高橋家は広い。そしていつも清潔で、すっきりと整えられている。埃ひとつ、髪の毛一本落ちていないまっさらなフローリングは肉球にひんやりと冷たくて、それはそれは気持ちがいい。
 わたしが高橋家に連れてこられて数日が経っていたが、わたしはすっかりここに馴染んだ。広い家の一階も二階も自由に行き来し、テラスに出、庭を闊歩し、キッチンを偵察する。そして誰も、それを咎めない。まるで家族の一員のように丁重に扱われるのは、長年野良として生きてきたわたしにとり、はじめての体験である。
 界隈でよく言われている「野良のプライド」などはわたしには無かった。雨風を凌げるあたたかい寝床と、頬が落ちるくらいおいしくて高価な食事が食べられるのなら、このまま高橋家の家族として、長く居着いてやってもよいと考えている。
 そしてなによりここには、“わたしのおとこ”がいるのだった。
 尻尾を踊らせながら廊下をするりするりと通り抜けて、ドアをくぐるとそこはリビングだ。
 広いリビングにはおおきな窓があり、窓際に置かれた立派なソファに“わたしのおとこ”は座っていた。端正な顔を五月のあかるい日差しに惜しみなく晒して、ぶ厚い本をめくる彼の姿は、ちょっととろけちゃうくらいにイケている。
 にゃあー。わたしは舌っ足らずの甘い声を出す。無論とっくに成猫なので、これは、演技だ。いや、サーヴィスだ。人間はこういういたいけな声が好き。小さな生きものに可愛らしく甘えられると、どんな人間もとことん弱くなる。そうでしょう?
 わたしのおとこは本から顔を上げて、わたしを見とめるとやわらかく微笑んだ。ああ、なんてやさしい笑みだろう!
「なんだ、そこにいたのか」
 本を傍らに置き、おいで、とわたしを手招きする。にゃああ。わたしはクールを装いつつもいそいそと彼の側に歩いていき、軽やかに膝の上に飛び乗った。しっかりとした大腿の筋肉を四つ脚の裏に感じる。彼を見上げ、なああ。と、鳴く。
「はは。かわいいなあ」
 わたしの顎の下を撫で、彼は目を細めた。満足そうな彼の顔にわたしも満足する。鼻を鳴らして得意げに、ふふん、と笑う。
 そう、わたしは可愛い。
 わたしはわたしが可愛いことをじゅうぶんに知っている。そしてわたしの可愛さに、高橋家みんながメロメロになっていることも。みんな――と表現するのはいささか盛った、が、高橋家四人中三人はすでにメロメロだし、メロメロになっていない内一人も早々にメロメロにさせるつもりだから実質みんなわたしにメロメロなのである。
 わたしは体をくねらせて膝の上に寝転がり、なあなあ鳴きながら腹を見せた。さあ思うさま撫でてくれ。視線で要求すると、やさしい彼はかしこまりましたとでもいうように、従順な態度でわたしを撫でまくってくれる。ああ、なんてあたたかくて、大きなてのひらなのだろうか。ふふん。わたしはいたく満足して、ふたたび鼻を鳴らした。

 赤城山の頂上、一つだけ光を放つ街灯の下にそいつは佇んでいた。最初は地蔵かなにかの置き物かと思ったくらい、そいつは静かで、微動だにしなかった。
 行儀よく足を揃えて座り、視線をこちらに投げつけるそれは、夜の闇の中に爛々と輝くアーモンド型の目が特徴的な、白猫だった。
「なんだ、あれ。猫か」
 オレの視線を追いかけて、啓介も猫の姿を見とめたらしい。
「捨て猫かな。こんな山奥で」
「こんなとこに捨ててくのか? ひでぇヤツもいるもんだなー」
 啓介が煙草の煙を吐き出して眉を顰めた。まったく同感だ。生きものを捨てるなんて、人間の所業として最低の行いだ。捨てたやつはきっと地獄に落ちるだろう。そういう輩がこの赤城山付近にもいるなんて恥ずかしく、嘆かわしかった。
 五月に入ってすぐの連休である。日中は観光客で賑わう赤城山も、深夜ともなると人けは失せ、まとう雰囲気をガラリと変える。鮮やかな新緑の姿は今は見えず、鬱蒼と生い茂る樹々が闇をより深く濃いものにさせていた。
