Note

No.130, No.129, No.128, No.127, No.126, No.125, No.1247件]

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夏だ〜

memo

本日の #ワードパレット
「雨音(水たまり/波紋/飽きもせず)」(title by icca/X@torinaxx
涼啓|※子どもの頃の兄弟を妄想・捏造しております。




 啓介は昔から、水たまりを臆することなく踏める子どもだった。むしろ好んで道路のそちこちにできた小さな湖に足を突っこんで、長靴の中まで浸水しても楽しげに笑っていた。ぴちぴち、ちゃぷちゃぷ、らんらんらん。幼稚園でおぼえた雨のうたは彼の気にいりで、雨の日はいつも歌っていた。
 小粒の雨が降る中、道路にできた水たまりに、啓介は今日もまた飛び込んでいく。長靴の底が泥水を踏みつける。ぱしゃんっ、と飛沫が跳ねて、啓介のちいさな膝小僧を汚した。あーあ。涼介は彼の少し後ろで、わずかに眉を寄せた。
「また母さんに叱られちゃうよ」
 啓介は兄をふり返って、
「へいきだもん」
 と、笑った。レイン・コートに着られている啓介はてるてる坊主のようなかっこうをして、フードのふちから滴り落ちるしずくが、丸くなめらかな頬を滑っていった。屈託のない笑顔に、涼介は困惑しながらもあたたかい気持ちをおぼえる。このちいさな弟と一緒にいると、いつも、涼介の心はやさしく凪いだ。
 飛沫を跳ね上げないよう水たまりをゆっくりと踏んで啓介の側に寄り、ポケットからハンカチを出すと膝の泥を拭ってやる。
「靴下も、濡れたんじゃないか?」
「……う、ううん。ぬれてない」
 うそだと、すぐにわかった。啓介はバツの悪そうに唇をきゅっと結んで俯いた。靴下を汚したことも、兄に嘘をついたことも、叱られると思ったのだろう。涼介はふっと笑って、傘を啓介に傾けた。
「オレは怒らないから、大丈夫だよ」
「……ほんと?」
「うん」
 帰ろう。そうして、啓介のふよふよとしてやわらかな手を取る。幼いけれど、涼介の手を握り返す力は、もうだいぶ力強かった。
 雲間から淡く光のさす、ほのあかるい帰り道でのことだ。街路に植わった紫陽花が鮮やかに咲いていた。あれから十数年の時間を経ても、その道を通るたびに涼介は子ども時代の雨の日を、ふいに思いだす。

