Note

No.159

「桃」
#涼啓 #掌篇 #D



 細やかなうぶ毛の覆う表面に犬歯が食いこんで、途端にあふれ出した果汁が唇をてらてらと濡らした。色のない果汁は顎先まで滴り落ち、啓介はそれを拭うこともなく果肉にかぶりついている。シンクの側に立っているのは、果汁が床やテーブルに落ちて汚してしまわないための、啓介なりの配慮なのだろう。実に弟らしい雑な考え方に、思わず口の端がゆるんでしまう。
 しずかに持ち上がった視線がオレを射抜いたので首を傾けてみせると、啓介は口もとを手の甲で横柄に拭いながら「アニキも食う?」と問うた。彼が右手に持っている水蜜桃はいかにもよく熟れており、うまそうだった。オレはうん、と頷いてダイニング・チェアから立ち上がる。
 啓介の側に寄ると、すでにそこには桃の甘い香が漂っていた。疚しい思いはなかったはず――なのに不覚にも胸の奥が疼いて、ほとんど無意識に、オレは啓介の手首を掴んでいた。そうして、歯形のついた食べかけの桃に唇を寄せる。あ、と啓介が短く声を上げた。オレは構わず桃に歯を立てた。うぶ毛が舌の上をくすぐって、やわらかな果肉は奥歯ですり潰すまでもなく溶けて、喉の奥に落ちてゆく。
 果肉を飲みこみ、口を離す際に啓介の指にそっとキスをした。
「甘いな」
 上目で啓介を見る。逃れるように視線をさ迷わせて、啓介の頬は桃とおなじ色に染まっていた。


20250821185753-admin.png

close

memo