 山頂の駐車場にはオレと啓介の愛車が、それぞれのエンジンを鈍く唸らせていた。四つのヘッドライトがアスファルトの地面を煌々と照らす。レッドサンズの活動以外で、啓介とふたりで走るのは数週間ぶりだった。新年度が始まり大学の講義の内容が難解になったことで、研究室に缶詰めになることが増えた。実習とレポートが終わり、ようやくできたつかの間の休日に啓介がオレを峠に誘った。息抜きの機会を与えてくれたのだと思う。啓介に誘ってもらわなければオレはきっと今夜も、来週以降に待っている研究課題の事前調査に手をつけていたにちがいない。
 白い塊のようにも見える猫は、すぐに逃げていくものと思っていた。ところが車の放つ強い光や、地面に響くエンジン音を少しも怖がらず、凛としたまなざしをまっすぐに向け続けているのだった。まるでこちらの動向をうかがっているように。何かを訴えているようにさえ見えた。
「なんかあの猫、アニキのことずっと見てねぇ?」
「ああ。……なんだろうな」
 オレは首を傾げながらチノパンのポケットから煙草を取り出した。一本咥えて火をつけ、深く吸いこむ。煙は、すぐに肺を満たした。吐き出した煙がカーテンになって、猫の姿が一瞬、霞む。
 その時、「あっ」と合点のいったように啓介が口をひらいた。
「あいつ、アニキにほれちまったのかな」
 やけにまじめに啓介が言うので、オレはつい笑ってしまった。
「ばか。そんなわけないだろう」
 まさか、そんな。啓介の顔は、しかし真剣だった。
「いや、絶対にそうだ。うん。たぶん」
「どっちだよ」
「絶対にほれた、ずっと見てんだもん。ぜんぜん逃げねぇし」
「……意外に、おまえにほれたのかもしれないぜ」
 オレの冗談に、啓介は笑わなかった。どころか、眉間にきゅっと皺を寄せて、神妙そうな顔をつくった。
 猫の気持ちなんてオレにはわからない。わかるはずもない。でも啓介には、なにか察するものがあったのかもしれなかった。動物的な本能――のようなそれで。
 ふいに白猫がのっそり立ち上がり、オレたちのいる方へと近づいてきた。細い体でしゃなりしゃなりと歩く姿は、さながらモデルのようである。街灯の濁ったあかりの下でも、その猫がじゅうぶんにうつくしいことはわかっていた。ヘッドライトの白い光が、その姿を鮮明に浮かび上がらせる。やがてそいつはオレの足もとまでやってきて、脛のあたりに頬をすり寄せた。チノパン越しにかすかなあたたかみを感じる。生きものの持つ、血の通ったあたたかさだった。
「ほら!」
 啓介が短く声を上げた。
「こいつ、やっぱり!」
「なにをそんなにムキになってるんだ」
 かわいいじゃないか、とオレはしゃがみこみ、小さな頭を撫でた。猫は気持ちよさげに目を細め、もっともっとというように、オレの手に頭を押しつけてくる。頭蓋骨のかたちがてのひらに伝わってくるほど、その頭はか細く、儚かった。
 動物にとって煙草は害悪だろうと思い、まだ吸う余地のある煙草をその場で揉み消す。そうして猫を抱き上げると、猫はきゅるるん――実際に、そんな音が聞こえてきそうだったのだ――とアーモンド型の目を動かし、オレを見上げた。
 まるで、連れていって、と。そう訴えているようだった。
「……おまえ、うちに来るか?」
「はあっ?!」
 啓介の叫び声が、闇の中に響いた。オレは猫を抱いて啓介をふり向く。
「啓介。おまえ、犬か猫かハムスターを飼いたいって言ってたろ。ガキの頃」
 忙しくまばたきをしながら、啓介は「は?」と首を傾けた。
「そ、それは……言って、た……? 言ってたっけ? 言ってたかも、だけど……」
「言ってたよ」
 そう、啓介は子どもの頃、たしかに動物を飼いたがっていた。犬か猫かハムスターを。
 特段、高橋家は動物の飼育を禁止する家ではなかった。しかし両親共に働いていたし、まだ幼かったオレたちだけで動物の世話をするのは無謀だろうという理由で、これまでうちに動物がいたことはない。成長するにつれて啓介も動物よりバイクに――そしていずれは四輪に――、オレも車にそれぞれ夢中になり、ペット云々の話題はどこかに追いやられた。
 しかし、父も母もどちらかといえば動物好きだし、家族の誰もアレルギーを持っていない。たまに遊びに来るいとこの緒美もだ。