 あの時履いていた長靴は、啓介は黄色で、涼介は白色だった。色も大きさもちがうけれど、おなじメーカーの――おそらく、母親が当時好んでいたキッズ向けアパレルの――おそろいの長靴だ。あまりにもささやかなことを、しかし今でも鮮明に憶えているのは、現在のそれぞれの愛機が当時の長靴とおなじ、黄色と白色だからだ。
 涼介は小雨のカーテン越しに、成長した弟の姿を見つめる。傍らに駐車した彼の愛車は、峠を走るうちに熱を帯びたエンジンによって、かすかな金属音を鳴らしていた。
 傘をさすことなく、啓介は煙草を咥えた。その先端がやがて、チリ、と音を立てて燃えはじめる。煙を吐き出すさまはすっかり大人のもので、雨のうたを歌っていた時分の面影は、今は見えない。
 ぴちぴち、ちゃぷちゃぷ、らんらんらん。幼い啓介の歌声はもう遠い記憶の中にあった。けれど、過去と現在は地続きだ。今の啓介はあの頃の啓介の延長線上にいる。その事実が、涼介にはなんだかおかしく思え、思わず笑ってしまった。
「……なに、笑ってんの?」
 突然口もとを綻ばせた涼介を見て、啓介はふしぎそうに首を傾げた。
 なんでもない、と首をふろうとして思い直し、涼介は一歩、啓介に近づいた。啓介の顔を覗きこむと、唇に挟まれた煙草を指でつまみあげる。啓介が「あっ」と言うより早く、涼介は奪い取った煙草を自らの唇に運んだ。
「な、なんだよぉ」
 目をまんまるにする弟の反応が可愛くて、涼介は喉を鳴らして笑いながら息を吐いた。煙が、灰色の空に昇っていく。
「おまえはガキの頃から、雨を嫌がらなかったよな」
「え? そうだっけ?」
「そうだったよ」
 煙をもうひとくち吸ってから、啓介の唇に煙草を戻してやる。啓介は兄の話す内容の意味が掴めず、怪訝そうにまばたきをした。
「今も、きらいじゃあないだろ?」
 啓介はうーんと首を捻って、「どうだろ」とつぶやいた。
「路面のコンディション悪くなるし、泥で汚れるし、べつにすきじゃねぇけど」
 でもレインバトルは熱いよなあ、と続けて、啓介はにやりと笑う。その顔はすっかり走り屋のそれだった。ふん、と涼介は笑った。
「雨を怖がらないおまえは、やっぱり強いぜ」
 昔っから、そうだったな。涼介は目をほそめて弟の顔を見た。長靴やレイン・コートを汚せば母親にきつく叱られるからと、雨の道は特に行儀よく、足もとに気をつけて歩く涼介とちがって、啓介は平気で水たまりに突っ込んでいった。泥まみれになって家に帰り、母親からお説教を食らっても雨が降ればまた意気揚々と外に飛び出していく。涼介は落ちついたいい子なのに、啓介ったら。母親のお小言と深いため息を、涼介はその後、なん度も聞くことになる。
 あの日も、家に帰ってから結局は母親にきつく叱られた。
「でも昔はさー、雨降るとオレ、たしかにテンション上がってたよなー」
 啓介は目を細めた。
「わざと水たまりを踏んで歩いて、長靴も靴下もびしょびしょにさせていたな」
「そうそう。そんでいっつも母さんに怒られた」
 懐かしいな。啓介はつぶやいて、天を見上げた。水分をたっぷりと含んだぶ厚い雲が覆う暗い空に、涼介も視線をやる。
 雨はさらさらと落ち続けている。啓介の髪や頬や耳を湿らせ、パーカーのフードもわずかに濡れはじめていた。
 この程度の雨では、涼介も傘もささなくなった。走り屋として峠で車を走らせる喜びを知り、母の小言もため息も、遥か遠くのどこかに消えた。
 大人になった今では、雨に濡れるも傘で身を守るも、自由なのだ。
「もう少し、走っていこうか」
 やむ気配の見せない霧雨の中、涼介の提案に弟は心底うれしそうに頷いた。

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#D #掌篇 #涼啓

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お返事不要のメッセージを拝読しました。ほんとうにありがとうございました!
こんなにうれしいことがあっていいのかなあと思います。わたしは幸せものです。。
♡も押していただけてとってもうれしいです🫶

お返事

きのう上げた #ワードパレット の文章を若干訂正しました。(まちがい探しレベルではある)以下、改訂版です。

「ただし雨が上がるまで(折り畳み傘/少し小さい/目を合わせ)」
涼啓|高校生設定(涼介高三、啓介高一)|啓介が少しぐれてたころを妄想・捏造
title by icca(X @torinaxx



