“やつ”がうちに来て、三週間が経った。やつはあいかわらずアニキにべったりくっついて、腕に抱えられて、時々見下すような視線をアニキの腕の中からオレに向けてくる。その態度は生意気だし、ふつうにムカつく。でも相手は猫だ、いじめるなんてゲスな真似はできない。オレはアニキとやつがいちゃついて――嫌な表現だが――いるのを、ちょっと離れた場所から指を咥えて見ているしかできないのだった。
さびしい、と思った。
アニキは変わらずにオレにやさしいし、勉強で忙しいあいまを縫って一緒に走ってくれたり、FDのナビシートに乗ってレクチャーもしてくれる。この三週間のあいだに二回も、ふたりで赤城山に行った。短い時間でも一緒にいてくれるのがうれしくて、オレはバカみたいにはしゃいだけれど、家に帰ると途端に猫がアニキをさらっていってしまう。オレだけのアニキじゃなくなる。
猫相手に嫉妬だなんて、ほんとうにバカみたいだ。オレはいよいよほんもののバカになっちまったのかと自分で自分が怖くもなった。でも、アニキが猫のことしか見ていない時間はオレにとってどうしたって苦痛だった。いじけて、早々にリビングから自室に引き上げる日が増えた。どうせアニキは猫ばっかりで、オレを追ってはこないから。
日本のどこかではもう梅雨入りをしたらしい、どんよりと重たい雲が空を覆う土曜日の朝。昨夜は走りこみをしなかったから、珍しくいつもより早い時間に起きることができた。階下に降りるとすでにアニキがいて、ダイニング・テーブルで新聞を広げていた。
「アニキ、はよ」
猫はあいかわらず膝の上を陣取っている。それを忌々しく思いながら、顔には出さず挨拶をした。
「おはよう」
アニキはオレを見て、目尻をわずかに下げた。
「早いな、今朝は」
「昨日、走ってねぇから」
「そうか」
なああぁぁー。オレとアニキが会話をしているのが気に食わないのか、猫が甘ったれた声で鳴いた。オレは舌打ちをしたい気分で――でもおとなげないから我慢して――、黙ってキッチンに入った。
冷蔵庫から牛乳を取り出すと、パックごと口をつけた。横目でダイニングの方を見やれば、アニキは膝の上の猫相手になにやらしゃべっている。どうした、とか、腹がへったのか、とか。甘い、やさしい声で話しかけるアニキの表情は、とてもやわらかい。オレにもアニキにこんな顔を、させることができたらいいのに、と思う。
進級してからこれまでよりさらに忙しくなり、研究や講義に忙殺されるアニキが、時々――ほんとうに時々――だったが、ひどく強張った表情を見せることが、最近はあった。そんな時のアニキは、いつもの涼しい顔や態度からは想像もできないような、張り詰めた空気をまとっていた。
アニキは誰よりも努力家で、そしてその努力をひけらかすことをしない。努力なんてしていないみたいな顔をして、いっつもなんでもないように、どんなこともスマートにこなしてしまう。
そういうクールなところもオレはすきで、尊敬していて、でも同時に、このまま無理を続けていたら、いつかアニキはどこかに消えちまうんじゃないか、と不安にもなるのだった。
いつか、その緊張の糸が切れた時。そんな時が来るかどうかはわからないけれど、想像するだけで怖くて、不安で、体が勝手に震えてくるのだ。
猫がやって来て――正確には、アニキが連れ帰ったのだが――、アニキの表情がちょっとだけやわらかくなって、それだけはオレは、猫に感謝している。
でも、たまにはその役目をオレに譲ってくれよ、と、猫に対して思うのだった。
「母さんとオヤジ、今夜は会食で遅くなるらしい」
アニキがキッチンに入ってきてそう報告しながら、パントリーの扉を開ける。食品や災害時の備蓄品がぎっしりと――しかし整然と並んでいる、一番下の棚から缶詰を取り出して、オレの隣に並んだ。
かすかに、アニキの服から柔軟剤の花の匂いが鼻先に漂った。
「啓介」
「うん?」
ふと呼ばれてアニキの方を向いたその時、一瞬だがあたたかいなにかが口もとを掠めた。それがアニキの親指だと気づいたのは、まばたきを三回したあとだった。
「ヒゲ。ついてたぞ」
「えっ? あ、うそ」
慌てて口の周りを手の甲で拭う。アニキの言うとおり、牛乳が唇の上について、白髭のようになっていた。アニキはくつくつと喉を鳴らして笑い、牛乳を拭った親指をごく自然に自分の口に運んだ。アニキのあかい舌が指のひらを舐める。その瞬間、心臓がどきりと音を立てた。
