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No.62
HQ!!
2014年頃にブログに書いていた影菅掌編つめあわせです。子どもだったり、おとなだったりしています。連載中だったため、これらと最終回後のかれらのストーリーとは無関係であり、おとなになったふたりの姿は当時のわたしの妄想です。すべてifのものがたりとなります。ご了承ください。
favorite ありがとうございます! 2025.11.28 No.62
ありがとうございます!
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01.
俺をすきだといって泣いた影山の頭を引き寄せて、落ちてきた額を肩に受けとめた。まだ硬い蕾をいくつもつけた桜の枝が彼の頭のむこうに見えた。それを抱くような空の冷静な青も。
手を伸ばしたのは無意識の行動だったけれど、無意識にそうしたことをしてしまうくらいには影山のことばには、涙には、切実さがあって、つらかった。俺がすこしも、この子とおなじ気持ちを持ってはいないことを、この子は疾うに知っていて、それを知りながらすきだということばを引き出させる俺はサイテーかもと、ざらっとした罪悪感が胸に湧く。同時にわずかな優越感と、彼に好かれている、恋されていることへの快感も、あった。
「菅原さんが、そうじゃないって、知ってます」
俺の肩に額を押しつけたままくぐもった声で、影山は言った。「でも、俺はすきで、そういった意味で、すきなんです」。
そういった意味で、って、どういった意味で。意地悪な質問を飲みこんで、さらに意地悪な言い方を唇にのせる。
「それはさ、たとえばさ。デートしたいとか、手を繋ぎたいとか、キスしたりえっちなことしたいとか、そういう意味で?」
そういったことを影山が望んでいるのだろうということは、彼が沈黙してしまったことで察した。当り前なことだ。誰だって誰かに恋したら、その人とデートしたり、手を繋いだり、キスしたりえっちなことしたいと考える。俺もそうだったし、恋愛なんてしたこともない様子の影山もまたおなじなはずだ。俺たちはおなじ人間で、おなじ男で、性欲だっておなじようにある。
思わずくふふ、と笑うと、耳のふちを赤く染めた影山が俺の瞳をみつめた。
「……あのなんか、すんません」
そうして俺から離れようとしたので、阻止するように、ごめんちがうと俺は笑いながら、彼の後頭部を手のひらで撫でた。
「なんかちょっと、安心して」
「あんしん?」
「影山も人の子なぁ」
腑に落ちない、といった表情をされる。それが可愛くて背中に腕を廻し抱きしめる。硬直した影山のからだの薄さ、学ラン越しの骨の感触。
「ほんとは、」
しばらく押し黙ったあと影山は言った。
「ほんとは言うつもりなんかなくて。でも言わないでいるのもしんどくて。言っても言わなくてもしんどいなら、言ったほうがいいと思って」
言い訳のようなことばの羅列が、心地好いと思った。俺のためにことばを選び、俺のためにことばを紡ぐこの少年を愛しいと、心から心から思った。
「困らせて、すみません」
この子のことを好きになれたならよかった。目の前の誠実で頭の弱いこの子に恋ができたならよかった。
背中に廻していた腕をほどき、足を引いて、からだを離す。真っすぐにこちらをみつめる影山の、赤く充血した目。
「ありがとう」
すこしだけ涙が出た。
02.
布団にくるまっていると汗が滲んで、それが鬱陶しくて起き上がり、午前0時だというのにどういうわけかホットケーキを焼いている。ホットケーキミックスと牛乳と卵があったから、唐突に食べたくなって焼いている。日づけが変わったばかりで、春のはじまりというのにやけに蒸し暑く、換気扇を廻した。古い換気扇のガコンッ、という音が深夜の台所に響き、起きるかなと思った途端気配をかんじた。台所と居間を遮るドアがひらいて、影山の細長い影が夜闇にぼんやりと浮んだ。
「なに、してんすか」
寝起きの掠れた声で彼はいう。「ホットケーキ作ってる」と俺は律儀にへんじをする。
「……夜中っすけど」
「うん。知ってる」
影山は不思議そうな顔をしたものの、けれど無言で冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して飲みながら、ちいさなダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。
「なんか、腹減ってさ。あと甘いものむしょうに食いたくて」
「俺も腹、減りました」
「おー。いっしょ食うべ。あ、蜂蜜とバターあったっけか」
「ちょっとまえに買ってましたよね」
影山は炊飯器やらトースターやらの載った棚を開けて、ごそごそと探ったのち蜂蜜の壜を取り出す。
「男二人の生活に、なんでそんなもんがあるんだろーか」
自分で買ったくせに、改めて思うと笑ってしまう。ホットケーキミックスも、蜂蜜もバターも、滅多に使わない。唐突に思いたって焼いてみたのは何か月前だったか、記憶を遡ろうとして思いだせず、やめた。
深夜の台所にホットケーキの焼く音と、焼ける匂いが満ちてゆく。甘ったるく、すでに胃もたれしそうなほどだった。
「孝支さん、ジャムもありましたよ」
冷蔵庫の奥に眠っていた苺ジャムを取り出した影山は、俺の背後に立って俺の手もとを見守っている。おお、豪勢な夜食だなーと笑うと、「俺、なんか、幸せです」と影山は言った。
ぽつりと呟くように、彼は言った。
03.