「本気かよアニキ……そいつ持って帰んの?」
「モノみたいな言い方をするもんじゃないぜ」
「いや飼うったってさあ、ちゃんとずっと世話できるのかよ? アニキ大学あるし、忙しいだろ?」
 それはそうだ。今でさえ時間が足りていないのに、長く面倒を見られるという約束はできない。オレには、しかし考えがあった。
「さすがにずっとは置いておけないさ。猫の寿命はけっこう長いからな。とり急ぎ、ホームページをつくって里親の募集をかける。貰い手が見つかるまで高橋家で保護する。それだけだ」
 無論、無責任で中途半端な気持ちで飼おうなどとは思っていない。これはあくまで応急処置だ。啓介の言うとおり医学部の授業はこれからますます忙しくなるし、猫の世話に割ける時間的余裕は無くなっていく。
 ならば最初から無視するのが、むしろ最適解なのかもしれない。それはわかっていた。しかし、なぜかオレに懐いてしまったらしいこの野良の存在を、オレは見て見ぬふりをすることができなかった。
 腕の中で、猫は舟を漕ぎ始めていた。初対面の人間相手に、なかなか肝が据わっている。
「アニキがそう言うなら、オレはいいけどさ……」
 啓介は観念したらしく、両手をひらいて顔の位置まで上げてみせた。ホールド・アップだ。
「おまえに迷惑はかけないさ」
「いや、オレもちゃんと面倒みるよ。乗りかかった船? ってやつでさ」
 そうか、とオレは笑った。我が弟ながら、殊勝なことだ。

 アニキが“それ”を抱え上げた時、全身が燃えるように熱くなった。肌がざわっと粟立って、耳の奥にキーンと音が響いた。頭に血が上った時にいつもそうなるような、鳥肌と耳鳴り。“それ”はアニキの腕の中でうねうねと体をくねらせ、甘ったるい声でなあなあ鳴いて、アニキに甘えた。挙句、アニキに抱かれて眠ってしまったので、オレは心底呆れ、そしてとてもひどく、苛立ってしまった。
 アニキが”それ”を連れて帰ると言って、思わず「オレも面倒みる」なんて言ってしまったが、FDに乗りこんですぐ激しく後悔した。いや、面倒みるもなにも、ないって。
 アニキの腕の中に我が物顔で入り浸って、すっかりアニキに懐いてしまったらしい猫に、正直言ってオレは妬いていた。それはそれは、情けないくらいに、めちゃくちゃに妬いていた。オレだってアニキの腕の中に潜りこんで、ぎゅうぅって抱きしめられたいのに、オレは猫じゃないからそんなずうずうしい真似はできない。そう思うと、かなしくて、さびしかったのだ。おまえ、勘違いするなよ? これはおまえが、猫だからだぞ? 人間だったらできないんだぞ? わかってんな? 心の中でぶつぶつ唱えても、実際には口に出せなくて、歯痒かった。だって、そいつを抱えたアニキの顔が、あんまりやさしかったから。最初、飼うことを反対してしまったことに罪悪感をおぼえるくらいに、やさしかったから。
 そんな顔をされたら、取り上げることなんてできない。
 あの猫はきっと、アニキにほれてしまったのだと確信している。そしてアニキもまた、猫から向けられる情熱がまんざらでもなくて、だからあんなにうれしそうだったのだ。
「……くそっ」
 FDのアクセルを踏む足に力みが出て、慌てて右足を浮かせた。前を走る白のFCとの車間が、山頂を出た時より狭まっていた。やばい、アニキに叱られる。
 FCのナビシートにはあの白猫が座っている。オレにはそれが、とても羨ましかった。アニキの隣に座れる、なんて。アニキの運転を間近で見られる、なんて。
「くそっ、……いいなあ」
 ついもれてしまった本音を、拾う者はいなかった。

「アニキ。おはよ」
 頭の上に声がかかって、細く目をあける。わたしのおとこが首を捻った先には、“わたしのおとこの弟”がぼけーっとした顔で立っていた。髪の毛は寝癖でくしゃくしゃ、着ているスウェットの上下も皺だらけで、起きたばかりというのがすぐにわかる。時刻はとっくに正午をさし示しているのだが。
「おはよう。そろそろ昼メシにするぞ」
「うん、……」
