「うん?」
「ずっと店にいてくれますか」
 これは、面談かなにかか? オレは千冬の目を見つめて、口の端を持ち上げた。
「そりゃあ、いるよ」
 今店を放り出されても、どこに行けばいいのかわからない。
「そっスか。よかった」
「クビにしないでくれよ、店長」
「努力しますよ」
 喉を鳴らしてオレはわらった。つられて、千冬もわらう。繋いだ手が熱を持つ。帰り道、ずっと手を繋いでいたことが今さら恥ずかしくなった。けれど、お互いにほどこうとはしなかった。
 次に流れ星を見たときに、オレはこれからもずっと千冬と一緒にいたいと願うだろう。千冬はいやがるだろうか。すぐに面倒になるだろうか。不安が消えたわけではないけれど、「逃げない」と約束してくれたことはほんとうだ。オレにできるのはその言葉を信じることだけなのだ。
 当然みたいに千冬の部屋のドアをくぐる。ただいま、と千冬が言う。それに倣って、オレも部屋の中に向かって「ただいま」を言った。


epilogue


 サンダルを突っ掛けてベランダに出ると、秋の終わりの風が頬を滑った。気持ちのいい夜。ほんのりと酔った頭で、手摺りに体を預ける。窓をふり返ると、リビングのソファに寄りかかって眠る一虎くんの姿が見えた。無防備だなあ、とおかしくなる。オレに心をゆるしてくれている証拠だろうか。そんなふうに思うことが、オレにゆるされるんだろうか?
 ソフトケースからたばこを一本取り出して、咥えた。いつも一虎くんにもらいたばこするくらいで頻繁には吸わないけれど、吸いたくなったときのために一箱買っておいたものだ。100円ライターで火をつける。先端が赤く燃える。星の瞬きよりずっと力強い。
 秋の夜風に煙が流されていく。一虎くんと歩いた、家までの道が眼下にあった。アパートに着くまでずっと手を繋いでいた。一虎くんは手をほどかなかったし、オレもほどくつもりはなかった。離したくなかった、というのが本音で、離したら、きっと彼は自分の家に帰ると言う気がした。
 怖がりで傷つきやすい一虎くんに、無闇なかなしみを与えたくなかった。
 彼を保護したのはオレのエゴだ。放っておいたら死んでしまいそうな彼を、どうしても死なせたくなかった。オレにはそれしかできなかった。
 煙を吸いこんで、細く吐き出す。ひさしぶりに吸うたばこはさほどおいしいと思わなかった。
 帰り道にふたりで並んで見た流れ星は、あっというまに視界から消えてしまった。「なに願った?」と無邪気に問うてくる一虎くんに、オレは咄嗟に、「商売繁盛」なんて嘘をついた。ほんとうは、ぜんぜんべつのことを願っていたのだけれど。
 たばこは半分ほど残して簡易灰皿に押しつけて消した。一瞬だけ空を見上げてすぐに目を逸らし、リビングに戻った。
 ソファに凭れた一虎くんを起こさないよう、そうっと近づいた。前髪を払って、その整ったきれいな顔を見つめる。
「ごめんね、嘘ついた」
 起きる気配のない一虎くんに、オレは小さな声で話しかける。
「商売繁盛なんて、うそ」
 ほんとうは、と言葉を継ぐ。
「一虎くんがもっともっとオレを求めてくれますようにって、願ったんだよ」
 もっと欲しがって、求めて、渇望してほしい。ずっとそう願っていたのに、一虎くんは頑なだった。そんな彼にオレはときどき苛立った。苛立っても、訴えることはしなかったから、一虎くんがオレを貪欲に欲しがることはなかった。ないままに今日まできてしまったのだ。
 肩ほどまである髪がゆびのあいだをさらさらと流れ、こぼれていく。人さしゆびで頬を撫で、輪郭を辿った。頬、顎、耳のかたち。んん、と呻き声をもらして、一虎くんの目があいた。
 視線が、一時絡まった。
 ちふゆ、と彼の唇が名前を呼ぶ。うん、とオレは答えた。手が伸びてきて、一虎くんの両手がオレの頬を包んだ。
「顔、近い」
「うん」
 オレがくすくすと笑うと、一虎くんは眠たそうな声音で、
「……すげー、ちゅー、したい」
 そう、言った。そんな彼を心底、かわいいな、と思う。
「どうぞ」
 オレの返事を待ってから、一虎くんは静かに唇を重ねた。生あたたかい体温を感じて、不覚にも心臓が高鳴った。
 顔が離れると満足そうにほほ笑む一虎くんがいた。オレは髪の毛をくしゃくしゃにかき混ぜながら、言う。
「ほんとうに、アンタはかわいい人ですね」
 ひどいことばかりしている、と思う。オレは一虎くんをこの世に留めてしまって、生きることを強いてしまった。それは彼にとって呪いにちがいないはずだった。
 心の中でなん度も謝った。でも、オレにできることなんてほんとうになにもないから、せめて一緒に生きてほしいと、隣でわらっていてほしいと、そう願うのだ。
 目の奥がツン、と痛んだ。滲み出そうな涙を押しこめて、もう一度、軽いキスを落とした。一虎くんがくすぐったそうにわらう。
 幸福そうなその表情に、オレの心はゆっくりとあたためられていく。



初出:24.0919

#ふゆとら

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