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No.37
ROOKIES
いまこんなにも切ないのに(新岡)
一言では形容できない印象を、新庄は岡田に対して抱いていた。仲間内では比較的温厚で、物事を冷静に、客観視する。消極的なタチといえばそれまでだが、かといって完全に仲間から浮いているわけでもない。しかし時折、くだらなく他愛のない話題で盛り上がる連中の外で、岡田の輪郭だけがぼんやりと曖昧に見えることがあった。騒がしい連中のなかに身は置いているものの、一人くちを挟まない姿は様になっているが、その曖昧な輪郭は、極彩色と称しても差し支えない仲間のなかで際立って新庄の目に映った。
新庄もまた、そう口数の多いほうではなかった為、最初こそ彼には似たにおいの様なものを感じていたが、そうではないのだと冬日を背に立つ岡田を見て、確信した。
――何処も似てなどいない
新庄は痩せたからだのラインをなぞりながら息を呑んだ。遠くのほう――外野側から、キャッチボールをしている湯舟と桧山の声が聞こえる。何を言っているのか、会話の内容は掴めない。ただ二人の声が信号のような響きをはらんで鼓膜に滑り込んでは、あっという間に抜けていく。
「新庄」
名前を呼ばれて、ハッとする。瞬きを数回して、こちらを見据えている、思考にあった人物に改めて視線を投げた。
「大丈夫か? ボーッとしてたけど」
三塁と一塁の距離はけっして短くはない。その距離を埋めるかのような岡田の大声は自分をいたわる言葉で包まれており、新庄はグローブの嵌めた手を軽く挙げてみせた。
おし、と岡田が呟くのと同時に、彼の手にあった白球が緩やかな曲線を画きながら冬空を切っていった。
紫と水色の混ざったまっさらな空のカンバスに、岡田の投げ寄越した白球が一、三塁間を繋ぐ線を拵えた。
:
「お前は変なヤツだな」
練習を終え、各々が部室で雑談している騒がしさに紛れて、ロッカーから着替えを取り出している岡田に新庄は言った。あ? とアンダーシャツの透き間から片目を覗かせ、岡田が怪訝そうに目を細める。不健康、というほどではないが、脂肪のないからだは骨の凹凸が部室の照明に浮かび、はっきりと見て取れる。ふいに、岡田のみせる、曖昧さゆえの際立った輪郭をその陰影に重ねてしまい、新庄はすいと目を空洞のようなロッカーに移した。
「なに? 変って」
「いや……」
巧い言葉が見当たらない。唇を結んで、新庄も泥のこびりついた指でユニフォームの釦を外していった。
変だ、と感じたのは確かだったが、よくよく考えるに、普通の基準すら新庄にはわからなかった。普通に生きてきたというこれまでの自覚は、幻、在りもしない桃源郷であったのだと、この数ヶ月で気づかされた。現実から逃げ続け、逃げているなぞと認めたくない気持ちが焦燥を煽り、逃げ道に駆け込むのを繰り返した。逃げているわけじゃあないと思い込んでいた自負は部活を始めてからたやすく崩れ、代わりに心の底に沈殿していた弱さを、厭というほど思い知らされた。
「なあ、岡田達も行くだろ?」
突然背後から話を振られ、二人はほぼ同時に振り返った。「あ? 何処にだよ」岡田が平らかな口調で言う。「てっめ! 聞いてねえのかよ!」関川が唇を突き出して非難するのに、悪かったよ、と岡田は応酬する。そのやり取りは、まるで今までのすべてがなかったかのように自然で、“普通の”日常に他ならなかった。
「マックだよ、若菜が今日負けた分奢るっつーからよ」
練習のキャッチボールで、百回続けられなかったらマクドナルドを奢ると大口を叩いた若菜が、ふてくされた態で財布の中身を確認している。
「俺はいいけど。新庄はどうすんだ?」
そんな賭けをしていたことすら知らなかったが、特に断る理由もなく、こちらを振り仰いだ岡田に新庄は、ああ、と頷いた。
