わたしと“わたしのおとこ”との別れは、突然だった。突然、とはいっても期間限定であることは最初から承知の助だったし、人間たちの間ではわたしをどうするか、水面下で密かな議論を重ねていたと思われる。だから取り立てて、「えっ、今?」みたいな、寝耳に水の事態には陥らず、わたしは冷静に現実を受け止めることができた。
「猫ちゃんかわいいーっ!」
高橋家の広いリビングに、幼い少女特有の甲高い声が響いた。集まった人間たちの視線をわたしは独占し、先ほど声を上げた少女は強い興味と好奇心と情熱とを全身から噴出させ、ケージ越しにわたしを見つめていた。
「このたびはわざわざご足労いただき、ありがとうございます」
わたしのおとこが、ソファに座る男女――夫婦のようだ――に、丁重に頭を下げる。軽い素材のジャケットにうす水色のワイシャツを着て、これがまたイケている。まるで梅雨明けの晴れた空のような爽やかさだ。
「いえいえこちらこそ……」
夫婦の妻のほうが恐縮そうに右手を顔の前で振って、笑った。
「こんなに可愛い猫ちゃんをお譲りいただけるなんて、嬉しいですわ。責任を持って、必ず幸せにしますのでご安心ください」
「ママ!」
上品で落ち着いた声に、少女の声が被さる。
「ねえ、早く猫ちゃん触りたい!」
「こらこら、ママたちお話ししてるんだから、まだだめよ」
「ええー」
少女は不満げに唇を尖らせたが、”ママ”のいうことにおとなしく従った。ケージのこちら側から彼女を見つめると、栗色の大きな瞳がわたしを射抜いて、にっこりと微笑んでみせた。
どうやらわたしは、この一家にもらわれていくらしかった。“ママ”も“パパ”も少女も、きちんとした身なりをして、いずれも清潔な匂いをさせていた。高橋家で提供されていた高級マグロフレークを、引き続き与えてくれそうな趣きであった。
わたしはチラリと”わたしのおとこ”を見た。おとこはいつもと変わらぬ涼しい顔をして、諸々の説明を続けていた。(予防接種の話とか、各種保険の話とか。人間間で勝手にしてくれと思う内容ばかりだ)
そうか、と、わたしは理解した。そうか、わたしはおとこと別れるのか。そして新しい一家にもらわれて、そこの家族になるのか。思わず、嘆息する。移動の煩わしさを思うと、それはひどく面倒な事態であった。しかし、すぐに頭を切り替える。元・野良の習いで、環境の変化に対応する能力には秀でている。
まあ、それならそれで、いいかもしれない。あちらの家がいやになったらまたここに逃げて来れば良いのだし。もしかしたらもっとべつの、いい家に拾われるかもしれないし。
どうせ元々わたしは、自由気ままに生きる野良猫なのだ。
雨風を凌げるぬくい寝床と、高級マグロフレークさえあればわたしはなんでもいい。
一通りの話が済むと、わたしは少女の腕に抱かれた。その手のか細さにはさすがに少しどぎまぎしたが、おとこが側について見守ってくれていたので、大きな不安はなかった。
「かわいい、やらかい、あったかい」
わたしを抱きしめて、少女はうっとりと言った。そしておとこを見つめ、
「お兄ちゃん、ありがとう」
礼儀正しくお辞儀をすると、おとこもうれしそうに頷いた。
「大事にして、幸せにしてあげてね。その子はきみの家族だから」
「うんっ、安心して!」
おとこに頭を撫でられて、少女は誇らしげに胸を張った。おとこはわたしの目を見つめた。真っすぐに見つめられ、わたしは少しだけ、照れてしまう。あんなにくっついて側にいたのに、今さら? わたしはその時にやっと、ごくわずかにだが、「さびしい」という感傷を自分が抱いていることに気がついた。
なんだ、そうか。わたしはさびしいのか。
「なああぁ」
わたしは一つ、小さく鳴いた。おとこと会うことは、もう、二度とあるまい。短いあいだだったが、楽しく刺激的な日々だった。それも、今日でおしまいなのである。
視線を動かすと、弟の姿が目に入った。われわれの輪から少し離れた場所に立ち、こちらを見ていた。なんだか複雑そうな顔をしていた。喜んだらいいのか、かなしんだらいいのかわからない、みたいな、さまざまな感情の入り混じった表情。
わたしはそこではじめて弟を、「可愛いやつ」と思ったのだった。
猫との別れが、さびしくないわけがなかった。ひと月と少しの短い期間だったが、あいつは我が家の家族だったのだから。
ホームページに問い合わせがあり、貰い手が見つかってから引き渡しまでは、あまりにもスムーズだった。おなじく高崎市内在住、車で三十分ほど離れたところに住む裕福な家庭に、猫はもらわれていった。小学校に入学したばかりという幼い女の子が特に、猫を気に入ってくれたようだった。大事にしてやってくれという約束は、必ず守られると信じていた。意志の強いまなざを持った、礼儀正しい少女だったから。
