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No.2

在りし日のうた(きり丸と乱太郎)



 川辺の緩やかな傾斜が、赤く染められている。鳳仙花だ、と乱太郎は片手に反故紙と筆記用具を持って、草の上に腰を下ろした。
 今日の授業は草花の観察をする。土井は授業の始まりにそう言った。
 それぞれ好きな草花をみつけて、細部までよく観察する事。それが忍びの観察眼を養うのだ、と。
 夏から秋にかけてのこの時期には、様々な花が咲く。入学したての頃にも何度かあった授業だ。春の花々はいずれも可愛らしく、そして冬を乗り切った新しい生を謳歌するように力強く咲いていた。初秋の今時分は、やがて来る冬に備えて次の世代へ種を残そうと、最後の輝きをそこ此処に撒く。
 乱太郎がみつけた鳳仙花もまた同じだった。
 今日が最期の花盛りとでもいうように、川辺の一面を赤に染め上げている。
 きり丸やしんべヱはちゃんとみつけられただろうか、と立てた腿の上に反故紙を拡げ、ふと親友の事を考えた。
 きり丸の事だからきのこ採りに精を出しているかもしれない。しんべヱは実った南天の一つくらいは食べてしまったかもしれない。
 容易に膨らむ想像が、乱太郎の顔を綻ばせた。
 もう少ししたら落ち葉で焼き芋でもしようか、と、ふたりに持ちかけてみよう。それからは組のみんなにも言って、先生達にも話して、おばちゃんにお芋をお願いして、そしてみんなで焼き芋をしよう。
 そんな事を考えながら、乱太郎は墨を含んだ筆を反故紙に落とし、鳳仙花のおおまかな輪郭を描き始めた。

 川のせせらぎと遊ぶような葉擦れの音が耳を優しく撫ぜる。授業が終わったらこのまま此処で昼寝でもしたい気分になり、しかしまだ午前の授業中で、おばちゃんの作ってくれるランチがすぐに待っている事を思い出す。
 忍びの学園だというのにこんなにのんびりとしていてもいいのかな、と筆を滑らせながらふと考えた。風に揺れた鳳仙花の花が臑をくすぐり、動かしていた手を止める。
 昨夜、厠に起きた時に上級生と思われる人間が門を潜っていくのを見た。
 眼鏡をしていても視力に自信のない乱太郎ではあったが、彼が授業の帰りである事は遠目からでもわかった。明かりのない学園へ、よろめきながら歩いていく影は、片足を引き摺っていた。
 私達も、いつかはそうなるんだ、と、漫然と感じた。部屋に戻る廊下を踏み、知らず硬くなった身体を乱太郎は伸びをしてほぐした。
 目の前で揺れる赤い鳳仙花をみつめ、“いつか”の自分を想像しようにも、その輪郭は曖昧だった。
 乱太郎は鳳仙花の花びらを一枚千切り、親指と人差し指の平で擦り合わせた。赤い汁が零れ、指先を染めた。
 不意に、幼い頃、母親が乱太郎の手を引いて鳳仙花の咲く川辺を歩いた事を思い出した。
「花びらを、こう、潰してね、爪に塗るの」
 母親は幼い乱太郎の目の高さに摘まんだ花びらを差し出し、実際に自分の爪に塗ってみせた。その時、乱太郎には母親がいつもよりずっと優しく、美しく見えた。普段は畑を耕す肉厚の手が、鳳仙花の色を纏ってひらりひらりと揺れる。
 それから、母親は乱太郎を膝の上に載せ、まだ乱太郎には意味のわからぬ歌をうたった。
 その歌は異国の言葉で紡がれているように聴こえ、農家の出であるはずの母親が何処でそんな教養を身に付けたのか、乱太郎が十になった今もわからない。
 気がつけば、当時、母親がうたってくれた歌を、乱太郎は鼻歌でなぞっていた。
 言葉の意味はわからない。しかし、旋律だけはしっかりと憶えているそれは、涼やかな川辺にふわふわと漂った。

「らんたろー」
 どのくらいの時が経ったのか、乱太郎は背後から掛けられたきり丸の声に振り返った。
 傾斜の少しばかり高いところに立つきり丸は、想像した通り、大きな風呂敷を背中に抱えていた。その姿に思わずふふ、と笑うと、きり丸は、「なんだよ」、と言いながら、軽い足取りで傾斜を降りてきた。そして乱太郎の隣にしゃがむと、「見ろよ、大漁だぜっ」、と特徴的な八重歯を覘かせて笑った。
「大漁なのはいいけど、ちゃんと課題はやったの?」
 苦笑をしつつ問うと、心配ご無用、ときり丸は胸を張った。
「これ、きのこをさ、ちゃぁんと描いたから大丈夫だって」
「きのこって草花に入るのかなあ?」
「入る! 絶対入る!」
 そして風呂敷を足もとに置くと、ふぅ、と息を吐いた。
 きり丸の行動がまるで予想通りだったため、しんべヱも知れたもんじゃないな、これは、と乱太郎はほとんど完成した反故紙に視線を落とし、これが終わったらしんべヱを探しに行かなきゃと思った。
「乱太郎は絵が上手いからいいよなあ」
 きり丸が手もとを覘き込みながら、心底羨ましそうに言う。
「そうかなあ。私はきりちゃんがアルバイト上手なの、羨ましいけど」
「おれのは生活のためだから」
 へっと鼻で笑う。
「ねえ、これが終わったらしんべヱ探しにいこ」
「あー、そうだな」
 おれより終わってねぇかもしんねぇしな。きり丸はそう言うと、身体を後ろに倒した。乱太郎も最後のひと筆のために視線を戻す。
 その時、きり丸の微かな歌声が聴こえてきて、思わず筆を取り落としそうになった。
「きりちゃん?」
 寝転がったきり丸を振り返ると、閉じていた目を開き、きり丸は驚いたように「ん?」と言った。
「それ、その歌、知ってるの?」
 きり丸が奏でた歌は、乱太郎の母親がうたっていたものに相違なかった。
 異国のそれのような言葉で紡がれた旋律は、じっと鼓膜の内側で震えている。
「昔、教えてもらったんだよ」
「……誰に?」
「かーさん」
 風がざぁっと鳳仙花を洗う。乱太郎は目を丸くさせ、ねえ、と震える声で言葉を繋いだ。
「絵、描き終わるまで、うたっていて欲しいんだけど、」
 ドケチのきり丸に相応しくない言い方であったが、気にしている余裕はなかった。
 きり丸はしばらくじっと黙っていたが、やがて低い声でうたい始めた。
 舌を噛みそうな言葉であるのに、きり丸はすらすらと口を開く。その歌声を聴きながら、乱太郎は反故紙に描かれた鳳仙花をみつめていた。
「なー」
 旋律が途切れ、きり丸が話し掛けた。なに、と返すと、きり丸は寝転がったまま、「なんでお前この歌知ってんの」、と問うた。
「……母ちゃんがうたってた、小さい頃」
 ふぅん。きり丸は息を吐いた。
「この歌の意味、知ってる?」
 首を振ると、きり丸は目を閉じて、ひと言ひと言を噛みしめるように言った。
「“鳳仙花の花で指先を染めるように、親の言葉を胸に染めなさい”」
 千切った花びらが風に流され、しかし鮮やかな赤は乱太郎の指先に不恰好な模様を描いていた。




(10.1011)



*きり丸のうたっていた歌は沖縄の民謡、「てぃんさぐぬ花」です。
室町の当時にこの歌が存在していたかはわかりませんが、歌の意味がは組ちゃんにぴったりな気がしたので、勝手ながら使わせて戴きました。


落乱

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