最寄りのマクドナルドに向かう道中、賑やかに笑い声を立てている野球部の数歩後ろを、新庄と岡田は肩を並べて歩いていた。歩調は緩やかで、示し合わせたわけでもないのにどちらかが遅れることも速足になることもない。思えば昔から――出逢った頃からこんな関係が続いていた。付かず離れず、適当な距離を置いて肩を並べる。
「そういやお前、さっき俺のこと変とか言わなかったか?」
吐息が白く立ち昇り、岡田が唐突にくちを開いた。斜め上から視線を送ると、彼は前を見据えたままだ。短く生え揃った睫毛が街燈の光を受け神経質そうに震えている。
「言ってる意味、よくわかんねーんだけど」
変ってなに? 岡田は視線を投げ寄越し軽く微笑んだ。その微笑みには嘲りも衒いもなく、単純な疑問形だった。ブツッと音を立てて途切れてしまった部室での会話を思い返し、新庄は改めて言葉を捜す。
「……巧く言えねえけど。あいつらと、色が違うっつーか」
「へえ……?」岡田は先を歩く仲間達に目を投げ、怪訝そうに笑う。「どんなふうに?」
沈黙が落ちるなか、新庄の視線は宙を彷徨っていた。蚊帳の外というわけではないが、こうして数歩の距離を挟んだ仲間の背中を岡田とともに追っていると、岡田と自分しかいない空間が、夜闇にぽっかりとくちを拡げたような錯覚に陥る。どれほど歩いても仲間のもとには辿り着けないのではないか、そんな不安と焦燥が咽もとまでせり上がり、そうこうしているうちに岡田まで、自分の隣から一歩、二歩と離れてゆく恐怖に囚われるのだ。
いつかテレビで放映していた、死刑囚を取り扱った洋画をそのディティールまで思い出してしまう。死刑囚の誰もが外の世界を、空を見ることを忘れ、牢獄の錆びた鉄柵から瘠せさらばえた手を伸ばす。しかし、その手を掴む誰かがそこにいるわけがない。
「なあ新庄」
再び襲われそうになった恐怖心を冷気とともに呑み込み、視線を岡田の横顔へと転ずる。
「お前好きなヤツとかいるのか?」
あまりにもストレートな質問にたっぷりの間を置いて、「は?」と、間抜けた声を発した。
「いるのかよ?」
視線が絡む。こういう唐突な処も、彼の“掴めない”要素の一つだ。新庄はフン、と鼻を鳴らした。
「くだらねえ」
ふはっ――、空気の抜けるような笑い声が鼓膜に響く。どういうつもりだ、こいつ……。舌打ちをして、ずり下がってきたスポーツバッグを肩に抱え直した。
「そう言うだろーと思った」
「なら訊くな。うぜぇ」
「俺はさ、新庄」
ふいに声のトーンを落とし、岡田は言葉を継いだ。
「誰かを好きとか、嫌いだとか、思ったトキねーんだよ」
遠くを見据えたその視線が何処にも――連中の背中にも――定まっておらず、新庄は一瞬、背筋に冷たいものの這うのを感じた。
「お前の言うとおり、変っつか、異常かもしんねーな。けど、憶えてる限りでもガキん頃から、大好きな人とか、逆にだいっきれーな人間とか、いないんだよ」
――なんだよ、それ。
くちにしたつもりであった声は、白濁した吐息に取って換えられ、頬を掠めていった。
「そりゃ好きな人間はいる。あいつらとかさ。でももっと深い意味では、好きな人間も嫌いな人間も、よく考えたらいねえなって」
「深い意味?」新庄は唾液の絡みついた咽から声を絞り出した。岡田の言わんとしていることをまるで掴めない自分への苛立ちが、素直すぎるほどの言葉に棘を巻きつけた。「ンな怖ぇ声出すなよ」硬い口調を察した岡田が、やわらかく微笑んだ。
その微笑みを何処かで見たことがある、と新庄は、街燈と夜闇の狭間を行き来する横顔を見つめながら、記憶を手繰り寄せた。こういうのをデジャヴというのだろうか……、しかし彼の拵える微笑は何度も何度も、繰り返し見せつけられたもので、一度や二度のことではない。フィルムを巻き戻し、再生し、自分は延々、この“微笑”という映像を見せられていたのだ。
「オガとか、憧れって意味ではそうだけど、なんかちげえよな。だから偶に、あいつらが女の話とかしてっと、偶にだけど、羨ましい気持ちになる」