「パックのまま飲んで、また母さんに叱られるぜ」
「……どうせぜんぶ飲んじまうから、大丈夫」
「腹壊すなよ」
猫用の皿に、缶詰の中身をよそう。銀色の小さなスプーンが、アニキとオレの顔を映していた。
「ああ、そうだ」
アニキは思いだしたように言った。
「今日はオレも遅くなるから、あいつの夕飯、用意していてくれないか」
「えっ、アニキも夜、いねぇの? 土曜日だぜ?」
「教授の補佐で、週明けまでにどうしても終わらせなければならないレポートがあるんだ」
たぶんまた徹夜だな、泊まりになるかも――さらりと怖いことを言って、アニキはカウンターの反対側に向かった。キッチンカウンターの下が猫の食事場だ。そこに皿を置いてやるとやつは勢いよく突撃してきて、ガツガツと餌を食べ始めた。首を伸ばして、そのようすを窺う。
「すげー勢い……」
「生きるために必死だからな、こいつらは」
なにやら意味深なことばを呟いて、アニキはオレの肩をポン、と叩いた。よろしくな、の合図。なにを? と聞こうとして、そうだ猫のメシか、と思い至る。
「不満そうだな」
「だって、……」
アニキがあんまり、こいつのこと可愛がるから、妬いちまうんだよ。喉まで出かかったせりふを、すんでのところで飲み下す。こんな情けないこと、言えやしない。オレはおとなしく頷いた。
「大丈夫。ちゃんとするから」
「ああ。頼んだぜ」
今夜は“わたしのおとこ”は不在らしいと、朝食の段階でわたしは知っていた。おとことおとこの弟が話しているのを、耳をピン、と立てて聞いていたから。
頬が落ちそうにおいしい、高級マグロフレークを噛み砕きながら、なんてつまらない、とわたしは嘆息した。おとこが不在の夜ほどつまらないものはない。これまでの猫生で、つまらないと思うことは無論多々あった。しかしそれでも、これほどまでにつまらない事態には遭遇しなかった。これまで感じていたつまらなさの極地を余裕で飛び越えてしまった。ようするに最低で最悪。わたしを思いきり可愛がってくれないおとこがいない夜なんて、プレゼントのないクリスマス、ディナーの用意をされていないデートさながらではないか。
マグロフレークの最後のひとかけらをペロリと舐め取って、一旦満足してから、出かける用意をしているおとこの足もとにすり寄った。
「腹はいっぱいになったか?」
にゃあ、おかげさまで。わたしが鳴くと、おとこはしゃがみこんで頭を撫で、顎の下をくすぐってくれた。気持ちよさに喉が鳴る。そのまま寝そべって腹を見せ、お出かけ前のキスならぬ撫で撫でを要求した。おとこは大きくあたたかなてのひらで、毛並みに沿ってわたしの腹をゆっくりと撫でた。
視界の端で、おとこの弟がそっぽを向いているのが見えた。わたしはすっかり得意だった。
「じゃあ、行ってくるな」
おとこは立ち上がり、わたしと弟に向かって交互に声をかける。弟はおとこの方に顔を向けて「ああ」と頷いた。
「猫のメシ、頼むな」
「わかってるってば」
気いつけて、と、弟がはにかむ。ちょっと照れたような、くすぐったそうな顔をして、おとこを玄関まで見送る。あらまあ、仲がよろしいのですね。わたしは少し意地悪な、うす暗い気持ちになる。
玄関のドアが閉まり、ごくわずかな間、わたしと弟のあいだに沈黙が落ちた。やがて弟が深いため息を吐き出して、じとっと湿った目でわたしを見下ろした。まさか、おとこがいないからって、わたしをいじめようとしているのでは? わたしは推察し、咄嗟に逃げようと身構えた。弟はしゃがんで、わたしのまなこを覗きこんだ。
「おまえ、アニキに愛されてやがるなー」
普段の弟に似つかわしくない弱々しい声だったので、わたしはつい、きょとん、と首を傾げてしまった。(これはぶりっ子ではなく、まったくのしらふである)
「……オレも、アニキに愛されたい」
膝のあいだに顔を沈めて、弟はつぶやいた。項垂れている弟を見ていると、さすがにかわいそうに思えてきてしまう。
なあぁ。わたしは前脚を伸ばして、弟の腕に触れた。ぎゅっと、肉球を押しつける。弟は恨めしそうな目でわたしを見た。今にも泣きそうな顔をしている。
「なんだよ。慰めなんかいらねぇよー」