 細かな雨粒が教室の窓を叩いた、と思ったらあっというまに本降りとなった。
 昇降口に降りるまでのあいだ、すれ違った生徒たちが揃って「最悪」とくちにするのを、啓介はうんざりした気持ちで聞いた。そして、最悪、と。啓介もまたこころの中で呟いた。天気予報なんていちいち確認していなかったけれど、今朝の時点ではきれいに晴れていた。なのに雨。よりによってやっと授業から解放された放課後に。最悪。昇降口を出ると雨脚は強まっていた。灰色の厚い雲に覆われた空はたっぷりと水分を含んでいて、湿度百%の空気が肌にまとわりついて気持ちが悪かった。傘はない。置き傘なんてものも当然、していない。しゃあない、濡れて帰るか。雨で色の変わった地面に足を踏み出した時、頭の上にかげが降りてきて啓介は顔を上げた。
「濡れるぞ」
 視線の先には兄の涼介がいた。無表情だったけれど、そのまなざしはつめの甘い弟を憐れむような、とてもおだやかな色を湛えており、まるで凪いだ湖の水面のようだった。
「べつにいい」
 啓介はくちびるを尖らせて、言った。濡れて帰る、と。
「入っていけばいいだろう」
「いいよ」
「なんで」
「恥ずいし」
「恥ずかしいこと、ないだろ」
 涼介は啓介の手首を取って引っ張ると、階段をゆっくりと降りた。兄にたいして、本気の抵抗は啓介にはできなかった。それで、小さな折り畳み傘にふたり並んで入り、帰路を歩きはじめる。しかし傘は、成長期真っ最中にある男子二人を庇えるほど立派なものではなく、雨から守られるのは頭だけだった。
 涼介の、白いワイシャツに包まれた肩がしっとりと濡れていくのを見て、啓介は思わず、「肩、濡れてる」と指摘した。涼介は横目で自身の肩を、そして啓介の目を、順番に見た。
「おまえも濡れてる」
 ふ、と息をもらして、兄は笑った。
「傘さしてる意味、ねぇじゃん」
「そうかな。髪は濡れてないだろう」
 制服は干せば乾くし、と続ける涼介に、啓介はくつくつと喉を鳴らした。
「髪もすぐに乾くぜ」
「まあ、そうだな」
「アニキのこれ、置き傘?」
「いや、オレは置き傘はしない。盗まれたりしても困るからな」
「今日の天気予報、雨だったの?」
「朝のニュースくらい、確認するもんだぜ」
 毎日規則正しい時間に起きる涼介とちがって、啓介の起床時間はまちまちだった。今朝は――このところほとんど毎朝、だが――家を出る時間の数分前に起きて、サボることも頭を過ぎったけれど、母親に促されてしぶしぶ登校した。
 雨粒は途切れることなく傘を叩き、雨音に耳を傾けながら啓介は、隣を歩く兄の顔を上目で見やった。啓介を守るように傘を傾けているせいで、涼介の黒髪はしっとりと濡れて額に張りついていた。髪の先から垂れたしずくが頬を伝う。水も滴るイイオトコ。啓介はこころの中でぼやく。学校じゅうの女子、学年を問わずそのほとんどが涼介に憧れている。そんな学園ラブコメ漫画みたいなことがほんとうに、あるんだ。啓介は現実味のない事実を噛みしめて、そっと嘆息した。でも、男のオレから見ても、アニキはかっこいいもんな。昔っから、そうだったよな。かっこよくて頭がよくて、オレみたいなデキの悪い弟、放っといてくれればなんの迷惑もかからずに済むのに、放っておいてくれないこころやさしいひと。
「……ありがと」
 少しのためらいののち、啓介はようやくそれだけを言った。視線が動き、涼介と目が合う。涼介は口の端をわずかに持ち上げて見せ、それがあまりに不敵なほほ笑みだったので、啓介は頬を赤らめて俯いた。言うんじゃなかった、と後悔した。でももう遅い。
「すなおなほうが似合うぞ、おまえには」
 うるせー、と吐き捨てた声は、そばを走っていった車のタイヤの音がかき消して、涼介には届かずに散った。

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Xにもこっそり載せてたんですけど、画像があれすぎてあまりにも気になったので、一旦下げました。見てくださった方がいらっしゃいましたら、すみません。
よく考えたらなんでわざわざ一ページにまとめた?って感じですよね。ふつうに1500字程度あるのでわけるなりすればよかった。反省。
画像つくりなおしたいんですけど内容同じものを‥つくり‥なおす‥?って考えると時間がちょっともったいないかな‥新しいの書きたいし‥っていうきもちにもなり。
でもつくるのは楽しいのでつくりたくなったらつくります!

#D #掌篇 #涼啓

memo

ワードパレットをお借りしました(X@torinaxx
ありがとうございました!