好きなアーティスト、好きな音楽、好きな雑誌、好きな喰い物はあっても、好きな人間がいない。そしてまた、嫌いな人間もいない。独り言のように岡田は言った。口調は相変わらず軽いが、その横顔にはもう微笑みはなかった。平坦で、表情を失ってしまったようだ。
「……好きも嫌いも、言われたトキねえからかもな」
言葉が洩れた瞬間、新庄の内側で煮え滾った熱が生まれた。岡田、くちを開くのと同時に、その手首を掴んでいた。ぎょっとしたように瞠目し、足をとめた岡田の瞼が、軽い痙攣を起こしている。
「な、――んだよ」
さざ波に似た痙攣は、無理に笑おうとしているからだと直感した。ふたりと、連中の距離が遠くなってゆく。ほかの仲間は自分達に気づいていない。それを利用して、新庄は電信柱の翳に岡田の背中を押し付けた。痛っ、と顔を顰めるのを無視し、岡田、と、再度名前を、呼んだ。
「なんだよ……、ビビるだろ」
互いの呼吸が交わる距離に顔を近づけて、新庄は頭に昇った血を落ち着けるために、深く息を、吸った。
「そのいかにも軽薄そうなツラ、やめろ」
出てきた言葉は掠れて、いまにも千切れてしまいそうだった。怪訝な表情に白熱灯の淡い光が落ち、岡田はしばらく黙ったあと、ため息をついた。
「悪ぃけど、自分でもよくわかんねーから、やめろって言われても困る」
「不自然なんだよ」
「じゃあずっとお前みてぇに、仏頂面でもしてりゃあいいのか?」不機嫌を露わにした新庄の声に、珍しく興奮した様子で岡田は噛みついた。
「ンなこと言ってねえだろ」
「じゃあどうしろってんだよッ!」
甲高い声が夜道に響き渡り、空を突いた。ざわめきが、路の先から漂ってくる。「いまの岡田か?」「つかあいつ等何処だよ」湯舟の声に続いて、若菜が間延びした口調で放った。
「おぉーい! 岡田ッ、新庄ッ!」
湯舟が叫ぶのに舌打ちをして、新庄はからだの半分を表し、先に行ってろ、とジェスチャをした。
「えッ、なに?! いまなんつった?!」
「うるっせえよ湯舟! 放っとけよ。後で合流すりゃいーだろよ」
安仁屋の投げやりな言葉に湯舟は唇を突き出したが、やがて足音が遠のいていった。
「なんなんだよ、お前……」
冷たい壁に背中を凭せ掛けて、岡田は天を仰いだ。苛立っているのが、空気を伝う。新庄は改めて岡田を見据え、
「さっきみてーに、してりゃいんだよ」
と、ぶっきらぼうに放った。
はあ? と目をまるくさせ、力尽きた様子でずるずると、膝を折ってゆく。体育坐りの状態に落ち着いた岡田は興奮を醒まそうと、はぁあー、長く息を吐いた。
こんなふうに、自分をコントロールするのが巧い人間だった、昔から――新庄は彼を見下ろして、ようやく、胸に痞えていた岡田への異和が融解していくのを、感じた。
「溜め込んでんだろ。俺らみてーに、すぐ爆発しねえけど、限界まで抱えて、」
「そんなんじゃねーよ」
押し殺した声で、岡田が言葉を遮った。そんなんじゃ、ねえ。数回、同じ言葉を繰り返し、でも、と顔を上げた。
「そんなん、じゃなかったら、じゃあどうなんだっつぅ、さ。自分で自分がわかんねえとか、ばかみてぇだな」
へっ、と吐かれた嘲笑は自分に対するものに、新庄には見えた。
「好きっつって寄ってくる女、みんな嘘くせぇんだよ。俺がなんも言わないからだろーけど、つまんねえ男っつって消える。中学ン時、付き合ってた女と街歩いてて、空がきれーだなって言ったらそいつ、なんて言ったと思うよ? 『いつもそんなくだんないこと考えてんの?』だってよ。
そいつ、俺の何を見て告ってきたんだろーって思うと、なんかもう、全部が面倒で鬱陶しくって、ばからしいなって」
笑顔が、そんな切欠で貼り付いてしまったというのなら、切欠諸共剥いでしまいたい。曖昧な輪郭を形成している要素の一部ならばなおのことだ。それは過去の、けっして消せない事実であるとはわかっていたが、剥ぎたい、という衝動は自分の想像以上に強く、脈を打っていた。
