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No.40
ハインリヒさんお誕生日おめでとう2014。・ジョーとリヒさんしか出てきませんがCPではありません。・「サイボーグは年をとらない」という解釈でもって書いたお話です。どうしても書きたかった。
favorite ありがとうございます♡ 009 2025.1.11 No.40
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去年もたしか、そうだった。やたら性能のよい鼻が、秋の、芯に孕んだひややかな香りを感じたのも、それをひそかに(抱きしめるように、)なつかしく思ったのも、薄い朝日に瞼をくすぐられてめざめたのも、去年とまるでおなじだった。
目が覚め、からだを起こす。ベッドのふるいスプリングがギシッ、と軋む。ここで、自分がいま、生きて、在る場所で、もう何千回何万回何十万回とくりかえし迎えた“あたらしい”朝だ。うんざりと、髪をかき上げる。夏に散髪したはずだったけれど、いつの間にか伸びて、無駄な人間らしさを主張することに苛立ちを感じる。――去年もたしか、そうだった。
窓の外で、波が寄せ、こまかに砕ける音が聞こえる。毎朝耳にする波音に、毎朝逆立つ心を鎮められている。波は季節によって音を変える。春の、夏の、秋の、冬の、それぞれの放つ音が耳の奥、鼓膜の、ともすればもっと奥の、人間が“記憶”と呼ぶ場所に染みこんで、離れない。いつかこの音が聞こえなくなる時が来るのかもしれない。そんな漠然とした、けれど確信めいた予感がつねに胸に渦巻いて、それを非道く煩わしく感じる。
人はいつか死ぬ。必ず死ぬ。それは逃れようのない事実で、そしてそのいつかは、あしたかもしれない。
手櫛で髪を撫でつけて、薄いワイシャツを羽織り、部屋を出た。窓から差す陽に目をほそめた。眩しくなどないはずなのだけれど、かつて人であった頃の名残はこのからだになっても消えてはくれない。要らん要素だ。いつかぼやいた言葉を、またくちの中でくりかえす。
「それは、」
リビングで、ジョーに言われた。たしかきょうみたいな秋のはじまりの日だった。
「きみがまだ人でありたいからだね」
ジョーはありとあらゆる愛情をこめたまなざしでそう言った。コーヒーのこうばしい香が漂っていて、10畳ほどのリビングには二人しかおらず、波の音で満ちていた。
自分より年下の童顔の青年に言い諭されることは、すこしばかり矜持が疵つくものだけれど、ジョーのその言葉はなぜかすなおに胸に落ちた。すとん、と音を立ててしずかに心に沈むのを、たしかに感じた。
おなじ言葉を、たとえばジェットに言われたとしても自分は、もしかしたらすなおに聞きいるのかもしれない、と今なら思う。要するにそういったたぐいの慰めを、必要としていたのだろう。やれやれ情けない、とため息が出る。ずいぶんと年老いた気分で、踏みしめるようにして階段を降りた。
「おはよう、アルベルト」
リビングにはジョーがソファに坐ってコーヒーを飲んでいた。朝日がフローリングの床に光だまりを落とし、波の音がもどかしそうに漂っている。おはよう、と低い声で応じると、自然な動きで彼は立ち上がり、キッチンに消える。
一人掛けのソファに腰を下ろし、ローテーブルに置かれていた朝刊を手に取った。一面に、不祥事を起こした日本の幹部の写真が大きく取り上げられている。見憶えのある写真と記事の並びだった。過去に何度も、こういった話が世間を賑わせ、そのうち波の引くように消えていく。そのはかなさとある種の切り替えの速さにもう何度もうんざりし、苛立ち、そうして忘れ、ある日また訪れる。
「みんな、もう買い出しに出ちゃったよ」
目を上げるとジョーが、片手にコーヒーカップを持って立っていた。まるい頬におだやかな微笑を浮べ、慈しむような視線をこちらに向ける。
「はやいな」
コーヒーを受けとって、くちをつける。さわやかな酸味と苦味を感じる。この味をジョーは毎朝律儀に抽出し、みなに提供する。自分には調度よい味で、けれどジェットには苦すぎるらしく、いつもミルクと砂糖で台無しにしてしまうのが未だに理解できない。
「ね。はやいね」