 “わたしのおとこの弟”はチラリとわたしを見、あからさまに不機嫌な顔をつくると、おとこの隣にドッカと座った。わざとだと、わかる。わざと、そんな横柄な態度で座ったのだ。弟の体重分、ソファが沈み、スプリングが軋んだ。なんて野蛮なんだろう! わたしは体をくるりと反転させて、おとこの膝の上に腹ばいになった。お尻を弟に向けて、寝そべる。
 このやんちゃっぽい弟はわたしに懐かない。どころか、むしろ敵対心を激しく燃やしているようだった。わたしが可愛いあまり、おとこを虜にしてしまっているから、妬いているのだ。
 なあ、と弟はわたしのおとこの顔を覗きこんで、甘えた声で話しかけた。
「アニキさ、今日と明日休みだろ? ふたりでどっか出かけねぇ?」
 わたしは舌打ちをしたい気持ちを心の中に沈めて、目を閉じて二人の会話を静かに聞く。
「どっかって?」
「どっかって、……どっか」
「答えになっていないぞ」
 おとこが笑うと、膝の上のわたしに振動が伝わる。心地よい揺れ。
「ほんと、どこでもいいからさー。どっかそのへんの道の駅とか……」
「ずいぶん渋いセレクトだな」
「いいじゃん。足湯とか浸かろうぜ」
 じつに兄弟らしい、ふつうの会話を装っているが、わたしを除け者にせんという魂胆が見え見えである。浅はかな考え。わたしの鼻が、ふんっと鳴る。
「出かけてもいいが、こいつを置いてはいけないからな……」
 おとこがわたしの頭に手を置いて、甘い声で言った。撫でられると気持ちがよくって、いち度目をあけておとこを見、再びゆったりとまぶたを下ろした。目を閉じる直前に見た弟の顔が、般若のようになっていたのがおかしかった。
「こいつも一緒ならいいけど」
 弟は数秒の沈黙のあと、
「……そんなら、いい」
 不貞腐れた声音で言った。
「なに怒ってるんだ」
「べつに怒ってねぇよ」
 弟の声は明らかに不機嫌で、わたしのおとこは浅く息を吐いた。彼を困らせないでいただきたいのだが、弟はどうにも子どもっぽいようで、いけない。兄弟でこんなにも性質がちがうものかと、わたしは驚く。驚く、が、弟にこのあたたかな膝の上を譲ってやる気は、わたしにはさらさらないのだった。
「っていうか猫ってさー、放っておいても大丈夫なもんだろ? こいつ来てからも、ずっと付きっきりだったってわけでもないんだし」
 これはご尤もである。わたしはべつに一匹でいても平気なのだった。おいしいごはんさえ用意しておいてもらえれば、あとは自由に過ごす。むしろ好き勝手させてもらえたほうがベストで、好きな時に寝て好きな時に起きて、好きな時におとこに甘えられれば、それでいいのである。
 わたしが高橋家に来てからの数日のあいだ、この家にはつねに誰かがいた。おとこの母親やおとこの父親や、おとこ自身や、弟がいる日も稀に、あった。まったくの無人という日はなく、誰かしらが家にいて、わたしの相手をしていた。つまりその間にわたしは高橋家みんなをメロメロにさせてしまったわけだが、家にいる時間が少ないこの弟だけは、まだわたしを警戒し、深入りしようとしてこない。「オレも世話する」とか言っていたくせに? この薄情ものめ。
「今日明日は母さんもオヤジもいないから、一日中家は空けられないな。レポートも早めに進めておきたいところだし」
「……あっそう」
「悪いな、啓介」
 おとこが言うのに、弟は唇を尖らせて立ち上がった。どうやら説得は諦めたようだ。わたしは膝の上でもういち度体を反転させ、今度は仰向けになった。うす目で弟を見上げる。眉間に皺を寄せ、下唇を噛んで、じつに不愉快そうにわたしを睨んでいた。わたしはわたしのおとこに守られている身なので、ちっとも怖くないのだが。
 背中を向けてキッチンに消えていく弟の姿を見ていると、わたしはちょっとだけ、弟をかわいそうに思った。思ったが、どうしてやることもできない。
 わたしはわたしのおとこの膝の上でうねうねと体を動かし、また腹を撫でるよう求めた。おとこの手がわたしの腹を撫で、さすり、毛並みに沿って器用に動く。申し訳ないが、この膝の上を明け渡すことはできない。ほんとうに、いやほんとうにかわいそうだが、わたしもまたわたしのおとこにメロメロなのである。