「岡田、俺は、」
言いかけた途端、岡田は両手をこちらに向けて伸ばした。仕方なく手首を掴んで引っ張り上げると、手を離す間もなく痩身が倒れ込んできた。「サンキュ」岡田が上目遣いで瞳を覘き、呟く。何に、何が、どう「サンキュ」なのかわからなかったが、見た目よりずっと骨格のかたちのわかるからだが支えを求めているように傾いていく。
からだの内側で打ち続けている鼓動が烈しくなる。岡田は疾うに、それに気づいているのだろう。
頬に片手を添えると、短く生え揃った睫毛が上向いた。
「……キス、してえ」
ぼそっと呟くと、岡田は何も言わずに目を綴じた。唇を重ねたら、こいつは俺を好きになるのだろうか。そんな幻想染みたことを考えながら、新庄はからだを離した。ぱちっと目を開いた岡田が、「しねーの、キス」と言うのに、
「俺が無理強いしてるみてーで厭だ」
と、応えた。岡田にとってのキスの位置がわからない。挨拶程度にしか思っていないのかもしれないし、好きなヤツとしかしないと思っているかもしれない。いずれにせよ、彼の本心が知りたかった。心の底を、見てみたかった。
「つまんねーの」
背中を叩かれていまさらのように羞恥が襲ってきたが、もうどうしようもない。
「好きだ、岡田」
掠れ声が冷たい風に運ばれていく。ふたりきりの夜、学校からの帰り路、こころもとない告白だった。
「俺は、お前が、」
「俺も好きだ」
頬に冷えた指先が触れ、と同時に、唇を乾燥したやわらかいものが掠めていった。
不意討ちを喰った新庄がぽかんとしている姿を、目を細めて岡田は見据えた。
「つか寒ィ。あいつらもう、マック着いちまったかな」
視線はすぐに逸らされが、額に巻いたタオルから覘く耳が視界に這入り、思わずくちもとが綻んだ。
「耳、まっ赤だぞ」
「……うーるせー」
肩を竦めて乱暴に歩き始めた岡田を負い、新庄は触れ合ったばかりの唇を、指先で撫でた。
(12.0308)
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2025.1.11
No.37
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一言では形容できない印象を、新庄は岡田に対して抱いていた。仲間内では比較的温厚で、物事を冷静に、客観視する。消極的なタチといえばそれまでだが、かといって完全に仲間から浮いているわけでもない。しかし時折、くだらなく他愛のない話題で盛り上がる連中の外で、岡田の輪郭だけがぼんやりと曖昧に見えることがあった。騒がしい連中のなかに身は置いているものの、一人くちを挟まない姿は様になっているが、その曖昧な輪郭は、極彩色と称しても差し支えない仲間のなかで際立って新庄の目に映った。
新庄もまた、そう口数の多いほうではなかった為、最初こそ彼には似たにおいの様なものを感じていたが、そうではないのだと冬日を背に立つ岡田を見て、確信した。
――何処も似てなどいない
新庄は痩せたからだのラインをなぞりながら息を呑んだ。遠くのほう――外野側から、キャッチボールをしている湯舟と桧山の声が聞こえる。何を言っているのか、会話の内容は掴めない。ただ二人の声が信号のような響きをはらんで鼓膜に滑り込んでは、あっという間に抜けていく。
「新庄」
名前を呼ばれて、ハッとする。瞬きを数回して、こちらを見据えている、思考にあった人物に改めて視線を投げた。
「大丈夫か? ボーッとしてたけど」
三塁と一塁の距離はけっして短くはない。その距離を埋めるかのような岡田の大声は自分をいたわる言葉で包まれており、新庄はグローブの嵌めた手を軽く挙げてみせた。
おし、と岡田が呟くのと同時に、彼の手にあった白球が緩やかな曲線を画きながら冬空を切っていった。
紫と水色の混ざったまっさらな空のカンバスに、岡田の投げ寄越した白球が一、三塁間を繋ぐ線を拵えた。
:
「お前は変なヤツだな」