せっかくやさしくしてあげてるんだから、そんなこと言うなよ。
「おまえはオレの恋敵だかんな。ぜってー負けねぇぞ」
たかが猫相手に、マジで言ってるのか? こいつ……。弟のまじめな宣戦布告に若干引きつつも、でもたしかに弟にとってわたしは立派な恋敵なので、そう思うのも無理はなかった。
「おまえ可愛いんだからさ、うちじゃなくっても誰かが拾ってくれんだろー」
ぶつぶつ言いながら弟は立ち上がって、背中を向けた。わたしが可愛いことを弟も認めているらしかった。それはそうか。見ればわかるか。
弟は階段を上っていく。自室に引き上げるようだった。わたしは大きなあくびを一つ、もらした。
さて、おとこが不在のあいだはなにをして過ごそうか。わたしのために用意されたぬくいベッドで眠ろうか。泣きだしそうな弟の顔が脳裏をちらついたが、わたしにはどうすることもできないことだった。申し訳ない。
研究室を出たのは、結局、日付が変わろうという時刻だった。疲労を背負った状態で、FCに乗りこむ。
学部生でありながら、尊敬する教授の補佐役に抜擢されたのは光栄なことだった。日々の学びも多く、新学期が始まってからの学校生活はずいぶんと充実している。
懸念が一つだけ。それは弟の啓介に、このところあまり構ってやれていないということだった。
ひと月ほど前に赤城山の山頂で見つけた野良猫にオレはすっかり懐かれたようで、家にいるあいだはずっとくっついて離れない。オレが食事をしている時も、ソファで本を読んでいる時も、側に張りついて動かない。風呂に入っているあいださえ脱衣所のドアの前でおすわりをして待っているのだから驚きだった。しかし猫のそのようすは、まるで幼い頃の啓介そのものだった。ガキの頃の啓介も、こんなふうにずっと後ろにくっついて離れなかったっけ。
いつ降ったのかまったくわからなかったが、路面は雨に濡れていた。深夜の街には人けも車通りもなく、FCのエンジン音だけが低く響いていた。
そういえば、啓介は猫に忘れずにメシをやってくれただろうか? ステアリングを握りながら、ふと思った。……それは心配いらないか、あいつはあれで、わりにしっかりしているからな。今朝交わした会話をふり返った時、「わかった」と頷いた啓介の、若干不服そうな表情が脳裏を過ぎった。
猫の相手をしていると、啓介の機嫌が悪くなることにオレは気づいていた。
まさか、と思ったが、そのまさかは当たっているかもしれなかった。それを思うといっそう啓介がいじらしく、可愛い存在に思えて胸がくすぐったくなる。
――あいつ、あの猫に嫉妬しているのか。
だとしたら何というか、兄冥利に尽きるな。そう思ってしまうのは、あまりにも啓介がかわいそうだろうか? しかし、思えば思うほど、胸の奥にあたたかい水が広がっていくようで、頬が緩んでしまうのを抑えられない。
ドアを開けて、できる限り音を立てず家に入ると、無音の闇がオレを出迎えた。すでに午前一時を過ぎており、両親も啓介ももう寝ているようだった。気配を殺して上がり框を踏んだその時、廊下の奥の方で何かが輝いて、咄嗟に動きを止める。金釦のような一対のそれが猫のまなこであることにはすぐ気づいた。猫は軽やかな足取りで廊下を進み、スリッパを履いたオレの側にやって来て、こちらを見上げた。ひと言も鳴かないのは、家の者たちを起こさないための猫なりの配慮なのだろう。まったく、賢いやつだ。
「ただいま」
オレは猫を抱きあげ、右手の人差し指を顎の下に差し入れた。かすかに喉を鳴らして、猫は気持ちよさそうに体をくねらせる。うねうねと撓う体はやわらかく、あたたかい。生きもののあたたかさを腕の中に感じると、やさしい気持ちが波のように寄せてくる。だからだろうか、この猫を手離せないでいる理由は――。
オレはいち度、洗面所に向かって手と顔を洗い、再び猫を抱えて二階の自室に上がった。自室の床にバッグを置き、ベッドのふちに腰掛ける。猫はオレの腕の中で、安心したようすで目を瞑っていた。
空腹を訴えないこのようすだと、啓介はきちんと猫に餌を与えてくれたらしい。言われたことはきちんとこなす律儀な男なのだ、あいつは。
チノパンの尻ポケットから携帯を取り出すが、メールも着信も入っていない。オレはふう、と息を吐く。