「ただし雨が上がるまで(折り畳み傘/少し小さい/目を合わせ)」
涼啓|年齢操作(高三、高一)、啓介がちょっとグレてたころの妄想(捏造)が入っております



細かな雨粒が教室の窓を叩いた、と思ったらあっというまに本降りとなった。昇降口に降りるまでのあいだ、すれ違った生徒たちが揃って「最悪」とくちにするのを、啓介はうんざりした気持ちで聞いた。そして、最悪、と。啓介もまたこころの中で呟いた。天気予報なんていちいち確認していなかったけれど、今朝の時点ではきれいに晴れていた。なのに雨。よりによってやっと授業から解放された放課後に。最悪。昇降口を出ると雨脚は強まっていた。灰色の厚い雲に覆われた空はたっぷりと水分を含んでいて、湿度百%の空気が肌にまとわりついて気持ちが悪かった。傘はない。置き傘なんてものも当然、していない。しゃあない、濡れて帰るか。雨で色の変わった地面に足を踏み出した時、頭の上にかげが降りてきて啓介は顔を上げた。「濡れるぞ」視線の先には兄の涼介がいた。無表情だったけれど、そのまなざしはつめの甘い弟を憐れむような、とてもおだやかな色を湛えていた。まるで凪いだ湖のようだった。「べつにいい」啓介はくちびるを尖らせて、言った。濡れて帰る、と。「入っていけばいいだろう」「いいよ」「なんで」「恥ずいし」「恥ずかしいこと、ないだろ」涼介は啓介の手首を取って引っ張ると、階段をゆっくりと降りた。兄にたいして、本気の抵抗は啓介にはできなかった。それで、小さな折り畳み傘にふたり並んで入り、帰路を歩きはじめる。しかし傘は、成長期真っ最中にある男子二人を庇えるほど立派なものではなく、雨から守られるのは頭だけだった。涼介の、白いワイシャツに包まれた肩がしっとりと濡れていくのを見て、啓介は思わず、「肩、濡れてる」と指摘した。涼介は横目で自身の肩を、そして啓介の目を、順番に見た。「おまえも濡れてる」ふ、と息をもらして、兄は笑った。「傘さしてる意味、ねぇじゃん」「そうかな。髪は濡れてないだろう」制服は干せば乾くし、と続ける涼介に、啓介はくつくつと喉を鳴らした。「髪もすぐに乾くぜ」「まあ、そうだな」「アニキのこれ、置き傘?」「いや、オレは置き傘はしない。盗まれたりしても困るからな」「今日の天気予報、雨だったの?」「朝のニュースくらい確認するもんだぜ」毎日規則正しい時間に起きる涼介とちがって、啓介の起床時間はまちまちだった。今朝は――このところほとんど毎朝、だが――家を出る時間の数分前に起きて、サボることも頭を過ぎったけれど、母親に促されてしぶしぶ登校した。雨粒は途切れることなく傘を叩き、雨音に耳を傾けながら啓介は、隣を歩く兄の顔を上目で見やった。啓介を守るように傘を傾けているせいで、涼介の黒髪はしっとりと濡れて額に張りついていた。髪の先から垂れたしずくが頬を伝う。水も滴るイイオトコ。啓介はこころの中でぼやく。学校じゅうの女子、学年を問わずそのほとんどが涼介に憧れている。そんな学園漫画みたいなことがほんとうに、あるんだ。啓介は現実味のない事実を噛みしめて、そっと嘆息した。でも、男のオレから見ても、アニキはかっこいいもんな。昔っから、そうだったよな。かっこよくて頭がよくて、オレみたいなデキの悪い弟、放っといてくれればなんの迷惑もかからずに済むのに、放っておいてくれないこころやさしいひと。「……ありがと」少しのためらいののち、啓介はようやくそれだけを言った。視線が動き、涼介と目が合う。涼介は口の端をわずかに持ち上げて見せ、それがあまりに不敵なほほ笑みだったので、啓介は頬を赤らめて俯いた。言うんじゃなかった、と後悔した。でももう遅い。「すなおなほうが似合うぞ、おまえには」うるせー、と吐き捨てた声は、そばを走っていった車のタイヤの音がかき消して、涼介には届かずに散った。

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#D #掌篇


ちなみに画像もね、つくってみたのですがとんでもねぇ読みにくさでびっくりしました‥^^
ほんとうになんというか「なるほどね」ってかんじでした(なるほどねじゃないよ〜)
気にいってはいます。




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お題サイトさんで、とてもすてきなワードパレットを見つけてしまいテンション上がっちゃった。うつくしい言葉の連なりがほんとうに奇蹟みたいだ。

お題をお借りしたいと思うときいつも(使わせていただいて、いいの‥?!)みたいなためらいがあるんだけど、でも使いたい〜〜
そう、あるもの書きの方が、まいにち500字ていどのSSを書くようにしているとおっしゃっていて、インプットとアウトプットのバランスがすばらしいなと思ったんでした。こういう時にお題をお借りするのは助けになりそう。

なんにしてもその言葉に恥じない掌篇を書きたいな〜って思ってます。


--

しれっとNoteの記事に♡ボタン置いてみたんですけど、押してくださってありがとうございます^^とってもうれしいです、励みになります。
てがろぐ二個(実際はもっとある)置いてるからどっちに書こう?ってなるけど、わたしの場合わけないほうが偏りがなくていいんですよねほんとうは。
もっとまめに、他愛のない話でもなんでも書きにきます。

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去年?書いたひなたとけんまのおはなしが下書きに残っていたので、めちゃくちゃ途中なんだけどここに置いておきます‥^^cp未満(たぶん)、けんまが日向家にお泊まりするおはなしです。いつかつづきを書きたいな〜