練習を終え、各々が部室で雑談している騒がしさに紛れて、ロッカーから着替えを取り出している岡田に新庄は言った。あ? とアンダーシャツの透き間から片目を覗かせ、岡田が怪訝そうに目を細める。不健康、というほどではないが、脂肪のないからだは骨の凹凸が部室の照明に浮かび、はっきりと見て取れる。ふいに、岡田のみせる、曖昧さゆえの際立った輪郭をその陰影に重ねてしまい、新庄はすいと目を空洞のようなロッカーに移した。
「なに? 変って」
「いや……」
巧い言葉が見当たらない。唇を結んで、新庄も泥のこびりついた指でユニフォームの釦を外していった。
変だ、と感じたのは確かだったが、よくよく考えるに、普通の基準すら新庄にはわからなかった。普通に生きてきたというこれまでの自覚は、幻、在りもしない桃源郷であったのだと、この数ヶ月で気づかされた。現実から逃げ続け、逃げているなぞと認めたくない気持ちが焦燥を煽り、逃げ道に駆け込むのを繰り返した。逃げているわけじゃあないと思い込んでいた自負は部活を始めてからたやすく崩れ、代わりに心の底に沈殿していた弱さを、厭というほど思い知らされた。
「なあ、岡田達も行くだろ?」
突然背後から話を振られ、二人はほぼ同時に振り返った。「あ? 何処にだよ」岡田が平らかな口調で言う。「てっめ! 聞いてねえのかよ!」関川が唇を突き出して非難するのに、悪かったよ、と岡田は応酬する。そのやり取りは、まるで今までのすべてがなかったかのように自然で、“普通の”日常に他ならなかった。
「マックだよ、若菜が今日負けた分奢るっつーからよ」
練習のキャッチボールで、百回続けられなかったらマクドナルドを奢ると大口を叩いた若菜が、ふてくされた態で財布の中身を確認している。
「俺はいいけど。新庄はどうすんだ?」
そんな賭けをしていたことすら知らなかったが、特に断る理由もなく、こちらを振り仰いだ岡田に新庄は、ああ、と頷いた。
最寄りのマクドナルドに向かう道中、賑やかに笑い声を立てている野球部の数歩後ろを、新庄と岡田は肩を並べて歩いていた。歩調は緩やかで、示し合わせたわけでもないのにどちらかが遅れることも速足になることもない。思えば昔から――出逢った頃からこんな関係が続いていた。付かず離れず、適当な距離を置いて肩を並べる。
「そういやお前、さっき俺のこと変とか言わなかったか?」
吐息が白く立ち昇り、岡田が唐突にくちを開いた。斜め上から視線を送ると、彼は前を見据えたままだ。短く生え揃った睫毛が街燈の光を受け神経質そうに震えている。
「言ってる意味、よくわかんねーんだけど」
変ってなに? 岡田は視線を投げ寄越し軽く微笑んだ。その微笑みには嘲りも衒いもなく、単純な疑問形だった。ブツッと音を立てて途切れてしまった部室での会話を思い返し、新庄は改めて言葉を捜す。
「……巧く言えねえけど。あいつらと、色が違うっつーか」
「へえ……?」岡田は先を歩く仲間達に目を投げ、怪訝そうに笑う。「どんなふうに?」
沈黙が落ちるなか、新庄の視線は宙を彷徨っていた。蚊帳の外というわけではないが、こうして数歩の距離を挟んだ仲間の背中を岡田とともに追っていると、岡田と自分しかいない空間が、夜闇にぽっかりとくちを拡げたような錯覚に陥る。どれほど歩いても仲間のもとには辿り着けないのではないか、そんな不安と焦燥が咽もとまでせり上がり、そうこうしているうちに岡田まで、自分の隣から一歩、二歩と離れてゆく恐怖に囚われるのだ。
いつかテレビで放映していた、死刑囚を取り扱った洋画をそのディティールまで思い出してしまう。死刑囚の誰もが外の世界を、空を見ることを忘れ、牢獄の錆びた鉄柵から瘠せさらばえた手を伸ばす。しかし、その手を掴む誰かがそこにいるわけがない。
「なあ新庄」
再び襲われそうになった恐怖心を冷気とともに呑み込み、視線を岡田の横顔へと転ずる。
「お前好きなヤツとかいるのか?」