女同士のセックスは、どちらがどちら、というきめごとみたいのはないらしいと何かで読んだ。ネットだったかくだらない雑誌の片隅だったか、そんなことはどうでもよいけれど、要するにつっこむモノがないから、そうなのだそうだ。男同士は、つっこむモノがふたつあるから、どちらがどちら、というきめごとが割にはっきりとしている。抱くのと抱かれるのと、一度決まってしまえば、流れるようにその関係はつづく。俺は影山に抱かれて、影山は俺を抱く。一度、最初に、そうなってしまったから、その関係はだから今も続いている。
「しょうじきなところだけどさ、」
春の夜の、まだ夏掛けではない布団の中で、汗にまみれて、ブランケットは、いつの間にか床に落ちている。はい、と、セックスの時、特に終わった後はやけに神妙な色を帯びる声で、今夜もやはりその声音で、影山がすぐ隣でへんじをする。
「俺も、たまにはお前を抱きたいと思うよ」
それに深い意味はなかった。深い意味はなかったけれど、影山の顔が強張ったので、深い意味があると捉えられたようだった。その頬を両手ではさんで「そんなむつかしい顔すんな」と、笑う。
「べつにお前に抱かれるのが厭とかじゃないしさ、どっちがどっちでもいいし。でも、俺も男だから」
男だから、すきな人間を抱きたいと思う。
「……俺も、男っす」
俺に頬を挟まれたまま、唇を尖らせて、影山が反駁するように言う。
「知ってるけど」
「俺も、菅原さんが男だって、知ってます」
「んじゃ、俺の気持ちもわかる?」
影山はすこし黙ったあと、やはり神妙な面持ちで静かに頷いた。
彼の顔から手を離し、天井を見上げて伸びをする。かすかに雨の音が、へやに漂っている。夕がたから降り始めた雨は、あしたの朝までつづくらしい。
「孝支さんは俺のこと、抱きたいんすね」
「んー……まあ、そうだなぁ」
落ちてしまいそうな瞼を持ち上げて、天井と、影山の顔とを交互に見やる。うすやみの中で彼の輪郭はぼんやりと滲んで、けれど表情はよく読み取れる。
「影山は俺に抱かれたい?」
困惑と動揺を隠せない影山を追いつめるように、くちにする。いじめているようですこし気が引けるけれど、彼を断崖絶壁にじりじりと後退させてゆくのは思いのほかたのしいものだった。
片肘でからだを支え上体を起こし、壁に背中を貼りつけそうなくらい身を引いた影山を下から見上げて俺はいう。
「抱いてさしあげましょうか? たまには」
04.