 翔陽のことならだいたい知ってる、と思っていた。去年のゴールデン・ウィークの練習試合で知り合って、それから一年と少ししか経っていない、けれど、その一年のあいだに俺は翔陽のことをずっと見ていた。なんていうとストーカー、変態、みたいだけれど、だって翔陽はおもしろいから。ずっと観察していて飽きないから。
 ロール・プレイング・ゲームの主人公みたいに、彼はどんどんとレベルアップする。魔物を倒し、知恵の実を食らい、装備を増やし、そうして、やがてヒーローへと羽化する。そのようすを眺めているのは、俺の楽しみだった。
 翔陽はおもしろい。夕焼けみたいな髪の毛を揺らして、たくさん汗をかきながらボールを追いかける翔陽は真剣で、とても楽しそうだった。だから俺も、バレーボールを楽しいと心から思った。翔陽がいたから。翔陽が楽しそうに笑うから。
 捕まえたかった。翔陽を。ほんとうのところは、きっとそんな欲望があったのだと思う。
 
 
 茜色の夕日が山の向こうに落ちてゆく。山裾には田圃と畑が一面に広がっていて、草叢に身をひそめる蛙たちがひっきりなしに鳴いていた。い草の匂いは東京ではあまり馴染みがなくて、それで、ここが翔陽の家であることを存分に思い知るのだった。
 翔陽の家は、じつにいろいろな匂いがした。い草、蚊取り線香、田圃や畑から流れてくる堆肥の匂いや草いきれ。夕飯を食べにお邪魔した台所で、なにかが発酵したような饐えたにおいがしたときはさすがにびっくりした。それはぬか床で、俺はぬか床なるものをはじめて見た。
「なにが入ってるの」
 たらいの中にみっちりと詰めこまれた灰色と黄土色の混ざったぬか床を覗きこんで訊くと、「きゅうりとか白菜とか大根とかにんじんとかキャベツとかー……、えー、あといろいろ!」と翔陽は胸を張った。
「翔陽が、その……管理? してるの?」
「ちがうよ、研磨にいちゃん。おばーちゃんとおかーさんと夏だよ!」
 お行儀よくダイニングの椅子に座っていた夏ちゃんが言って、その場がどっと沸いた。
「おばーちゃんからおかーさんにバトンタッチして、だからつぎは夏にバトンが渡るの。今は夏は修行中なの」
「へえ」
 ダイニング・テーブルには夏野菜をふんだんにつかった料理がいくつもの大皿に盛られている。俺はまさにくだんのぬか床で漬けたというきゅうりをぽりぽりと噛んだ。青臭さの中にじんわりとした甘みが広がって、おいしい。母親がスーパーで買ってきたとき以外に、実家では漬物を食べる機会さえ少なかった。
「おれだってできるのにさあ、みんな任してくんねぇんだもん」
「おにいちゃんは、かき混ぜるのがへたっぴすぎるの。夏のほうがじょうずなんだもん」
 ね、と夏ちゃんはおかあさんの顔を見上げた。翔陽と夏ちゃんのおかあさんは、にこにこと笑って頷いた。
 この明るくて賑やかな食卓に、自分が混ざっている不思議や違和を感じる瞬間が減った。去年はじめて一人で宮城に来て、翔陽の家に泊まったときと比べれば、俺もだいぶ成長したのだろう。レベルでいったら10から12くらいにはなったはず。経験値は+700くらい? こうして翔陽の家族とも顔を合わせて夕食を食べたり、他愛のない会話をしたり、家全体を包む空気や雰囲気を心地好いと感じたり。
 今年も遊びにきてよ、と、翔陽はきっとまっすぐな気持ちでメールをくれたのだと思う。去年みたいにウチに泊まってってよ、と。スマホの画面に表示された翔陽の言葉を、無意識のうちにゆび先でなぞっていた。
 夏が終わり、受験生である俺にとっては本格的な受験モードに入る時期で、そうしたらしばらくは翔陽に会えなくなるな、と思った。最悪、次の春が来るまで。
 それはすこし、さみしい、かも。
 携帯メールだけのやりとりでは全然もの足りなくて、気がつけば新幹線の切符を買っていた。一泊だけ、お世話になりますと翔陽にメールをすると、「ありがとう!!!」と返ってきた。ありがとうは、こちらのせりふなのだけれど。

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#書きかけ #進捗 #HQ

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