あまりにもストレートな質問にたっぷりの間を置いて、「は?」と、間抜けた声を発した。
「いるのかよ?」
視線が絡む。こういう唐突な処も、彼の“掴めない”要素の一つだ。新庄はフン、と鼻を鳴らした。
「くだらねえ」
ふはっ――、空気の抜けるような笑い声が鼓膜に響く。どういうつもりだ、こいつ……。舌打ちをして、ずり下がってきたスポーツバッグを肩に抱え直した。
「そう言うだろーと思った」
「なら訊くな。うぜぇ」
「俺はさ、新庄」
ふいに声のトーンを落とし、岡田は言葉を継いだ。
「誰かを好きとか、嫌いだとか、思ったトキねーんだよ」
遠くを見据えたその視線が何処にも――連中の背中にも――定まっておらず、新庄は一瞬、背筋に冷たいものの這うのを感じた。
「お前の言うとおり、変っつか、異常かもしんねーな。けど、憶えてる限りでもガキん頃から、大好きな人とか、逆にだいっきれーな人間とか、いないんだよ」
――なんだよ、それ。
くちにしたつもりであった声は、白濁した吐息に取って換えられ、頬を掠めていった。
「そりゃ好きな人間はいる。あいつらとかさ。でももっと深い意味では、好きな人間も嫌いな人間も、よく考えたらいねえなって」
「深い意味?」新庄は唾液の絡みついた咽から声を絞り出した。岡田の言わんとしていることをまるで掴めない自分への苛立ちが、素直すぎるほどの言葉に棘を巻きつけた。「ンな怖ぇ声出すなよ」硬い口調を察した岡田が、やわらかく微笑んだ。
その微笑みを何処かで見たことがある、と新庄は、街燈と夜闇の狭間を行き来する横顔を見つめながら、記憶を手繰り寄せた。こういうのをデジャヴというのだろうか……、しかし彼の拵える微笑は何度も何度も、繰り返し見せつけられたもので、一度や二度のことではない。フィルムを巻き戻し、再生し、自分は延々、この“微笑”という映像を見せられていたのだ。
「オガとか、憧れって意味ではそうだけど、なんかちげえよな。だから偶に、あいつらが女の話とかしてっと、偶にだけど、羨ましい気持ちになる」
好きなアーティスト、好きな音楽、好きな雑誌、好きな喰い物はあっても、好きな人間がいない。そしてまた、嫌いな人間もいない。独り言のように岡田は言った。口調は相変わらず軽いが、その横顔にはもう微笑みはなかった。平坦で、表情を失ってしまったようだ。
「……好きも嫌いも、言われたトキねえからかもな」
言葉が洩れた瞬間、新庄の内側で煮え滾った熱が生まれた。岡田、くちを開くのと同時に、その手首を掴んでいた。ぎょっとしたように瞠目し、足をとめた岡田の瞼が、軽い痙攣を起こしている。
「な、――んだよ」
さざ波に似た痙攣は、無理に笑おうとしているからだと直感した。ふたりと、連中の距離が遠くなってゆく。ほかの仲間は自分達に気づいていない。それを利用して、新庄は電信柱の翳に岡田の背中を押し付けた。痛っ、と顔を顰めるのを無視し、岡田、と、再度名前を、呼んだ。
「なんだよ……、ビビるだろ」
互いの呼吸が交わる距離に顔を近づけて、新庄は頭に昇った血を落ち着けるために、深く息を、吸った。
「そのいかにも軽薄そうなツラ、やめろ」
出てきた言葉は掠れて、いまにも千切れてしまいそうだった。怪訝な表情に白熱灯の淡い光が落ち、岡田はしばらく黙ったあと、ため息をついた。
「悪ぃけど、自分でもよくわかんねーから、やめろって言われても困る」
「不自然なんだよ」
「じゃあずっとお前みてぇに、仏頂面でもしてりゃあいいのか?」不機嫌を露わにした新庄の声に、珍しく興奮した様子で岡田は噛みついた。
「ンなこと言ってねえだろ」
「じゃあどうしろってんだよッ!」
甲高い声が夜道に響き渡り、空を突いた。ざわめきが、路の先から漂ってくる。「いまの岡田か?」「つかあいつ等何処だよ」湯舟の声に続いて、若菜が間延びした口調で放った。
「おぉーい! 岡田ッ、新庄ッ!」
湯舟が叫ぶのに舌打ちをして、新庄はからだの半分を表し、先に行ってろ、とジェスチャをした。