車内の空気はあたたかく停滞していた。軽い走行音に降り出した雨が絡まり、フロントガラスの向こう側が白く煙る。
「見にくいな」
運転席で、菅原が呟いた。視線を投げれば、夜の闇の中に彼の曖昧な輪郭がぼんわりと浮かぶ。滑らな頬を対向車のヘッドライトが舐めるように照らした。いるはずなのに存在が非道くおぼろで、夢のようにさだかではない錯覚をしてしまうのは、このあたたかさのせいだと影山は知っていた。さらにいえばとても疲れていて、頭の芯がぼうっとしている。
ふたりきりでいられるこの時間が惜しく、すこしもねむりたくなどない。けれど、背筋を撫でる車の振動が心地好くて、今にも瞼が落ちてしまいそうだった。
「……ねむい?」
耳朶を彼の声が掠めた。はっとして居住まいをただすと、菅原は笑って、
「ねむいなら寝ていいのに」
と、言った。
「……ねむいっすけど、」
寝たくないです。駄々を捏ねる子どものような科白だと、自覚すればみょうに照れくさい。あくびを噛み殺しながら窓枠に肘をついて、雨に濁る景色に視線を放った。
10月の雨はつめたく、静かに街をひやしていた。ひと雨ごとに冬が来る。地元にいた頃、この時期になると祖母がよく言っていた。ひと雨ごとに冬が来る。先人の、経験によって導き出された言葉の意味を、大人になってからようやく理解できた。9月の残暑はいったいどこに行ってしまったのだろうと不安になるほど、季節はどんどんと、冬に流れてゆく。
車のタイヤが道路を滑る音はしずかで、時折り水溜まりを踏む、かすかな音が聞こえる程度だった。ささやかに耳を撫でるような、けっして不快ではない音。
数メートル先の信号が黄色に変わり、瞬く間に赤になる。
「雨の夜の運転て、苦手だ」
ブレーキをゆっくりと踏みながら菅原は言った。「最近、近眼ぽくなってきたし」。まだ眼鏡をかけるほどではないけれど、疲れてくると目が霞んでくるという。
「すんません、やっぱ、俺も免許、とります」
思わずそう言えば、菅原はふきだした。
「ちがうちがう、そういうことでなくて」
「でも、いつも迎え来てもらって悪いじゃないすか」
「や、それはぜんぜん。むしろ影山は免許なんてとんなくていい、ってか」
練習や遠征から帰るたび、菅原に駅まで迎えに来てもらうことに、影山は気兼ねしていた。出かける前に必ず、「帰る時連絡しろよ」と言いつけられ、その言葉を忠実に守っているうち、いつしかふたりのあいだの習慣になっていた。菅原の所有である軽自動車は、車にまるで詳しくない影山にも、中古の、その中でも特に安く古いものであるとわかった。修繕に修繕を重ね、何とか生きながらえているといった態で、けれどそのオンボロな具合がやけに落ち着くのもまた事実なのだった。
「別に、要らないじゃん? 俺がいるし」
「……はあ」
菅原のいう言葉の意味が飲みこめず、頓狂な返事をする。
「俺がいるあいだはさ、俺が乗っけてってやっからさ、どこまでだって」
「菅原さんいなくなったら俺、困ります」
青信号に変わり、車は再び夜の街を走り出す。菅原の指がラジオのスウィッチを押し、ざらついた電波に乗って低い音楽が流れ始めた。繊細そうなギターのイントロで、英語の歌詞であるその歌を影山は知らなかったけれど、今の車内の空気に非道くよく似合うと思った。
「これ、うちのとーさんがよく聴いてたやつだ」
メロウな旋律と、ひきつるような中低音のヴォーカル。重たくてどこか息苦しささえ感じるのに、とろとろとしたねむりに引きこまれそうだった。
「……着いたら起こすから、ねむってていいよ」
菅原の声が耳に落ちる。頭をシートに預け、からだをしずめてゆく。ギターの音が、ヴォーカルの声が、遠ざかってゆく。おやすみ、と彼がいうのを、閉じていく意識の片隅にひっかけた。
車内の空気はあたたかく停滞している。その中を這うような旋律が、夢のようにまぼろしのように、もつれて、溶けて、消える。
天国への階段 / Stairway to Heaven / Led Zeppelin
05.