猫はこれから先も、食うものと寝る場所には困らない。オレのことも、きっとすぐに忘れてしまうだろう。猫にとってそれはとても幸せなことだ。だが、そういったことを含めて、別れはたしかにさびしいものだった。
里親募集のために作成したホームページのデータをすべて削除し、オレは椅子の背もたれに体を預けた。深く長く、息を吐き出す。
部屋が突然に広く、静かになった気がした。猫の気配を感じないのは、ずいぶんひさしぶりのことだった。一匹分の不在はさびしかった。でも、これでよかったのだ。
梅雨が明けたばかりの空はうつくしく晴れ、どこまでも青く澄んでいた。開け放った窓から湿りけを帯びた風が部屋に滑りこみ、前髪を揺らして通り抜けていく。
「アニキ」
パソコンの電源を落とした時、部屋のドアがノックされる。と同時に、啓介の声が聞こえた。
「入っていいか?」
遠慮がちな声にオレは意地悪く笑って、
「いつも勝手に入ってくるじゃないか」
返事をすると、ドアがゆっくりとひらき、すきまから啓介が顔を覗かせた。唇をきゅっと尖らせている。
「そんなことねぇよ。ちゃんとノックしてるぜ」
「そうだったかな」
両手をぶらんと下げて、複雑な表情で側に立った弟を、オレは見つめた。
「……よかったのかよ、これで」
少しの沈黙のあと、啓介は口をひらいた。
「なにがだ」
「猫」ぼそりと、啓介は言った。
「アニキ、可愛がってたじゃん」
「元々、貰い手が見つかるまでという話だっただろう。幸いにも大事にしてくれそうなご家族にもらわれていって、オレはホッとしているよ」
あいつはきっと幸せになる。好物のマグロフレークも変わらずに食べられる。寝床にも困らない。やさしい女の子が飼い主になる。そう続けると、啓介は適当な言葉を探しあぐねているようすで、口を開けたり閉じたりした。拳を握って、俯く。
なにも言えずにいる弟が、たまらなくいとおしかった。
「啓介」
名前を呼んで、その拳に触れる。啓介は気まずそうに目を上げた。
「そんな顔するな」
「だって、」
アニキが、さびしそうだから。弱々しい声で啓介がそう言った途端、胸中にひたひたと押し寄せるものがあった。あたたかな水のようにそれが溢れてくるのを、抑えようとしてすぐに諦めた。
オレは啓介の手を引き、腰に腕を回して強く抱きしめる。
「やさしいな、啓介は」
「……アニキの方が、ずっとやさしい」
啓介の腹に頬をすり寄せる。まるであの猫みたいだな、と我がことながらおかしく思った。
「正直、こんなに妬かれるなんて思わなかったよ」
一瞬、啓介がびっくりしたように身を強張らせた。しかし否定はしなかった。躊躇いながらもおずおずと腕をオレの首に巻きつけて、「ごめん」と呟いた。
「なんでおまえが謝るんだ?」
「だってウザかったろ、オレ」
「そんなこと思うわけないだろう」
可愛い弟を抱きしめる。猫とはちがう抱き心地とぬくもりが、腕の中にあった。
「オレの寝込みを襲うくらい、さびしかったんだろう?」
「……へっ?」
オレが喉の奥で笑うと、啓介はいよいよ驚いたようだった。体温が一℃くらい上がった気がした。
「気づいてたのかよ?」
「あれで起きない方がおかしい」
「ええ……マジか……恥ず、」
啓介はバツの悪そうに頬を掻いた。
「起きてたんなら、そう言ってくれよ」
「悪い。おまえがあんまり可愛いかったから、少しだけ意地悪したくなったんだ」
ひでえ、と啓介は笑った。
「構ってやれなくてすまなかったな」
背中をさすると、ポロシャツ越しに啓介の背骨のかたちが伝わった。啓介をかたちづくる部品の一つを、指のひらで慈しむように撫でた。
「穴埋めと言っちゃなんだが、今度ふたりで出かけようか」
「マジ? どこに?」
啓介の声が弾む。
「どこがいい?」
「えー……、道の駅? とか?」
そういえばいつだったかも、こういう会話をしたな。思い返そうとして、猫が来たばかりのことだったと思いだす。
「道の駅なんかより、もっとずっと遠くに行こう」
「じゃあ……、海、とか」
「OK」
しばらくは、おまえのすきにさせてやりたい。おまえだけのオレでいたい。
啓介を見上げて目を細める。啓介はくすぐったそうに笑って、腕に力をこめるとオレの頭を抱きしめた。
恋敵との日々は意外にも呆気なく終結した。結局、オレらが一緒に暮らしたのは一ヶ月と少しという短い期間だった。が、そのあいだにオレはずいぶんと情緒を乱され、混乱させられた。猫はそんなオレの気も知らず、幸福そうな一家にもらわれていった。最後にひと声、アニキに向かって鳴いて、それだけだった。さすがは元・野良だ。まったくさっぱりとしていやがる。