「えッ、なに?! いまなんつった?!」
「うるっせえよ湯舟! 放っとけよ。後で合流すりゃいーだろよ」
安仁屋の投げやりな言葉に湯舟は唇を突き出したが、やがて足音が遠のいていった。
「なんなんだよ、お前……」
冷たい壁に背中を凭せ掛けて、岡田は天を仰いだ。苛立っているのが、空気を伝う。新庄は改めて岡田を見据え、
「さっきみてーに、してりゃいんだよ」
と、ぶっきらぼうに放った。
はあ? と目をまるくさせ、力尽きた様子でずるずると、膝を折ってゆく。体育坐りの状態に落ち着いた岡田は興奮を醒まそうと、はぁあー、長く息を吐いた。
こんなふうに、自分をコントロールするのが巧い人間だった、昔から――新庄は彼を見下ろして、ようやく、胸に痞えていた岡田への異和が融解していくのを、感じた。
「溜め込んでんだろ。俺らみてーに、すぐ爆発しねえけど、限界まで抱えて、」
「そんなんじゃねーよ」
押し殺した声で、岡田が言葉を遮った。そんなんじゃ、ねえ。数回、同じ言葉を繰り返し、でも、と顔を上げた。
「そんなん、じゃなかったら、じゃあどうなんだっつぅ、さ。自分で自分がわかんねえとか、ばかみてぇだな」
へっ、と吐かれた嘲笑は自分に対するものに、新庄には見えた。
「好きっつって寄ってくる女、みんな嘘くせぇんだよ。俺がなんも言わないからだろーけど、つまんねえ男っつって消える。中学ン時、付き合ってた女と街歩いてて、空がきれーだなって言ったらそいつ、なんて言ったと思うよ? 『いつもそんなくだんないこと考えてんの?』だってよ。
そいつ、俺の何を見て告ってきたんだろーって思うと、なんかもう、全部が面倒で鬱陶しくって、ばからしいなって」
笑顔が、そんな切欠で貼り付いてしまったというのなら、切欠諸共剥いでしまいたい。曖昧な輪郭を形成している要素の一部ならばなおのことだ。それは過去の、けっして消せない事実であるとはわかっていたが、剥ぎたい、という衝動は自分の想像以上に強く、脈を打っていた。
「岡田、俺は、」
言いかけた途端、岡田は両手をこちらに向けて伸ばした。仕方なく手首を掴んで引っ張り上げると、手を離す間もなく痩身が倒れ込んできた。「サンキュ」岡田が上目遣いで瞳を覘き、呟く。何に、何が、どう「サンキュ」なのかわからなかったが、見た目よりずっと骨格のかたちのわかるからだが支えを求めているように傾いていく。
からだの内側で打ち続けている鼓動が烈しくなる。岡田は疾うに、それに気づいているのだろう。
頬に片手を添えると、短く生え揃った睫毛が上向いた。
「……キス、してえ」
ぼそっと呟くと、岡田は何も言わずに目を綴じた。唇を重ねたら、こいつは俺を好きになるのだろうか。そんな幻想染みたことを考えながら、新庄はからだを離した。ぱちっと目を開いた岡田が、「しねーの、キス」と言うのに、
「俺が無理強いしてるみてーで厭だ」
と、応えた。岡田にとってのキスの位置がわからない。挨拶程度にしか思っていないのかもしれないし、好きなヤツとしかしないと思っているかもしれない。いずれにせよ、彼の本心が知りたかった。心の底を、見てみたかった。
「つまんねーの」
背中を叩かれていまさらのように羞恥が襲ってきたが、もうどうしようもない。
「好きだ、岡田」
掠れ声が冷たい風に運ばれていく。ふたりきりの夜、学校からの帰り路、こころもとない告白だった。
「俺は、お前が、」
「俺も好きだ」
頬に冷えた指先が触れ、と同時に、唇を乾燥したやわらかいものが掠めていった。
不意討ちを喰った新庄がぽかんとしている姿を、目を細めて岡田は見据えた。
「つか寒ィ。あいつらもう、マック着いちまったかな」
視線はすぐに逸らされが、額に巻いたタオルから覘く耳が視界に這入り、思わずくちもとが綻んだ。
「耳、まっ赤だぞ」
「……うーるせー」
肩を竦めて乱暴に歩き始めた岡田を負い、新庄は触れ合ったばかりの唇を、指先で撫でた。
(12.0308)