ところがね、お母さま、たった一つあったの。おわかりにならないでしょう。他の生き物には絶対に無くて、人間にだけあるもの。それはね、ひめごと、というものよ。いかが? ――太宰治『斜陽』
あの子とのことを、秘密にするつもりはもうとうなかったけれど、堂々と公言してしまうのもおかしな気がして、なんとなく互いにくちをつぐんで、(まるで示し合わせたかのように)、きっと誰にもばれてない、そうだからこれは二人だけの秘密。
「……いいたい」
夕闇の中、手探りをして影山の手をとった。秋のはいりくちの、涼やかな風が肌にまつわりついたみたいにひんやりとした手だ。触れるとかすかに強張って、それからそっと俺の手を握り返す。この子の動作は一つひとつが謙虚で、その躊躇いに微笑ましさを感じられて、自分がすこし、ちゃんとした大人になったような気分になる。
え? と彼の視線がこちらに落ちるので、見つめ返してから、もういちど、「言いたい」と、はっきりとくちにした。
「なにを、っすか?」
「俺たちのこと」
二人の前を、群れをなして歩く黒い背中に指を差した。
「俺たち、つき合ってること」
途端、影山の瞳がにわかにまるくなる。
「だっ、だめです……!」
「なんで」
「なんで、て……」
まるくなる瞳に反比例して尖る唇が可愛らしかった。
この子とのことを、誰も知らない。ふだんいっしょにいる大地も、旭も、俺がそういうそぶりを見せないというだけでこの子との関係性をすこしも怪しんだりはしなかった。大地も、旭も、人の内側を無理に追及したりすることをこのまない性質だから。今だってほら、二人だけが集団を離れたすこし後ろのほうを、遅れて歩いていることに気がつかない。気がつかないけれど、もうすこししたら大地が振り返って、「あれ、スガは?」とか言い出すんだろうから、今、二人が二人きりでいられるこの時間は、あとほんの少し、だった。
「……なんでも、だめです」
「もうさー、いいんじゃない?」
「だめです、ぜったい。だめっす」
「恥ずかしいの?」
ぼっ。と、影山の顔が赤くなる音が聞こえた、気がした。実際は夜に溶けて、顔色なんてちっともわからないのだけれど。
「……恥ずかしい、とかじゃなくて、」
「うん」
とぎれとぎれに、影山は言葉を発する。ゆっくりと坂道をくだりながら、繋いだ手をぶらぶらとさせて、ほんとうはこの話題は、じつはどうだっていいと思っていることに気がつく。別段、言いたいとも言いたくないとも思っていない、ばれなければまあラッキー、ばれたらばれたでそれでもいい。けれどばれた時、影山がどういう反応を示すのかいまいち想像がつかなかった。
青ざめたり、疵ついたような顔をしたり、するのだろうか。
その影山を見て、俺もまた非道く疵つくのだと思う。それは想像するだにかなしく、歓迎できない未来だった。 それは、いやだな、と思った。
「知られたくない……」
掠れた声で影山が言う。うん、と、曖昧な相槌を俺は打つ。
「……せっかく、秘密なのに」
秘密、と俺はくちの中で反芻する。
「知られたくないんです。せっかく、秘密なのに。二人だけの秘密なのに」
この子とのことを、秘密にしていたつもりはちっともなかった。そんなつもりはなかったし、そもそもこの子のくちから“秘密”という単語が発せられるなんてまるで想像していなかった。そういう概念がこの子の中に息づいているとは思わなかったのだ。
それで、驚いてしまって、影山を見やると、彼は案の定目を伏せて、不貞腐れたように唇を尖らせていた。うわあ可愛い、と思った。
彼の唇は薄く、つめたく、けれど触れるとぽってりとした弾力を感じる。その感触が好きで、触れたいと思い、触れられたい、と思うのだ。
く、と手を引く。わずかな躊躇いを肌ではなく空気に触覚する。落ちてきた唇を唇で受けとめる。
やわらかい、すこしだけ湿った皮膚だった。
さざなみのようなざわめきの中に、同級生の声を嗅ぎわける。彼らはこちらを見ていない。このキスの瞬間を知らない。それは不思議な快感だった。
誰も見ていない、誰も知らない。
「 このことは秘密な 」
硬直したままの影山が、もげそうな勢いで首を上下に振る。夜に溶けそうな髪の毛が、さらさらと頼りなく目の前で揺れる。
そのさまを見て、ああほんとうに、このことが一生の秘密であればいいのに、と俺は思った。一生、誰にも知られず、誰にも見られず、二人だけの秘密であればいいのに。
繋いだ手のあたたかさも、夜に隠れてのキスも、誰にも知られなければいいのに。
スガ、影山! 大地の声がする。いつの間にか、前を歩くみんなと二人のあいだには大きな開きができていて、遠くの街燈に黒い背中がぼやけていた。
見えていない、知られていない。そのことがみょうに嬉しくて、淡い昂奮さえおぼえる。
繋いだ手をほどく。する、と音もなく、何の抵抗もなく離れていく。手のひらに流れこむ風がつめたい。
「行こう」
影山が頷くのを確認してから、俺は右脚を前に出した。
06.