今、オレはFCのナビシートに座り、アニキの運転で海に向かっている。猫に独占されていたアニキが、やっとオレの元に帰ってきてくれたのだ。オレはそれがとてもうれしくて、家を出発してから――いや、この日を迎える数日前から――ずっと浮かれていた。
「あっ、オレこの曲すき!」
自分で選んだCDなのだからあたりまえだが、オーディオから流れてくる一曲一曲はどれも普段聴くより心地よく感じられて、これも、この曲も、こっちもすきだ! とオレははしゃいでしゃべり続けた。
ステアを軽く握り、走り屋としてではなく“高橋涼介”という一人の人間として車を走らせるアニキは、ゆったりとした笑みを浮かべながらオレの話を聞いてくれていた。アニキにはあんまり興味がない、オレのすきなロック・バンド。リズム隊の規則的な重低音がエンジンの振動と一緒にシート越しに背中を揺さぶる。
「赤城山じゃない場所におまえと出かけるのは、ずいぶんひさしぶりじゃないか?」
「うん。ここに座るのもすげえひさびさ」
あの夜、猫が座った場所と同じ場所に、今はオレが座っている。ほんとうにばかみたいだけどそれがやたらにうれしかった。だってこの前まで猫にばかり向けられていた視線が、差し伸べられていた腕が、オレだけのものになってる、なんて。
フロントガラスの向こうに見える空は、いつのまにか夏のものになっていた。まっ青な空を背負って、入道雲がわたあめみたいに膨らんでいる。日ざしは強く、眩しかった。
「……アニキをひとりじめできるのも、ひさびさだ」
本音を口にすれば、アニキは口角を軽く持ち上げた。
「おまえはいじめがいがあって楽しいよ」
「勘弁してくれよな、マジで……」
アニキの冗談は冗談に聞こえない。シートに体重を預けて、アニキの横顔を見つめる。オレの視線に気づいているだろうに、アニキはちっともこちらを見ず、澄ました顔で前方に視線を向けていた。
――メロメロにさせてあげるっ
ふと、そんなふしぎなワードが鼓膜に響いてギョッとした。なんだ、メロメロ? 耳慣れないそのフレーズは、スピーカーから流れてくるものだった。
「なんだよ、この歌」
気がつけばCDは一巡し、ラジオに切り替わっていた。流行りのアイドルの歌が場違いなあかるさで車内に響き渡った。メロメロにさせてあげるねっ、と、アイドルの女の子がうたっていた。
ワンフレーズのほとんどが「メロメロ」という単語で埋まっており、聞いているだけで恥ずかしくなる。慌てて手持ちのCDから一枚選んで、オーディオに差しこんだ。アイドルの声が消え、入れ替わりに、ふくよかな男性ミュージシャンの歌声が満ちていく。
「……よかったのか? 啓介」
「は?」
アニキがとうとつに言って、意味がわからず首を傾げた。おかしそうに頬をゆるませながら、アニキはちらとオレを見た。
「さっきの曲のほうがよかったんじゃないのかと思って」
「はあっ?!」
メロメロに、メロメロに、メロメロにさせてやるんだからねっ。そんなアホらしい歌詞のアイドルソング、罰ゲームでも聴きたくない。恥ずい。恥ずすぎて、いっそ死ねる。
「いや、意味わかんねーよ」
「そうかな。啓介の本音をうたってるように聞こえたけど」
「なんで?!」
喉の奥で笑うばかりで、アニキはそれ以上、なにも答えてはくれなかった。
「なんなんだよ、もう」
アニキはいじわるだ、とすっかり不貞腐れてオレは言った。可愛いやつほどいじめたくなるのさ、とアニキが返して、オレは言葉に詰まった。そんなことを言うのは、反則だ。
唇を引き結んで窓の外を見た。山に囲まれていた景色が一変して開け、遠くに水平線が見えはじめていた。海だ。海開きにはまだ少し早いため予想どおり高速道路は空いていて、アニキのFCはスイスイと滞りなく進む。まるで泳いでるみたいにスムーズだった。
上目遣いでアニキの横顔をうかがった。真っすぐに車を走らせるアニキの横顔は、あいかわらずきれいで、かっこうよかった。
メロメロにさせてやるんだからねっ――アイドルのうたう歌に同調する気はまったくなかったけれど、もしもアニキをメロメロにさせることができたら? と、思わず考えてしまった。実際にあの猫が、アニキをメロメロにさせてしまったように。
――アニキはオレに、メロメロにさせられたい?
海はゆっくりと近づいてきていた。ふと湧いてきた愚問をたしかめることなんてできなくて、オレはナビシートに沈めた体を起こして額を窓にくっつけた。視界を埋めてゆく青に、目を奪われる。
「啓介、海だぞ」
隣で、アニキが言った。