去年もそうだったねえ、とジョーがいうので、そうだったかな、と気のない返事をした。もちろん、記憶は鮮明にあった。去年も、おととしも、その前も、たしかそうだった。起きるとみな既に出払っていて、彼らを待ちながらジョーと二人、リビングでコーヒーを飲んだ。しずかにしずかに時間の過ぎていくのを、心地好いような、もの足りないような、複雑な思いで感じた。
次の瞬間には何かが起こって、自分は死ぬかもしれない。そんな不安が時間とともに薄れていくのをおそれていた。だから忘れないようにいつだって胸に抱え、平和に慣れ親しみすぎないように生きてきた。
不安定な時代に青春を生きてしまったツケだと自己分析できるくらいには自分はもうだいぶ大人で、いつの間にか若いやつから「おっさん」と称されるようにもなった。
けれど、おっさん、から、じいさん、になる未来が自分にはもうないのだと、ふいに思う。
戦争や内紛のニュースに腹を立て、若者の不躾に憤り、それをこの先何年何十年も繰り返す。終わりはたぶん、ない。
「また去年とおなじこと考えてる?」
独り言のようなジョーの声が耳に降り、視線だけを向ければ、彼は両手でコーヒーカップを包むようにして抱え、そのさまはまるで幼い子どものようで、すこしホッとする。
「ああ」
自分の声があまりに低く、平坦に転がるのを、心細く思った。
「まじめだね。いつまで経っても頭がかたい」
「おっさんだからな」
ジョーは息を吐いて笑った。
「きみもじいさんになったらもうすこし、まるくなるのかな」
「石頭のじいさんだっているだろう」
「でも、博士だってだいぶまるくなった。年とるとね、人ってやっぱりそうなるんだなって」
「……俺は“ヒト”じゃないしな」
卑屈な態度を、ジョーはもう諫めなかった。くりかえされた慰めが、卑屈をすこしずつやわらげ、いつしか一つのジョークに変わったことを知っていたからだ。
胸ポケットに入れっ放しだった煙草の箱を取り出し、一本咥えて火をつける。ふるい銘柄の煙草は、もうこの近辺のコンビニでは売っておらず、街なかの、梅干しみたいなばあさんが終日坐っている煙草屋に行かなければ手に入らない。時代から取り残された風情のちいさな店は、かなりの年季が入っていて、梅干しばあさんはいつも置き物のようにそこに、いる。気難しげな眉を吊り上げ、老眼鏡の奥のちいさな目は皺に飲まれてしまいそうで、一言もくちを利かない。そんなドラマチックな存在は、小説か映画の中だけだと思っていただけに、その店と彼女の存在は、軽い衝撃だった。
あのばあさんもきっと石頭だな、と煙で肺を膨らませながら思う。
いつかあのばあさんが死んだら、店はなくなる。その時はどこで煙草を調達しようか。
「ねえ、アルベルト」
コーヒーカップをテーブルに置き、ポケットに手を突っ込みながらジョーが言った。
「ほんとは、今渡すべきじゃないんだけれど……」
なんだ、とは言ったものの、彼の行動は読めていた。ジョーが取り出したちいさな袋を、左手で受け取る。
「去年とはすこし違うだろう?」
袋を開くと、中にはジッポーライターとオイルが入っていた。銀色に輝くライターは手のひらに載せるとずしりと重く、品のある光沢を放つ。
ああ、と咽の奥で笑った。
「去年は赤茶色のもんだった」
「あれもけっこう高かったよ? 僕は好き」
蓋を開け、綴じる。耳障りのよい音だ。その音を聞いた途端、一瞬でこの贈り物が気に入った。
「Danke schoen.」
「どういたしまして」
ラッピングの袋は、店のものではなく、ジョーが自分で用意し包んだものだとすぐにわかった。くちを結ぶ紐にぶら提げてある子ども染みたメッセージカードを指でなぞると、ジョーは照れくさそうに笑って、
「なんか、さすがにもうくさいかな」
と、言った。
「まあな」
「あー……やっぱり……、うん、でも、気持ちだから」
時計の針が11時をさした。みなはいつ頃帰ってくるのか。それぞれが贈り物を抱えて、花束を持ってドアを開けるのを、そのさわがしさを想像すると疲れてしまうけれど、それはきっとこの先も変わらず続いていくのだろう。
アルベルト、とジョーが居住まいをただすので、思わず背筋が伸びた。日本人のこうした礼儀正しさに触れると未だに緊張が走る。ジョーはやわらかな笑顔で、つづけた。
「誕生日、おめでとう」
(14.0920)