あの人からたばこの匂いがする。あんまり好きではない匂いだ。好きではない匂いだけれど、あの人のことを愛してしまってから多少のそういう都合の悪いことなんてどうでもよくなって、好きではない匂いすら好きになってしまいそうで、それはなんだかすげえ怖い、とか思いつつも、やっぱりあの人のことが好きなので、こうして抱きついて深くふかく呼吸なんかをしてしまうのだ。
「たばこくさいべ」
と、頭の上であの人が笑うのを振動で感じる。少し黙ってから、くさいっす、と俺は正直にこたえる。息をするように自然な動きであの人の手が俺の頭のてっぺんに触れた。
大きくてあたたかな手のひらだった。
あの人が俺より2つ年上で、そのぶん俺より2年はやく大人になるのを、俺は未だによく理解できないまま、ただただ好きです好きです愛してます好きですほんとうに、愛してるんですをくりかえして、ばかみたいに何度も何度もくりかえして、そうして今もまだこうして二人でいっしょにいる。狭いベランダに続く窓のふちにあぐらをかきながら、腰に抱きつく俺の頭を撫でて、あの人の横顔はまるで大人のものだった。大人の男のものだった。
「飛雄の頭はむかしっから変わんないな」
笑いを含んだ声が届いて、目を上げる。夏の終わりの、すこし弱くなった逆光が彼の髪を透かしてきらきらときれいだった。
「アタマ」
意味がわからず首を傾げると、「頭のかたち」と訂正された。頭のかたちなんて意識したことがなかった。彼の手のひらが俺の頭を撫で、そのたびに俺はぞくぞくとして、軽く彼の服の裾を握るけれど、そんなのには気づかないのか気づいていない真似(フリ)をしているだけなのか、まるで無視して、何かを探るみたいにひたすら手のひらを動かすのだった。
犬とか、猫とかの、動物になった気分だった。
「飛雄の頭のかたち、俺すき」
なんといったらいいのかわからない。なんといったらいいのかわからないけれど、あの人の声は幸せそうで、耳に落ちると非道くこそばゆい。
ふいに涙が出そうになって、綴じた瞼を彼の腰におしあてた。シャツから甘い匂いがする。それにまじってかすかにたばこの匂い。
「孝支さん」
彼のからだははんぶんがベランダに、外に、出ていた。それ以上そちらに行かれるのをとめたくて、ほとんど縋るみたいに俺は彼の腰を抱きしめた。
「もうベランダでたばこ吸わないでください」
こちらに背を向けて、窓をぴしゃりと閉めて、たばこを吸う彼の後ろ姿を見ているのは、なんとなく厭だった。たばこより、たばこの匂いより、厭だった。
まるで「お前とは何の関係もない」といわれている気持ちになって、かなしくなるのだった。
「……だめだよ」
「だめじゃないです」
吸うなら部屋で、俺の側で吸ってください。そういう意味をこめて彼の瞳をみつめる。彼はあきらかに困った顔をしていた。彼を困らせていると胸がざわついた。けれど言いたかった、しかたがなかった。
「だめじゃないです」
彼がたばこを吸うたかが5分か6分、そのたかが5分か6分のあいだに俺が感じる、へんな緊張感とさびしさを表現できるほど俺は言葉を知らなかった。ばかみたいに「だめじゃないです」とくりかえす。この人にいう、好きです愛してます愛してるんですと、おんなじ頼りなさで。
彼の指が頭を、髪の毛を、撫でる。俺のほうが大きいけれど、俺のよりずっと大人なかたちをしている指を感じる。俺より2年、色んなことを知ってる手。
「おまえはまだ子どもだから、だめ」
彼の目が、俺を見下ろして、それがあんまり優しい色をしていたから、俺は何も言えなくなった。
くちを尖らせると、彼の指がそっと降りてきて唇でとまった。唇の、薄い部分に指先のかたちを感じる。思わず、舌を出してそれを舐めた。しょっぱい味がした。それから、ほんの少しだけ、たばこの匂い。
「なにより、スポーツマンの前でたばこなんか吸えないべ?」
「……孝支さんだってスポーツマンじゃないっすか」
彼は何も言わなかった。くちもとに薄く笑みを浮かべて、じっと俺の瞳を覗いていた。
むかしよりすこし瘠せた気がする、白い指。甘く噛むと、しょっぱさに交じってほんのりとした苦味を舌に感じた。
その味が、どういうわけかとてもとてもせつなかった。
#影菅