猫の里親探しは、なかなかに難航していた。ホームページで呼びかけてはいるものの、連絡はいまだに一通も来ていなかった。もちろん個人情報の開示はソーシャルなメールアドレスのみで、こちらの名前も住所も明らかにしていない。パソコンのメールアドレスから携帯のアドレスへ、メールが来たら転送されるように設定しているのに、それが機能したことはまだなかった。
やれやれ。腕の中の重みとぬくもりを感じながら、さてこれからどうしたものかと思案する。このままずっと、うちで面倒をみることになったとしても構わないのだが――と、そこまで考えて、啓介の顔が頭に浮かんだ。唇の端が、自然と持ち上がってしまう。
あいつにはひどく、かわいそうなことをしているのかもしれない。でもまさか、こんなに嫉妬するなんて思っていなかったんだ。だって、相手は猫。人間とは種がまるでちがう。言い訳めいたせりふを心中で呟き、オレは「しかたがないじゃないか」とひとりごちた。
「見て見ぬふりができなかったんだから」
腕の中で、猫が身動ぎをした。手の甲をぺろぺろと舐める小さな舌の感触がくすぐったい。
「なあ、おまえ。啓介とも仲良くしてやってくれないか」
賢いこいつは、啓介が自分に妬いていることに気づいている――そんな気がする。無論、それを確かめる術はないのだったが。
オレはベッドに横たわった。シャワーを浴びたい気持ちはあったが、猫がシャツに爪を立てて、離れようとしない。そうしているうちに次第にまぶたが重たくなってくる。体に馴染んだベッドに体を沈めると、いつも、ものの数十秒で眠気が訪れる。基本的にどこででも眠れるが、やはり自宅のベッドは良いものだ。
頭の中を占めるさまざまな雑念が、とろりとした眠りの中に溶けてゆく。それを心地好く感じながら、オレは目を閉じた。
遠くのほうでドアのひらく音がして、ふいに意識が持ち上がった。次いで、足音を忍ばせてこちらに近寄ってくる何者かの気配を感じる。目を開けようとして、とどまった。気配の主が啓介であると、すぐにわかったからだ。
胸の上に乗った猫が先に目をさまし、なあぁ、と鳴く。啓介は威嚇するように「しーっ」と言った。
「ばか、静かにしてくれ」
必死に声を抑えているが、残念ながらオレはもう起きている。しかし啓介はそれには気づいていないようで、そろりそろりと近づいてくると、ベッドサイドにしゃがんだ。頬のあたりに、視線を感じる。オレの顔を見、胸の上で寝そべる猫を見、そしてもういち度オレを見て、啓介はため息をついた。
「……アニキおかえり。お疲れさん」
小さな、とても小さな声で啓介はそう言った。その声には底なしの愛情がこもっていて、オレはまぶたがかすかに震えるのを感じた。
「オレ、猫にちゃんとメシやったから。心配すんなよ」
知っている、ありがとうな。心の中で返事をしたその時、啓介のてのひらがオレの手をやさしく包んだ。乾いた皮ふと、ぬるい体温を触覚する。あにき、と、舌足らずな発声で啓介は言った。
「アニキ、だいすき」
それも、オレは知っていた。笑みを含ませた告白に、思わず名前を呼びかけた。啓介は額をオレの鎖骨に押し当て、頭を左右に揺すった。まるで猫が甘えるような仕草に、喉まで出かかった声が体のうちがわに吸いこまれてしまう。金色の髪の毛が、顎をくすぐった。
「なあああ」
猫が煩わしそうな声を上げた。猫にしてみれば今の啓介は、パーソナル・スペースの邪魔をする厄介な存在に他ならないのだろう。
「うるさいなあ。アニキはオレのだぞ」
啓介は最後にもういち度、ぎゅう、と額を押しつけると、やがて身を引いた。啓介の体温が遠ざかっていくことに、オレは途方もないさびしさをおぼえた。
「おやすみ、アニキ」
啓介の声はまるく、甘かった。
目を、開けてしまおうか。そう思ったが、オレが目を開けるより先に啓介は部屋を出ていってしまった。
ドアが静かに閉まり、そこでようやく、オレはゆっくりとまぶたを持ち上げることができた。
上体を起こして鎖骨に指を這わせてみるが、今はもう自分の体温と、心臓の鼓動しか感じられない。さっきまでたしかに存在していた啓介の輪郭は、あっというまに消えてしまっていた。
まったく。そっと、ため息をつく。
「……ほんとうに、かわいいやつだな」
オレはてのひらで顔を覆って、暗闇に沈む天井を仰ぎ見た。